
「おれ、へただから。」そういわれて困りました。
3年生の図工に出入りで入らせてもらっています。なかなか時間がなくて十分な指導ができません。でも、やっと1学期になって最初の大きな絵が完成しました。シャボン玉をふく私です。
隣の森島先生のクラスに、とってもいい絵がはってあるので、なんとか勝たないまでも、あまり見劣りのしない絵にせねばと、プレッシャーも感じていました。また、3年生になり、絵の具の使い方も教えなければならないので、かなり強引に絵の具の使い方、塗り方、水の使い方を指導しました。つまらなかったかもしれません。
でも、子どもたちの頑張りで、まずまずの作品になりました。
「明日は参観会だから、名札をつけて、お家の人に見てもらおうね。」
といったときです。K君が急にむくれ出します。
「おれ、どうせ下手だから。」
そういうと、だらだらして名札にマジックで自分の名前をわざと下手に書きます。
「とっても上手に描けたから大丈夫だよ。」
と言うのですが、いっこうにむくれた顔は変わりません。
「おれ、絵が下手だから、うまく描けないもん。」
「この絵、先生は大好きだよ。ほら、この紙にもう一度名前を書いてね。」
ふらっと教室を出て行きます。戻ってきて、さっきよりも雑に名前を書きます。
「下手でもいいじゃない。上手だったら、図工の勉強をしなくてもいいんだよ。まだまだ思い通りに描けないから学校で勉強するんだよ。」
「それに、私はKさんの絵、好きだなあ。色遣いが温かいし、それにこの、ふっとシャボン玉を拭いている顔がすてきだよ。こんな味のある絵は、Kさんじゃなくちゃ描けないよ。」
「だって、おらの兄ちゃんが、へたって言うんだもの。」
「下手じゃないよ。お兄ちゃんがどう言おうと、先生が上手っていっているんだからいいじゃん。」
「だめだよ。『へたくそ』って馬鹿にされるよ。『おまえは、どうしてうまく描けないのか。』って....................。」
怒りだし、そのうちに涙ぐみます。
「お兄ちゃんに、『馬鹿にしないで。上手だよ。』って先生からも言っておくから。」
「だめだよ。馬鹿にされる。」
「他のみんなが、Kさんの絵がへたっていっても、俺は君の絵が好きだ。それでいいじゃん。」と言うのですが...........................。
味があって、私は本当にこの絵、好きなのですが、その気持ち分かってくれないかなあ...................
子ども達の絵を、こんなふうに温かい目で見ていただけると、本当に嬉しくなります。
技術云々ではなく、その子の明るさや、その子の楽しい性格、その子のまじめさを見てもらえて、なんと幸せな子ども達でしょう!!
その通りのことを自分でも感じています。その辺りが酒井式の図工指導の限界の灘と思います。
ただ、絵の入門期の子ども達に、こういう絵がいい絵なんだという、いいイメージを植え付けるのにはうってつけの指導法だと思っています。
3学期には、ある程度自由に描かせることができるように、工夫してきたいものだと思っています。ぜひまた、気づいたことを指摘していただけると嬉しいです。
私には何よりKさんのことが気に掛かりました。
私は、高校国語科の教員に結局ならずにすませ、
加えて、totoro先生が積み上げて来られた実践を知っていませんので、
本来なら正面切ってコメントできる立場にはありません。
しかしそれでも。
否定されて押し潰された経験のある人の目は、
悲しみと怒りに満ち満ちており、前を向こうとする事には激しい抵抗を覚えるのでしょう。
その経験には、児童や大人といった別はありません。
彼らを前にしては説得の言葉も効果をなさないという事を思い知らされます。
抑圧された者の心理を理解しようと真剣に努めないとき、再び彼らを傷つけるのではないか、とも。
こう考えたとき、先生のこの言葉が私の心を暗くしました。
「味があって、私は本当にこの絵、好きなのですが、その気持ち分かってくれないかなあ」
自分の気持ちを、相手に、ましてや己の傷を反復する人に、押し付ける形になってはいなかったか。
彼を前にしたとき、彼の世界へと歩み寄ろうとする真摯さで、言動を取るべきではなかったか。
そしてそれは安易ではいかぬ。それでもなお、しなければならぬ。その方法を考え、考えていく必要がある。
私はこう考えているのです。
そして、4年半経った今、先生がこの出来事をどのように捉えなおしているのか。
私はこれからも考え、言動して参ります。
kさんは、もう本校を卒業しています。それに私は級外で、彼とは図工で週に一度会うだけでした。が、Kさんのことは、2年生の時の様子~6年生の時の様子まで、今でもよく覚えています。
星雲さんのおっしゃることの全てが分かるわけではありません。
が、私も、星雲さんがおっしゃるように、Kさんの心を解放したいと考えていました。それを週に1~2時間の図工の中で行うのは難しいことでした。少しでも、彼の中にあるよい面を探しては褒め、探しては褒めの連続です。何度否定されても。
その理由については、本音でいろいろ情報を出さないと同じ土俵上での議論になりません。しかし、個人情報をはじめ私たちにはこうした公の場で話せないことも多くあり説明が難しい部分もあります。
自己肯定感が育っていないKさんには、どんなに否定されても、まず指導によって彼のよい面を少しでも表に出るようにすること、すかさずそれを褒めることを心がけていました。また、支援員さんが、指導力があり母性の強い方だったので、算数の授業で彼にずっと寄り添っていただくように時間割を編成しました。
そうしたことを4年間続け、卒業する年には随分成長し、こうした言動もほぼ見られなくなっていきました。
彼については、話さねばならないことがいっぱいありますが、こうした場で公表できることは、この程度でしょうか?