公開講座のメモです。
江戸時代の岩村田宿は江戸から数えて22番目の宿場町。内藤氏一万六千石の城下町であった。
甲州街道、小諸までの街道、上州下仁田までの街道の分岐点として、物資の輸送上の基点としてさかえてきた。
それでは、城下町というがどこに城があったのであろう。
新城というのが、現在の上の城、詳しくいうと、跡地は現在の岩村田小学校のあたりに「藤ヶ城」が築城され、明治以後は、岩村田県の役所庁舎、そして長野県に併合され、佐久市庁舎となった。
この土地に住む者として、新たな発見が次から次と知ることができる時間であった。
浅間山についても、実に興味深い話を聞けた。
約3万年前の大噴火で黒斑山から連なる第一外輪山が形成された。山の南側は崩れ熱泥流が発生、噴火による巨岩が佐久の地にも到達した。
それは、現在でも大きな焼石の岩として、あちこちに点在している。
また、この大噴火の前の浅間山の高さは3000mにも達していたようである。
大噴火は、1万年前にもあり、やはり火砕熱泥流が発生し、20mにも及ぶ軽石層が発生したらしい。
1281年にも、噴火があり、現在の前掛山(第二大輪山」)が形成されたとのことである。
第一外輪山、第二外輪山の呼ぶ方にずっと疑問を持っていたが、これで理由が分かった。
実に興味深いお話でした。
<浅間山の位置関係は下図参照>
<第一外輪山>
<第二外輪山>前掛山より