【このイベントに参加された方へ】
ごめんなさい、皆さまの掲載許可をもらっていませんでした。もし削除要請の写真があれば、「コメント」からお願いします。
でもできれば「全削除しろ」とかはご勘弁ください。お願いします。
まずは、今回このようなイベントを企画してくれた区界高原少年自然の家に感謝申し上げたい。
市の広報でこのイベントを知った私は今回、古道を歩いてみたくて参加しました。
14キロ歩くということだけど、まあ、なんとかなるかな、と。
出発は区界高原の道の駅。
車は都南総合支所に置いてここまでバスで送ってもらいました。バスって本当に楽チン。大好き。
時は秋。区界高原は盛岡よりずっと寒い。岩手県有数の寒冷地。
でも、天気はいい。
絶好のハイキング日和。まずは国道に沿って歩きます。
手前の黄色と黒のバーを越えていきます。
ここって、未舗装路だけど、ガードレールがある。ってことは昔は道路だったんだ…?
でもアスファルト敷いていないってことは…?どういうこと???
どうもここは昔の国道みたい。
参加者で昔のことに詳しい人に話を聞くと、約40年前(1970年)に岩手国体が行われるときに道路が整備されて今の国道ができたのだけれど、どうも、この道はそれ以前の国道らしい。ちょっと待て。
当時(昭和40年代)までの国道はこの狭さでしかも未舗装のガタガタ道だったってこと??
おじさん「昔は宮古に行くのにも時間がかかったからなあ」
私の心の声(時間かかるとかそういうレベルの問題じゃないじゃん。これ、車通れるの??オフロードカ―じゃなきゃ無理やん!!)
40年前の苦労がしのばれる…。昔の人って大変だったんだなあ。←この言葉をあとで死ぬほど後悔することになる。
っていうか線路渡るんだ!???(JR職員立会いのもと)
踏切のないところを渡るには事前の申請と許可が必要のようです。
確かに、そうですよねえ。これがあるからコーンバー(さっきの黄色と黒の「立ち入り禁止」を表すバー)があったんだ。なるほど。
ここから山道。いよいよ古道スタート!!!(テンション上がる)
と思ったら、
いきなりみんななんかの実を摘み始めましたよ。何?何?
なんすか?それ?
マタタビだって。猫が酔っちゃうっていういうアレ???
みんな食べてる!!??人がたべても大丈夫なの??えええ??(驚愕)
私は遠慮しました。酔っても困るし…。
それより、古道を歩く感動を噛みしめて行きたいと思います。
しかし、川沿いか…っていうか、
沢やん!!
道、グチャグチャやん!!
持ち物の中に「長靴」ってあったのはそのためか。トレッキングシューズじゃなくて、長靴を履いてきて本当に良かった。
秋の山道はとっても涼しくていい気持ち。
沢も気持ちいい。ちなみに、これ「梁川」らしいです。
しかし、昔の人は草鞋だけでこの道を歩いたのか…。
ちなみに、これは「さるなし」。皮をむくとと緑色のマスカットみたいのが出てきて、キュウイフルーツみたいな味がします。
(勧められて、断り切れず実食してみたら、意外にというかすごく美味しかった)
ちなみに、道のわきで見つけた、これ↓
「ぬた場」というそうです。鹿とかが体に泥をつけて虫よけや虫退治をするそうです。
しかし、なんども沢を渡る道です。
昔の人はよくまあ、(以下略)
梁川一里塚に着きました。
これぞ、この山道が街道であったことの証明。しかし、こんなところによく一里塚作れたよなあ…。
山の中じゃ木の根っこが邪魔でろくに土も掘れないだろうに。
しかし、こんな山中にあるからこそ、当時の様子を残した貴重な遺跡になっているわけです。
一里塚は原則、道を挟んで二基あります。塚の間が道であることを示し、人工物であることを示しているのです。
ちなみに、古くなって丸い形になってしまってますが、昔の整備された時代では四角い形に揃えられていたようです。
(すべて、ガイドの先生からの受け売り)
これは山の中でたくさん落ちているオニグルミ。この中にあの固いクルミの実が入っています。
外側は柔らかいので、イチジクみたいだなあと思いました。
さて、まだまだ山道です。
ひらすら歩きます。しかし、区界から盛岡に降りていく、基本下りの山道なのでそんなに苦しくはないです。
舗装路に出ました。いまがどの辺だかまったくわからないです。
↓たぶん、この辺。
一里塚はずっと奥なのに、こんなところに標識立ててどうするんでしょう…???
