東日本大震災の日、当然うちも物凄い揺れですぐに停電した。
子どもたちはまだ学校だ。
携帯はもうつながらないがメールなら通じているようだ。
2人の安否だけ確認してすぐに電気設備を管理している総合病院へむかった。
信号も全て消えて、大きな国道を横切らなくてはならないのだが難しい。
同じことを考えている人でクルマを横に並べてじわりじわりと前に出てトラックを停止させ横切った。飛ばして病院に到着した。
当然停電している。受付に駆け込んですぐに女性のかたに、院長と事務長を呼んでくれと頼んだ。頼むか頼まないうちに2人は受付に走ってきた。
事務長に、軽油をみんなで今のうちに買い集めて欲しいと話した。「大丈夫です。ドラム缶2本すぐに出入り業者に頼んで、何とか持ってきてくれるそうです。」そういわれてひとまず非常用発電機の燃料の心配はなくなった。
院長は「今ついている電気はあの轟音を立てている発電機から来ているものですか?」そう俺に聞いた。
「そうです。今ついているもの全て。ICUに入っている患者は居ますか?」
「2人います。じゃあ、あの発電機が止まったら終わりだ。」
俺は「そのとおりです。」
事務長は「燃料タンクに満タンにしてどれくらい回っているのですか?」
「3時間でからになるから、3時間おきにドラム缶から軽油を継ぎ足さなくてはなりません。電気が来るまで。」
院長は頭を抱えた。
「大丈夫です。電気が来るまで俺が発電機に張り付いて、給油しながら電気の復旧を待ちます。幾日かかるかわからないけど。今は。」
「それで、あの非常用発電機は定格運転時間は1時間なんです。いつオーバーヒート起こして止まるかわからない。電気工事店に話してありったけの持ち運び用の発電機を持ってくるよう頼んでください。たぶんそういう連絡が殺到しているはずだから早く!オーバーヒートを起こさないように出来ることは俺がやりますから、はやく!」しかし、発電機は一台も集まらなかった。俺が持って行った一台だけ。でもICUだけなら何とかなるかも知れない。
受電室に行き、シャッターを全て明けた。まるっきり外と同じ温度になった。エンジンの温度が上がってきたら、エンジンの収まっている箱(大きい)のドアを全部開けてエンジンを冷やそうと考えた。
その間、東北の仕事仲間に連絡メールを入れた。安否確認のために。
福島第一原発が事故っていることは、すぐにメールで仕事仲間から連絡が来た。第二原発も火力も全て止まっていると。栃木のほとんどが福島方面から電気が来ている。これは、、大変なことになるぞ。
福島第一の非常用発電機が水没して流されたと連絡が来た。女川は?そうメールをすると、数時間後に発電所は全部止まっている。津波で大変なんだ。
そういう情報が来た。福島第一は爆発するな。そう仕事仲間に伝わった。
俺もそう思った。発電所を動かすための制御する電気は他の発電所から供給されることになっている。停電したら、非常用発電機で原子炉を制御・冷却する決まりだから。冷却が止まったら、原子炉内の燃料は臨界を起こす。つまり暴走するということだから。電気屋なら皆知っている。だから爆発するなとおもったんだ。夜中の2時ころ、福島、宮城、岩手の仕事仲間から皆無事であるとメールが届いた。ほっとしたが、目の前の病院は大変だ。
夜中にエンジンの水温が上がってきたので、全てのドアを開けた。
あの晩は寒い夜だった。いつ電気はくるだろう。情報源はケータイだけだ。
16時間後に電気が復旧した。しかし、すぐに計画停電がはじまった。
俺はブログを当時ほかのサイトでやっていて、闘病記のランクで1位の女性と知り合いだった。ウェブ上での話。俺は東京が停電していないことを聞き、
茨城76万件、栃木が56万件停電しているから、東京の人にツイッターで節電してくれ、余った電力がこちらに来るようにと呼びかけた。その彼女は人気があるからフォロワーが多い。同じ呼びかけをしてくれないかと頼んだ。
快く引き受けてくれた。しかし、その呼びかけは、叩かれまくった。心が折れそうになるほど。
電気は足りている と。そう叩かれた。
ひと段落してから、ブログで知り合った福島のお母さんから、子供にさせるマスクが手に入らないと連絡があった。ボランティアでマスクをたくさん集め(放射性物質を通さないN95規格のマスクをダンボールでたくさんおくった。その年の秋、そのお母さんからたくさんのヒマワリの種が届いた。
「ヒマワリが放射性物質を浄化させると地元で言われ、みんなヒマワリを蒔いたのです。嫌だと思ったら捨ててください。」というメッセージとともに。
捨てないよ。人の善意は捨てない。その元気がまだ当時はあった。
計画停電の騒ぎの時に、左目が見えなくなってしまった。網膜が破れてしまった。詳しくはどこかに書いた。続いて病気になり入院した。
ブログで知り合った、一緒に節電を呼びかけ、たくさんそういう節電を
呼びかける記事を書いて公開してくれた女性ともお会いすることができた。お会いした時に「ブログに出てくる彼氏からプロポーズされたんですけど、いつまで生きていられるかわからないから悩んでいるんです。父も厳しい人で反対されるだろうし。」「結婚したい気持ちがあるならした方がいい。お父さんは必ず喜んでくれる。余命が少ない状況を理解していても喜んでくれるから。彼氏も余命を知っていてプロポーズしたんでしょう。」と背中を押した。しばらく経って結婚式の招待状が届いた。俺は行きたかったんだけれど、女房が激怒して行けなかった。まもなく、亡くなってしまったが。
世間では、たくさんのデマや、間違った情報が飛び交い、めちゃくちゃだった。
本当にひと段落してから、片親になってしまった子供への進学のための奨学金を貸しているところへ寄付を始めた。
何かしないでいられなかった。これもどこかに書いたな。
今は、カタリバという子供食堂をはじめとした色々なヤングケアラーの力になってくれるNPO法人に寄付をしている。ヤングケアラーは7人の子供のうち1人の確立で存在する。子供が飯も食えずに病気の親の面倒をみている。自分の居場所が無い。学校でも孤立してしまう。勉強なんかしている時間と余裕がない。特にご飯が食べられず、孤独な子供。そういう子供の居場所、ご飯の世話、勉強を見てあげる。そういう機会を子供にあげている団体だ。あと、地元で個人でこども食堂をやっているグループがあるので、そこへも援助をと考えている。
https://www.katariba.or.jp/
残ったお金はギリギリで寄付に回している。月に数万円。
それが俺が人生最後に出来ることだろうか。
自分の病気と闘いながら本当につらい思いをして稼いだお金は援助に使いたい。でも、自分の欲もあるけど、それと葛藤しながらなんだけど。
お礼なんてメールが来るだけだ。それでいい。有効に使ってくれれば。
ただ、俺いつまでもつかわからない。そういう志をもっていても死にたくなるし、他の欲もある。病気に負けてしまう。いや、まだ負けていない。
負けた時は俺がこの世から居なくなる時だ。
それはいつだろう? 明日か? 3年後? 10年後?いやそんな長くはもたない。今の状況を冷静に分析すると。相撲で例えれば、俵に足がかかって押し出されるのをこらえている状態だ。死ぬまでは生きる。そうとしか言えない。
自分自身も人も、永遠にいると普段は錯覚している。自分も人もいなくなる時は突然だ。
明日いなくなっても何の不思議も無い。
いなくなるのがわかっていれば、もっと合わせてあげたのに、あーすればよかったとか思っても、もう遅い。できる事は今やる。
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