風天道人の詩歌、歴史を酒の肴に

短歌や俳句の鑑賞を楽しみ、歴史上のエピソード等を楽しみます。
比べて面白い 比べて響き合う 比べて新しい発見がある

吹くからに 文屋康秀(比歌句 49 右)

2018年08月09日 | 和歌

吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ 文屋康秀(ふんやのやすひで)

 

山から強い風が吹いてくると秋の草木は萎れてしまいますね、だから、その山風のことを嵐と書くんですね。そして、野原も荒らされてしまうわけですよ。

 

この歌は漢字を嵐という文字の成り立ちを、今更ながら面白可笑しく歌っている。

この歌の真意は何なのか?

<昨夜の嵐は凄かったですが、皆さんご無事で良かったですね。>という挨拶の歌ではないだろうか。

嵐が去った後で聞くと、心を和ませる不思議な魅力を持った歌です。

本日の台風13号は、上陸せずに関東の海岸線を舐めるように進んでる。これからまだ、大雨の心配はあるのかもしれないが、嵐が吹き荒れた地方の皆様への挨拶代わりです。


短夜や 竹下しづの女(比歌句 48 左)

2018年08月06日 | 和歌

短夜や乳(ち)ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか) 竹下しづの女(たけした しづのじょ)

 

この句を読んだ時、勇気をもって子育ての大変な思いを詠ったのだと思った。だけれども、<須可捨焉乎>と表記したのは何故だろう?まあ、この句のポイントはそこだと思った。心には浮かんだけれど、面と向かって人には言いにくいことだからなのだろうか。でも、<すてつちまをか>は、下卑た(投げやりな表現の)俗語だ。待てよ。しづの女に、暗号めいた<須可捨焉乎>の文字が浮かんできて、それを解き明かしたら、<すてつちまをか>だったのではないだろうか。この<すてつちまをか>は確かに下品だが、限りなく大らかで明るい響きがある。

育児ノイローゼ(今は言い方が違うのかもしれないが。)を吹き飛ばすような明るさだ。

この<すてつちまをか>は、子育てに疲れた人の気持ちを転換させる呪文のような効果があるのではないだろうか。そして、夜を短く感じた寝不足も笑と共に解消されることを願います。


おうた子に 斯波園女(比歌句 48 右)

2018年08月04日 | 和歌

おうた子に髪なぶらるゝ暑さ哉 斯波園女(しば そのめ)

 

いやあ、今年の夏は暑い。日本の夏、金鳥の夏なんて言っている余裕はない。

私事だが、私の職場にはエアコンがない(隣室にはあるので、まるっきりの劣悪状況とは言えないのだろうが)。小さな扇風機が一台。毎日、大量の汗を掻きどうしだ。

それもあって、比歌句46で定家の<行きなやむ牛のあゆみにたつ塵の風さへあつき夏の小車>を挙げた。

しかし、子育てしているお母さんは、もっと大変なんだろうなと思う。

掲句は「おんぶしている子に髷をいじられてより一層の暑さを感じる」ということだ。

推測すれば、この子は生後五か月以上十二か月ほどの児ではないかと思う。

理由は、赤んぼの目が見えるようになるのが生後三か月からだが、積極的に物をいじくりだす月齢がそのころからではなかろうかと考えたからだ。そして、一歳なるとある程度、人への配慮ができるようになり、母親が嫌がることしなくなるのではないかと思う。

但し、これはあくなでも私の思い込みではありますが。

 

ここ二十年、“おんぶ”という行為が著しく減ったように思う。抱っこばかりだ。

“おんぶ”という子育ての文化はなくなってしまうのだろうか?

残念だなあ。“おんぶ”は初期縄文時代から綿綿と続いてきたのに。

何故それが分かるかといえば、おんぶしている格好の初期縄文時代の土偶が見つかっているからだ。

抱っこであれば、髪をなぶられることもないが、母親の脊中の温もりを感じることもない。


ゆるやかに 桂信子(比歌句 47 左)

2018年08月01日 | 和歌

ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜 桂信子(かつら のぶこ)

 

和服を緩やかに着なおしました。だって、これからあの人と一緒に蛍狩りに行くんですもの。

おおらかに散文に直せば、こうなると思った。

で、まあ、投稿しようと思ったのだが、何かが引っかかる。

その何かが分からなかった。

夕顔や女子(をなご)の肌の見ゆる時 と並べて面白いので、それで良いと思った。

でも、気になる。何だろう?そう思った。

千代女は、明るく色っぽい。信子の句は、色っぽさに気品がある。

 

今日、昼寝をしていたら、急に何が分からないのかに気づいた。

そうだ。着物を緩やかに着こなしている女性を知らないからだ。

目にする着物を上げてみる。

花嫁衣裳、結婚式に招かれた女性の着物姿(ここ20年ほどめっきりと減ったが。)、成人式に向かう乙女(まるで、昔のキャバレーのホステスさんような化粧だ。)、卒業式に行くと思われる乙女(うん、袴を穿いたハイカラさん)

この女性たちの着付けは、キャバ嬢仕様だとしても、きっちりとしている。

後は、そう、花火で見かける浴衣姿。そして、浴衣姿すらもきっちりとしている。(まあ、着くづれて、だらしなくなっていることもありますが。)

着物を緩やかに着こなしているいる人を見たことがないために、この句が理解できないのだということに気がついた。着物を緩やかに着こなす女性とデートしたいものだ。まあ、私よりかなりのお姉さんだろうけれど。

話は変わるが、私が小学1年生の頃(昭和30年代、オールウェイズの世界だ)、運動会の入場行進の練習をさせられたことがある。私は、緊張のため、体がカチコチになっていた。すると担任の先生から「右足を踏み出す時には、左手を振るのよ。左足を出す時には、右手。分かった?右足を踏み出したときに、右手を前に出したら、まるでロボットみたいじゃないの。」と優しく笑いながら指導された。

私も照れ笑いをしながら、歩き方を直した記憶だある。

年を取ったある日、「右足を踏みだしたときに、左手を振るようになったのは、明治になってからであることを知った。(小学校の体操の教練からだという。)」何故そうなったのかと考えたら、着ているものの違いだということに気がついた。

“ロボットみたい”と仰った先生は、たぶん、昭和一桁世代だ。その世代でも、旧来の日本人の歩き方を忘れている。きっと、日舞や能などを見て学ばなくては、旧来の所作が分からなくなってしまうのだろう。

「緩やかに着物を着こなす女性」、そしてその所作も希少価値になってしまうのだろう。


夕顔や 千代女(比歌句 47 右)

2018年07月30日 | 和歌

夕顔や女子(をなご)の肌の見ゆる時 千代女(ちよじょ)

 夕方になると肌が見えると言っているのだから、日中はしっかりと小袖(絽かな?)を来ていたのだ。夕方になり、女性が行水を浴びて浴衣に着替える。

夕顔の白さと女性の肌の白さが競い合っている。そんな場面を想像させる色っぽい句だ。