里山に出てきました。
そこからはしばらく舗装路です。
振り返ると、この道を歩いてきたわけです。
ここから里山の景色が続きます。
古い民家も点在します。ちなみに、こちら、人が住んでいるようです…(失礼ですいません。あまりに古いから空き家かと思った)
もう、稲は借り入れの時期。東北は早いです。
こういう石碑も本当に里山っぽくて好き。
で、南部曲がり家(なんぶまがりや)。感動です。
こんな立派な曲がり家に遭遇するとは!
たぶん、地図上はこの辺。↓↓
ちなみに、これは「マユミ」という草だそうです。何の植物かわかりません。ガイドの人がやたら詳しくていろんな植物の名前を教えてくれます。
これは、「ハシバミ」。「くちばしで食べる」の意味でしょうか?ヘーゼルナッツの味がするそうです。食べてみたい。っていうか、普通にへーゼルナッツ食べたい。
「マムシグサ」。模様がマムシに似ているからつけられたそう。
分岐点に来ました。庚申塔です。
このへんです。↓
庚申塔は道の分岐点に置かれることが多いです。60年に一度ある庚申(かのえさる)の年や庚申の日に講中(町内会みたいなもんか)で夜通し集まった日の記念に建てられるものです。
庚申の日は体の中にいる三尸(さんし)という虫が天帝にその人の悪事を報告に行くそうです。だから、その虫が出て行かないように夜通し起きていなければならないということです。平安時代からの日本人の風習です。
詳しくはWikiで→庚申塔のページへ
左手は新道です。「飛鳥」方面に抜けるそうです。
今まで来た道は右手になります。
で、また農村風景を行きます。
↓シダレカツラです。珍しい木です。早池峰山系にしかなかった木ですが、接ぎ木に成功して今では何か所かにこうして生やすことができました。
この家は昔の宿場の休憩所だったそうです。
門構えでわかるそうです。
大きく、立派な家ですもんね。
そして、長洞神社に着きました。
↓だいたいこの辺です。
一休み。
ここには江戸時代の相撲取り、山上作太夫の碑があります。
→詳しくはこちらに。「旧宮古街道街道探訪の旅」
盛岡に呪いをかけた力士か~~やめてほしいなあ…
だんだん人里に出てきました。「梁川郵便局」のあたりです。
分岐です。根田茂の方へ出るそうです。なんか前に行ったことがあるような気がする…。
山里だけあって、水がキレイ。
田舎のよい風情を感じます。
たとえば、この川岸の石垣もかなり昔に作られ、人々の暮らしを支えてきたのでしょう。
遠くには石碑のある墓所(壇の鼻)と建設中の高速道路が見えます。手前の田んぼは昔は馬の休憩所であったと推測される場所です。
宮古街道では荷物の運搬に馬を使っていたのですね。人が休むとき、馬をつなげておく「繋場」だったらしいです。
言ってみれば、新旧入り混じった景色ですね。
休憩場所の「梁川振興センター」に着きました。お昼休憩です。まだ、行程の半分。
ここはもと、小学校です。
昭和57年ごろに廃校になったらしいです。
お昼は豪華な弁当でした。ありがたい。満腹です。
午後に出発。軒先の犬が寝てます。天気が良くて本当に気持ちのいい日でした。
そして、旅は佳境へ。なんと、工事現場に入ります。
盛岡ー宮古横断道路の建設中です。平成32年度開通だそうです。
まさに天にも通じる道路、天空を走る橋になるのでしょう。
400年も前から、いや本当はもっとそれ以前から何度もかけなおされた盛岡ー宮古の道もこれが最終決定版になるのかもしれません。
道に何か落ちてました。
