
今日から2学期が始まりました。
体育館が耐震補修工事のため、本来運動場で始業式を行う予定にしていました。朝、7時前に出勤し、スピーカーやマイクやコードを用意しました。日は出ていませんでしたが、雨の気配はなく、いいスタートが切れそうだと嬉しく思っていました。
転校生が2人あり、その親子に学校のことを説明したり、担任と打ち合わせなどをしている間に、一気に空模様が危なくなりました。そして、8時には気が付くと雨が.....
仕方がないので、急きょ提案通りに、学年団ごとに音楽室で始業式を行うことにしました。1時間目は低学年。2時間目は中学年。3時間目は高学年です。
ただし、たまには、こうした学年団集会もいいなと思いました。こんなに、話し手と聞き手の距離が近いのです。いやでも真剣に考えながら自分の言葉を探して語らなければならないし、話し手の顔を見て聞かねばならなくなります。
特に校長先生は、同じお話を3度も話すことになりました。
校長先生を、このつぶらな瞳が、じっと見つめます。もちろん始業式の原稿はあるのですが、それに答えるべく、子ども達の息づかいや反応を見ながら、低学年には低学年らしくアレンジして話します。
すると、子ども達は「知ってる。」「北島康介だ。」と校長先生の言葉に敏感に反応し、答えます。その答えを「そうだよ。それはね....。」と紡いで原稿の内容をかみ砕き話していきます。
ああ、校長先生は、この子達に向かってご自分の授業をされているのだなと感じました。
内容は、かなり高度なものでした。「生と死について」です。甲子園やオリンピックの躍動感ある選手の姿は、まさに「生」です。しかし、終戦記念日の黙祷やお盆のように、夏休みは、「私たちと死」について考える良い機会でもありました。与えられた大切な「生命」を本当に大切だと感じるためには、その対極である「死」にも向かい合わなければならない。そのようなお話でした。
特に、校長先生が夏の旅行で訪れた、長崎の原爆資料館で見た光景を話したときの子ども達の目は、上の写真のように真剣でした。よく分からないけれど、何かとても大事なことを校長先生は伝えようとしていると感じていたのだと思います。
最後に校歌を歌います。本当なら、音楽の先生の指揮に合わせて歌うのですが、学年団ごとの始業式だと、音楽の先生がいません。そこで、急きょ、その場の先生で手分けして伴奏をしたり、指揮をしたりすることになります。
低学年では、内山先生が表現の時の指揮のやり方で、歌わせてくださいました。その時の子どのたちの歌う口の様子は、とっても生き生きとしています。熱演を続ける内山先生を見ながら、私たちが理想とする指揮は、4拍を規則正しく刻む指揮ではなく、このように表現を引き出す指揮なのだと確信しました。
内山先生の校歌の指揮は、ほんとうに歌声を引き出そうとする願いが入ったものです。子どもたちものっぺらと歌うことはできません。歌声に命が入ってきます。