風天道人の詩歌、歴史を酒の肴に

短歌や俳句の鑑賞を楽しみ、歴史上のエピソード等を楽しみます。
比べて面白い 比べて響き合う 比べて新しい発見がある

緑陰や 竹下しづの女(比歌句 44 地)

2018年07月06日 | 和歌

緑陰や矢を獲ては鳴る白き的(まと) 竹下しづの女(たけした しのづじょ)

 

双羽石の<叩(たた)かれて昼の蚊を吐く木魚哉>に比べると、だいぶ上品だ。

 私なんかがこのような場面を詠めば

的を射て鳴る矢ぞ深き夏木立 

みたいな純粋な(まあ、凡庸な)表現になってしまう。

掲句では、的がまるで生きもののように反応しているような愛嬌がある。


叩かれて 夏目漱石(比歌句 44 天)

2018年07月05日 | 和歌

叩(たた)かれて昼の蚊を吐く木魚哉 夏目漱石(なつめ そうせき)

 

うん、面白い。確か、子規が漱石の句を難しい顔をして滑稽な句を作ると評していた。

擬人化というか、生なきものに生を与える、まるで神様のような手腕だ。

木魚を叩く場面に遭遇して、この句を思い出すと、とんでもないことになるかもしれない。

この回は、生なきものに生命を与えることが主題となる。

どんな句を予想されるだろうか?

 

叩(たた)かれて夜の塵吐く蒲団哉 風天


玉襷 柿本人麻呂(比歌句 43 人)

2018年07月04日 | 和歌

近江の荒れたる都を過ぎし時に、柿本朝臣人麿(かきのもとのあそみひとまろ)の作れる歌

 

『万葉集入門』より

http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu1_29.html

 

 

<玉襷(たまだすき) 畝火(うねび)の山の 橿原(かしはら)の

日知(ひじり)の御代(みよ)ゆ 生(あ)れましし 神のことごと 

樛(つが)の木の いやつぎつぎに 

天の下 知らしめししを

天(そら)にみつ 大和を置きて 

あをによし 奈良山を越え

いかさまに 思ほしめしか

天離(あまざか)る 夷(ひな)にはあれど 

石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の国の 

楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 

天の下 知らしめしけむ 

天皇(すめろき)の 神の尊(みこと)の 

大宮は 此処と聞けども 

大殿は 此処と言へども 

春草の 繁く生(お)ひたる 

霞立ち 春日(はるひ)の霧(き)れる 

ももしきの 大宮処(おほみやどころ) 見れば悲しも

 

美しい襷をかける畝傍の山の橿原の地に

都を為した天皇の御代からずっとお生まれになられた現人神のことごとくが

樛の木のように次々に

天下をお治めになられたのだが

天に充ちる大和を後にして

青丹もよい奈良の山を越え

いかなるご配慮からか

天道離れた田舎にはあるけれど

岩はしる近江の国の

楽浪の大津の宮に

天下をお治めになったと聞く

天皇(すめろき)の

大宮はここだと聞くけれど

大殿はここだと言うけれど

春草の生い繁って霞が立って春の日は煙っている

ももしきの大宮のあたりを見ると悲しいことです

 

九条良経の歌、丸尾芭蕉の句と響き合っている。

 

どこが響き合うのか?

「なにもない」ところに、自己の想像力で過去の姿を浮かび上がらせているところだ。

 

ついでながら、

淡海(あふみ)の海夕波千鳥汝(うみゆふなみちどりな)が鳴けば情(こころ)もしのに古(いにしへ)思ほゆ

の歌に関して、「万葉集入門」のサイト制作者・黒路よしひろさんは、

 

<この歌は柿本朝臣人麿(かきのもとのあそみひとまろ)が詠んだ一首。

「淡海(あふみ)の海」は「琵琶湖」のこと。

「古(いにしへ)」とは近江に京があったころのことでしょう。

 

「淡海の海の夕波の上を飛ぶ千鳥が鳴けば心もしなえるように昔のことが思い出されるなあ。」と詠うことで、かつての近江京の人々、そして壬申の乱で亡くなった人々の魂を慰めようとした鎮魂歌なわけですね。