山ぶどうです。
そして、「曽利田一里塚」です。工事で山が削られて、新たな舗装路が一段下がったので、見上げるような形になってしまいました。はっきり言って、普通に通過するとまず気づきません。
もとの道は、こっち。ちょっと登らなきゃいけません。
これが、その一里塚なのですが、もとの形からかなり崩れているようです。そして、その上にはなんだか丸太小屋が…?(謎)
こうして、遺跡はなくなっていくのでしょうね。
そして、進みます。どうも旧道のようで、工事関係のダンプ以外はほとんど交通がありません。
採石場の近くに出ました。「天狗岩」の詳細は不明です。
ここから、未舗装の砂利道になります。簗場ダムの建設工事のようです。
申し訳程度に、こんな看板を設置したようです。
今まで見てきたものです。
未舗装のダンプ道路。歩くのがツライ。
ここも昔は普通の山道でわきを流れる沢から沢蟹が出て来たり、イワナがたくさんいたりした涼やかな道だったらしいです。
それが今は見る影もないダンプ道。時の流れ、開発というのは無情なものです。
ここはかつての「茶屋跡」いまは空き家のようです。
かつての沢もこんな状態ではねえ…。
見る影もない。
かつての旧道は「私有地」となり、通行禁止になり、
ダンプ道を歩きます。
だんだん、山道になってきました。
ここから「大倉峠の一里塚」への道に入ります。しかし、碑はあっても、一里塚は遥か先。
こっから登り口なのです。
もう、普通の山道ですね。
ひたすら登ります。
途中、鉄塔にでます。周りが刈り込んであるので、見晴らしがいいです。雄大な景色。
こうして、この山奥にダムが作られ、貴重な自然も遺跡も破壊されていくわけです。これが暮らしというものなのでしょう。
さっきのダンプ道を横断しなきゃいけません。
そして山道を進むと、ようやく「大倉峠の一里塚」。着きました。
山側の一基しか残されていません。谷側は…崩落したかな…?
ちなみに、またですが、ハシバミ。
分かりづらいですが、木になってます。
まだ、山道。登りは続きます。一里塚が山頂ではないようです。
ようやく、山頂に着きましたよ。
とはいえ、普通の登山のように「○○山 標高○○m」とかの看板があるわけじゃありません。まあ、街道だし当たり前か。
いままでの山が見えます。けっこう歩いてきたはずです。
あとは、もう下り。参加者も疲れてきて、どんどん口数が少なくなります。
山の北側斜面で暗いです。
谷側でのどを潤し、まだ、もう少し旅は続きます。
里山にでてきました。
もう、街道というか、あぜ道を歩くような感覚です。
道路に出たと思ったら、
また、山道。
民家の近くも通ります。集落というにはあまりに頼りない…。
ものっすごくぬかるむ山道を歩いて、ようやく最後の一里塚、「高畑一里塚」(たかばたけいちりづか)につきました。
長靴はいてきて、本当に良かった。足の中が蒸れるけど…。
一里塚の周辺は刈り込まれていますが、それ以外はクマザサの草原になっています。かつての街道もクマザサに覆われてしまっているわけです。
片側の一里塚はどうも鹿に崩された模様。蒐場(ぬたば)にしたか、土中の塩を求めたか…。
山道を抜けた後は、道路を歩いて、高畑公民館に向かいます。
↓ここが旅の終着点。どういうルートを歩いているのか、はっきりしません。すいません。もう、無我夢中で。
最後に赤いナナカマド。秋の訪れを感じさせます。
区界から盛岡に向かう14キロの旧宮古街道の旅はこうして終わりました。
とにかく、疲れた!!!
