12月はなかなか更新できず、今年も残すところ半月です。
皆さん如何お過ごしでしょうか?
宮守町塚沢にあるこの塚沢神社の北側を走る国道396号線。
その道路を遠野から盛岡方面に走ると、家並みの北側にある山に神社が見えるのですが、
この神社は何と云う神社なんだろう?と興味を持っていたところ、今月3日、
やっと行くことができました。
神社の持主さんの家の敷地を通り、少しだけ山登り。
なかなか立派です。
この日、この建物の扉が傷んできたことや管理する都合などを考慮して、
中に安置してある権現様を地元の塚沢神楽さんがお預かりするということで
関係者が会して神事を執り行いました。
神事終了後、中の棟札の確認です。
明治35年のものが一番古いようです。
右から、天乃御中主神御堂上棟、招鎮不動尊九尺堂建立、招鎮荒谷神社多田氏祖霊神
屋船大神社殿屋根改造、 左側から2枚目がちょっと読めないですが、
最後が鳥居を造った時のもののようです。
右から3枚が同じ日付になっており、3枚共この建物に関係しているのか、
他のものも併せてこの日に神事を行ったのかはわかりません。
右から4枚の屋船大神社殿屋根改造の札に棟梁小原要作の名前があります。
見覚えのある名前だと思ったら、2008年に宮守町の砥森神社例祭の折、拝殿内で見た
昭和16年奉納御神鏡の台の彫刻師名が小原要作でした。
さて、本題の権現様、片耳が無かったのを修復したと聞きました。
裏側には天保15年の他日付と別当名があります。
この他に現在、塚沢神楽さんがお預かりしている権現様は2柱
今回、お預かりした権現様と2柱が写る写真の右側のものが似た造りになっています。
他に私が見たのは、塚沢神社の別当家の床の間にあった権現様。
昔の広報みやもりの「郷土芸能めぐり」によると、塚沢神楽は寛政年間(1789~1801)頃
から始まり、文政5年(1822)の権現様があり、その広報には3柱の権現様が写っていて
右側のものはそれ以前のものだと記されていました。
今回のものは天保15年(1844)であり、広報の3柱の残りひとつなのかはわかりません。
塚沢神楽の始まりの寛政年間辺りに何があったかというと、そのすぐ前が天明の飢饉。
岳の神楽の興行中に見込まれ、飢饉等で人が無い時は応援に駆け付けたと言伝えられている
ことを考えると、飢饉により里に下りて興行をする中で、塚沢にも神楽が伝えられ、
文政5年(1822)以降の天保の飢饉(1835~1837)にでも、塚沢が岳の応援をしたことが
あったのかもしれません。
と云うことで、
塚沢から戻って間もなく、嫁さん方の従兄が亡くなりました。
11月の初旬に顔色が変だから病院に行くよう会った人達から促され入院。
それからひと月で逝ってしまいました。
その後、故人の家の緊急を要する物の片付けをして、やっと一息。
故人父方のいとこに、お昼をご馳走になりました!店で食べるのは何年ぶりだろう?
そうこうして、身体の疲れがとれたかどうかのあたりで、今週水曜日は、
これでした!
46年前?にお世話になった先生を囲んでプチOB会
写真は当時の演奏会のLPレコードです。
参加したのは私の同級生4名の他は先輩方。先輩をたてたり、おろしたりしながら
夜は更け・・・
一番元気なのは、80歳を過ぎた先生でした。汗
ここひと月ほどの疲れもあったと思いますが、流石に今も・・・。
私自身、今年3月に無事帰還できたばかりであることを忘れた訳ではありませんでしたが、
ここのところ、無理をし過ぎている気がするので、自重したいと思います。