人麿たち万葉集の時代の人々は、廃れてしまったかつての京や戦いで多くの人々の命が失われた場所にはそこで亡くなった人々の無念の魂が居付いていると信じていました。

そしてそのような場所を通る時には、この歌のように鎮魂歌を詠って無念の魂を慰めることで自らの身に悪しき災いが降りかかるのを避けようとしたのです。>と適切な解説をお書きになっています。>

 

いにしえに思いを馳せている小説を紹介しよう。

ルイ・ブラッドベリ『火星年代記』 2002年8月 夜の邂逅(早川文庫)

概略は以下の通り。

火星に移住したトマス・ゴメスが古い街道をドライブして、死滅した小さな町(廃墟)へと入った。

そして、見知らぬ火星人と出会った。その人の名はムーヘ・カー。

お互いがお互いを警戒しながら、話し始める。

トマスは湯気の立つカップを手に持っている。

「それはなんですか」とカーが問いかけた。

「一杯あげましょうか」と、トマスは言った。

「下さい。」

もうひとつのカップに湯気の立つコーヒーを注ぎ、差し出した。

二人の手が合い―霞のように―相手の手を通り抜けた。

 

・・・二人は時代を隔てた人と出会いだった。

「あなた方は侵入されたのに、あなたはそれを知らないんだ。どこかへ避難していたんじゃありませんか」

「避難なんかしていませんよ。どこにも逃げる必要もなかった。一体それは何の話です。今夜はエマニュエル山のそばの運河でお祭りがあるんです。それに出掛けるところです。ゆうべもそこへ行きましたよ。あの町が見えませんか」火星人はゆびさした。

トマスはその方向を眺め、廃墟を見た。「あの町はもう何千年も前に死滅したんでしょう」

火星人は笑った。「死滅か。わたしがゆうべ、あそこに寝たのに!」

そして、話がかみ合わないままではあるが、二人の間には数千年の時間差があることに気づいていく。

トマスは手を差し出した。火星人もそれを真似た。

二人の手は触れなかった。相手の手を通り抜けた。

「また逢えるでしょうか」

「分かるものですか。また、いつかの晩、逢えるかもしれない」

「あなたのお祭りにいってみたいな」

「わたしも、あなたの新しい町へ行って、そのロケットとやらを見たり、いろんは人からいろんな話を聞きたいですよ。」

「さようなら」と、トマスが言った。

「おやすみなさい」

火星人は緑色の金属の乗り物を操って、静かに山のなかへ去った。地球人はトラックに乗って、音もなく反対方向へ出発した。

 

 

「いにしえ」に思いを馳せる人がここにもいた。

 

古(いにしえ)の今 今の今 まだ見ぬ今よ 隔たる時の 恋人探し 風天

今、今と 今あることを 念ずとも 今あることの つかみ難かる 風天


人住まぬ 藤原良経(比歌句 43 地)

2018年07月03日 | 和歌

人住まぬ不破の関屋の板廂(いたひさし)荒れにし後はただ秋の風 藤原良経(ふじわらのよしつね)

 

『万葉歳時記 一日一葉』より

 

<もう関守が住まなくなった不破の関の番小屋の板廂

荒れ果ててしまったあとは秋風が吹き抜けるばかりだ

 

 藤原(九条)良経は平安末期から鎌倉初期にかけて太政大臣を務めた歌人です。不破の関屋は壬申の乱から3年後の675年に開設され、789(延暦8)年には廃止されてしまいました。荒廃してしまった関所のありさまに歴史の変転をみつめた一首です。さらに、時が下って江戸時代に入ると、松尾芭蕉もここを訪れ、九条良経の詠んだこの歌を踏まえた俳句を残しました。

秋風や藪も畠も不破の関  ~芭蕉 『野ざらし紀行』 >

http://blog.livedoor.jp/rh1-manyo/archives/31180631.html

 

<秋風や>の句よりも、<夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡>の方が、この歌と呼応していると思う。

季節も違い、詠んでいる場所も違うのだが、作者の心が響き合っている。

 

古(いにしえ)に馳せる思ひは各々の心の中のあはれなりけれ 風天


夏草や 松尾芭蕉(比歌句 43 天)

2018年07月03日 | 和歌

夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡 松尾芭蕉(まつおばしょう)

 