400年にわたる盛岡と宮古との道。そこには、たしかな人の跡がありました。
最後まで見てくれて、本当にありがとうございました。
(ちなみにこの日の行程)↓
【撮影日:2018/10/8】
ごめんなさい、皆さまの掲載許可をもらっていませんでした。もし削除要請の写真があれば、「コメント」からお願いします。
でもできれば「全削除しろ」とかはご勘弁ください。お願いします。
まずは、今回このようなイベントを企画してくれた区界高原少年自然の家に感謝申し上げたい。
市の広報でこのイベントを知った私は今回、古道を歩いてみたくて参加しました。
14キロ歩くということだけど、まあ、なんとかなるかな、と。
出発は区界高原の道の駅。
車は都南総合支所に置いてここまでバスで送ってもらいました。バスって本当に楽チン。大好き。
時は秋。区界高原は盛岡よりずっと寒い。岩手県有数の寒冷地。
でも、天気はいい。
絶好のハイキング日和。まずは国道に沿って歩きます。
手前の黄色と黒のバーを越えていきます。
ここって、未舗装路だけど、ガードレールがある。ってことは昔は道路だったんだ…?
でもアスファルト敷いていないってことは…?どういうこと???
どうもここは昔の国道みたい。
参加者で昔のことに詳しい人に話を聞くと、約40年前(1970年)に岩手国体が行われるときに道路が整備されて今の国道ができたのだけれど、どうも、この道はそれ以前の国道らしい。ちょっと待て。
当時(昭和40年代)までの国道はこの狭さでしかも未舗装のガタガタ道だったってこと??
おじさん「昔は宮古に行くのにも時間がかかったからなあ」
私の心の声(時間かかるとかそういうレベルの問題じゃないじゃん。これ、車通れるの??オフロードカ―じゃなきゃ無理やん!!)
40年前の苦労がしのばれる…。昔の人って大変だったんだなあ。←この言葉をあとで死ぬほど後悔することになる。
っていうか線路渡るんだ!???(JR職員立会いのもと)
踏切のないところを渡るには事前の申請と許可が必要のようです。
確かに、そうですよねえ。これがあるからコーンバー(さっきの黄色と黒の「立ち入り禁止」を表すバー)があったんだ。なるほど。
ここから山道。いよいよ古道スタート!!!(テンション上がる)
と思ったら、
いきなりみんななんかの実を摘み始めましたよ。何?何?
なんすか?それ?
マタタビだって。猫が酔っちゃうっていういうアレ???
みんな食べてる!!??人がたべても大丈夫なの??えええ??(驚愕)
私は遠慮しました。酔っても困るし…。
それより、古道を歩く感動を噛みしめて行きたいと思います。
しかし、川沿いか…っていうか、
沢やん!!
道、グチャグチャやん!!
持ち物の中に「長靴」ってあったのはそのためか。トレッキングシューズじゃなくて、長靴を履いてきて本当に良かった。
秋の山道はとっても涼しくていい気持ち。
沢も気持ちいい。ちなみに、これ「梁川」らしいです。
しかし、昔の人は草鞋だけでこの道を歩いたのか…。
ちなみに、これは「さるなし」。皮をむくとと緑色のマスカットみたいのが出てきて、キュウイフルーツみたいな味がします。
(勧められて、断り切れず実食してみたら、意外にというかすごく美味しかった)
ちなみに、道のわきで見つけた、これ↓
「ぬた場」というそうです。鹿とかが体に泥をつけて虫よけや虫退治をするそうです。
しかし、なんども沢を渡る道です。
昔の人はよくまあ、(以下略)
梁川一里塚に着きました。
これぞ、この山道が街道であったことの証明。しかし、こんなところによく一里塚作れたよなあ…。
山の中じゃ木の根っこが邪魔でろくに土も掘れないだろうに。
しかし、こんな山中にあるからこそ、当時の様子を残した貴重な遺跡になっているわけです。
一里塚は原則、道を挟んで二基あります。塚の間が道であることを示し、人工物であることを示しているのです。
ちなみに、古くなって丸い形になってしまってますが、昔の整備された時代では四角い形に揃えられていたようです。
(すべて、ガイドの先生からの受け売り)
これは山の中でたくさん落ちているオニグルミ。この中にあの固いクルミの実が入っています。
外側は柔らかいので、イチジクみたいだなあと思いました。
さて、まだまだ山道です。
ひらすら歩きます。しかし、区界から盛岡に降りていく、基本下りの山道なのでそんなに苦しくはないです。
舗装路に出ました。いまがどの辺だかまったくわからないです。
↓たぶん、この辺。
一里塚はずっと奥なのに、こんなところに標識立ててどうするんでしょう…???
