
6月の「浜松授業研究の会(夜の会)」に、平野先生が、4~5月にかけて取り組んだ図工作品を持ってきてくださった。
その色使い、その繊細さに圧倒される。
例えばこのあじさい。
どうやったら、こんなにあでやかなアジサイを全員に描かせることができるのだろう?
そこで、平野先生に、その指導方法をお聞きしてみる。
お聞きしたことをメモしたり、自分だったらどんな授業をしていくのかをイメージしたりする。
そして、実際に自分の指導でも同じ絵をそのイメージでやらせてみる。
が、平野先生と同じようなすてきな絵にならないのだ。
何かが違うと、感じてしまう。
何がちがうのだろう???
と、悩んでしまう。
それはきっと、あのとき平野先生が教えてくれたことの他に、大事な指示をおそらく平野先生は無意識にしているのだと思う。
平野先生の指導を追試してみて思うことは、その平野さんが無意識にしている指示はどんなものなのだろう??と言うことだ。
平野先生は、僕たちの質問に丁寧にそして情熱的に答えてくれる。全て手の内を見せてくれる。
でも、その通りに実践しても、決して平野学級みたいなすてきな絵にならないのだ。
そのエキスの部分は、実際に自分で追試してみて、失敗したり子どもたちと話し合ったりして徐々に身につけていかなければならないセンスのようなものかもしれないと思う。
今、平野先生のアジサイのまねをしている。平野先生の絵との違いを一番感じている部分は、アジサイの大きさだ。
私の指導しているアジサイは、画用紙からはみ出してしまうような大きなものから、画用紙の隅にちょこんと収まるような小さなアジサイまで様々だ。
しかし、平野学級のアジサイは、どれも見ていてちょうど心地よい大きさになっている。
平野先生は、そういうできあがりをきちんとイメージし、そういうできあがりになるように、追求の核である指示をきっと出しているのだ。
例えば「最初の一つの花びらの(がく)大きさは、この大きさにしなさい。」というように。
その最初の指示が曖昧だから、私の指導下のアジサイの大きさは、結果的にばらばらになるのだと思う。最初が肝心なのだ。
塵も積もれば山となる。
いつも、子供たちと夢中になって授業をしているので、いろんなことを話しているのかもしれません。ただ言えるのは、常に「到達点」を自分の中にもっていると言うことです。子供たちにどこまでを求めるか、自分が子供たちに求めていることはこういうことだ、と言うことを指示したり、やってみせたりしています。ただ、がんばれ!きれいに書け!では子供たちはイメージがわきません。授業を行うものが、その教科を好きになることも必要なことでしょうね。