半世紀前のことだが、中学生の時、自由研究で友達と三浦一族のことを調べてみることにした。そこで、「衣笠山の合戦」の舞台となった「衣笠城跡」へと出かけて行った。

地図も持たず、何らの前調査もなしに訪れたので、こっちかな、あっちかなといった具合の危なっかしい散歩のようなものだった。

やっとたどり着いた衣笠山の麓で、「衣笠山の合戦」に関して記述してある碑文(説明文の立て看板)を見つけた。その内容をノートの書き写した。友達と三人で期待感を膨らませて山を登って行った。ところが、小高い山の頂上は住宅地になっていて、公園すらない。住宅地を右往左往してもなにも見つからない。ちょっとした空き地があって、そこには夏草が生い茂っていた。拍子抜けした中学生が三人、とぼとぼと言葉少なに山を下りて行った。

芭蕉が目にした光景もその中学生が目にした光景と同様なものであったのだろうと思う。

何が違うのか。芭蕉目には、していないものを心の中で再現する想像力がある。それはもう妄想力とも言えそうな史実(奥州藤原氏)への傾倒だ。

史跡へは史実をかみしめた上で、訪れることとしよう。

 

ついでに、山鹿素行『山鹿語類』より衣笠山の合戦でのエピソードを書き込んでおく。

源頼朝の挙兵に呼応して、三浦大介義明は平家に反旗を翻した。三浦一族は居城である衣笠城で平家方畠山重忠と合戦を行った。

初日の合戦で、義明は我が方に勝ち目がないことを悟った。そして、子息の義澄らに「佐殿(頼朝)は、生きておられるだろうから、城を落ちて、お助けするように。」と諭したという。

さあ、このエピソードの論趣は何だと思いますか?

 

私は、ここに素行が『論語』に不足している考えを補足しているのだと考えています。

『論語』で説くところの「孝」は確かにその通りだが、その逆は?惻隠の情というものがあります。そして「後人を恐れよ」とも言っています。しかし、親(老人)の生き様に関しては、触れていません。私は、孔子自身はどうだったかというと老いの生き様を覚悟を持って認識し、そのように生きたのではないのかと思っています。では、そのことを何故に孔子は語らなかったのか?

中国の古くからの考え方に、そのようなものがなかったからではなのでしょうか。

 

試しに「二十四孝」を読んでみると良い。(ウィキペディア 二十四孝の項より)

郭巨(かくきょ)の家は貧しかったが、母と妻を養っていた。妻に子供が産まれ、3歳になった。郭巨の母は孫を可愛がり、自分の少ない食事を分け与えていた。郭巨が妻に言うには「我が家は貧しく母の食事さえも足りないのに、孫に分けていてはとても無理だ。夫婦であれば子供はまた授かるだろうが、母親は二度と授からない。ここはこの子を埋めて母を養おう」と。妻は悲嘆に暮れたが、夫の命には従う他なく、3歳の子を連れて埋めに行く。郭巨が涙を流しながら地面を少し掘ると、黄金の釜が出て、その釜に文字が書いてあった。「孝行な郭巨に天からこれを与える。他人は盗ってはいけない」と。郭巨と妻は黄金の釜を頂き喜び、子供と一緒に家に帰って、さらに母に孝行を尽くした。

 

これは、すさまじい話だが、どの話も親の身勝手を子供が耐えて、親の望みを叶えようとする話ばかりだ。親が絶対であり、子供は親に従うことは当たり前とだいう上下関係で、儒教(中国古来からの思想)考えは成り立っている。

孔子も親がもし子供を殺そうとしたらどうすべきかという問いに、「逃げなさい。」と言う。何故なら、親を「子殺し」という重犯罪者にしてはいけないからだと。

 

素行は、日本ではそんなことはないと考えている。親と子は相互に助け合う関係であり、老いても自己のアイデンティティを持ち続けよと言っているのだ。

 

衣笠山の合戦のエピソードはそれだけではない。

三浦義明は、初日の合戦を終えると、その日敵方で一番働きの良かった者(名前は忘れた。)に、酒を届けさせ「本日の振る舞い天晴である。明日は、堂々と渡り合おう。」ということを伝えている。そして、翌日、見事に散った。

これは、武士としてのアイデンティティの実行である。

 

中学生の時よりもいくらかは、「衣笠山の合戦」についての知識を得られたものと思っている。