里山に出てきました。
そこからはしばらく舗装路です。
振り返ると、この道を歩いてきたわけです。
ここから里山の景色が続きます。
古い民家も点在します。ちなみに、こちら、人が住んでいるようです…(失礼ですいません。あまりに古いから空き家かと思った)
もう、稲は借り入れの時期。東北は早いです。
こういう石碑も本当に里山っぽくて好き。
で、南部曲がり家(なんぶまがりや)。感動です。
こんな立派な曲がり家に遭遇するとは!
たぶん、地図上はこの辺。↓↓
ちなみに、これは「マユミ」という草だそうです。何の植物かわかりません。ガイドの人がやたら詳しくていろんな植物の名前を教えてくれます。
これは、「ハシバミ」。「くちばしで食べる」の意味でしょうか?ヘーゼルナッツの味がするそうです。食べてみたい。っていうか、普通にへーゼルナッツ食べたい。
「マムシグサ」。模様がマムシに似ているからつけられたそう。
分岐点に来ました。庚申塔です。
このへんです。↓
庚申塔は道の分岐点に置かれることが多いです。60年に一度ある庚申(かのえさる)の年や庚申の日に講中(町内会みたいなもんか)で夜通し集まった日の記念に建てられるものです。
庚申の日は体の中にいる三尸(さんし)という虫が天帝にその人の悪事を報告に行くそうです。だから、その虫が出て行かないように夜通し起きていなければならないということです。平安時代からの日本人の風習です。
詳しくはWikiで→庚申塔のページへ
左手は新道です。「飛鳥」方面に抜けるそうです。
今まで来た道は右手になります。
で、また農村風景を行きます。
↓シダレカツラです。珍しい木です。早池峰山系にしかなかった木ですが、接ぎ木に成功して今では何か所かにこうして生やすことができました。
この家は昔の宿場の休憩所だったそうです。
門構えでわかるそうです。
大きく、立派な家ですもんね。
そして、長洞神社に着きました。
↓だいたいこの辺です。
一休み。
ここには江戸時代の相撲取り、山上作太夫の碑があります。
→詳しくはこちらに。「旧宮古街道街道探訪の旅」
盛岡に呪いをかけた力士か~~やめてほしいなあ…
だんだん人里に出てきました。「梁川郵便局」のあたりです。
分岐です。根田茂の方へ出るそうです。なんか前に行ったことがあるような気がする…。
山里だけあって、水がキレイ。
田舎のよい風情を感じます。
たとえば、この川岸の石垣もかなり昔に作られ、人々の暮らしを支えてきたのでしょう。
遠くには石碑のある墓所(壇の鼻)と建設中の高速道路が見えます。手前の田んぼは昔は馬の休憩所であったと推測される場所です。
宮古街道では荷物の運搬に馬を使っていたのですね。人が休むとき、馬をつなげておく「繋場」だったらしいです。
言ってみれば、新旧入り混じった景色ですね。
休憩場所の「梁川振興センター」に着きました。お昼休憩です。まだ、行程の半分。
ここはもと、小学校です。
昭和57年ごろに廃校になったらしいです。
お昼は豪華な弁当でした。ありがたい。満腹です。
午後に出発。軒先の犬が寝てます。天気が良くて本当に気持ちのいい日でした。
そして、旅は佳境へ。なんと、工事現場に入ります。
盛岡ー宮古横断道路の建設中です。平成32年度開通だそうです。
まさに天にも通じる道路、天空を走る橋になるのでしょう。
400年も前から、いや本当はもっとそれ以前から何度もかけなおされた盛岡ー宮古の道もこれが最終決定版になるのかもしれません。
道に何か落ちてました。
山ぶどうです。
そして、「曽利田一里塚」です。工事で山が削られて、新たな舗装路が一段下がったので、見上げるような形になってしまいました。はっきり言って、普通に通過するとまず気づきません。
もとの道は、こっち。ちょっと登らなきゃいけません。
これが、その一里塚なのですが、もとの形からかなり崩れているようです。そして、その上にはなんだか丸太小屋が…?(謎)
こうして、遺跡はなくなっていくのでしょうね。
そして、進みます。どうも旧道のようで、工事関係のダンプ以外はほとんど交通がありません。
採石場の近くに出ました。「天狗岩」の詳細は不明です。
ここから、未舗装の砂利道になります。簗場ダムの建設工事のようです。
申し訳程度に、こんな看板を設置したようです。
今まで見てきたものです。
未舗装のダンプ道路。歩くのがツライ。
ここも昔は普通の山道でわきを流れる沢から沢蟹が出て来たり、イワナがたくさんいたりした涼やかな道だったらしいです。
それが今は見る影もないダンプ道。時の流れ、開発というのは無情なものです。
ここはかつての「茶屋跡」いまは空き家のようです。
かつての沢もこんな状態ではねえ…。
見る影もない。
かつての旧道は「私有地」となり、通行禁止になり、
ダンプ道を歩きます。
だんだん、山道になってきました。
ここから「大倉峠の一里塚」への道に入ります。しかし、碑はあっても、一里塚は遥か先。
こっから登り口なのです。
もう、普通の山道ですね。
ひたすら登ります。
途中、鉄塔にでます。周りが刈り込んであるので、見晴らしがいいです。雄大な景色。
こうして、この山奥にダムが作られ、貴重な自然も遺跡も破壊されていくわけです。これが暮らしというものなのでしょう。
さっきのダンプ道を横断しなきゃいけません。
そして山道を進むと、ようやく「大倉峠の一里塚」。着きました。
山側の一基しか残されていません。谷側は…崩落したかな…?
ちなみに、またですが、ハシバミ。
分かりづらいですが、木になってます。
まだ、山道。登りは続きます。一里塚が山頂ではないようです。
ようやく、山頂に着きましたよ。
とはいえ、普通の登山のように「○○山 標高○○m」とかの看板があるわけじゃありません。まあ、街道だし当たり前か。
いままでの山が見えます。けっこう歩いてきたはずです。
あとは、もう下り。参加者も疲れてきて、どんどん口数が少なくなります。
山の北側斜面で暗いです。
谷側でのどを潤し、まだ、もう少し旅は続きます。
里山にでてきました。
もう、街道というか、あぜ道を歩くような感覚です。
道路に出たと思ったら、
また、山道。
民家の近くも通ります。集落というにはあまりに頼りない…。
ものっすごくぬかるむ山道を歩いて、ようやく最後の一里塚、「高畑一里塚」(たかばたけいちりづか)につきました。
長靴はいてきて、本当に良かった。足の中が蒸れるけど…。
一里塚の周辺は刈り込まれていますが、それ以外はクマザサの草原になっています。かつての街道もクマザサに覆われてしまっているわけです。
片側の一里塚はどうも鹿に崩された模様。蒐場(ぬたば)にしたか、土中の塩を求めたか…。
山道を抜けた後は、道路を歩いて、高畑公民館に向かいます。
↓ここが旅の終着点。どういうルートを歩いているのか、はっきりしません。すいません。もう、無我夢中で。
最後に赤いナナカマド。秋の訪れを感じさせます。
区界から盛岡に向かう14キロの旧宮古街道の旅はこうして終わりました。
とにかく、疲れた!!!
400年にわたる盛岡と宮古との道。そこには、たしかな人の跡がありました。
最後まで見てくれて、本当にありがとうございました。
(ちなみにこの日の行程)↓
【撮影日:2018/10/8】
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