totoroの小道

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ごんぎつねと教材研究

2013-10-13 08:35:40 | 4年 国語

ごんぎつねについて、インターネットでおもしろい記事を見つけた。
ごんぎつねの名前の由来についてである。

新美南吉のつけた原題は「権狐」だ。
「狐」は分かるが、「権」は何だろうという記事だ。
その記事では、「権」は「権太」からきているという。

さっそく辞書で調べてみた。

すると、「ごんた(権太)」という言葉が広辞苑にある。
ごんた【権太】
(浄瑠璃「義経千本桜」鮓スシ屋の段の人物いがみの権太の名に基づく)
 わるもの。ごろつき。
 いたずらで手におえない子供。

 大辞林にも ごんた 1 【権太】が載っていた。
〔浄瑠璃「義経千本桜」の「いがみの権太」から〕
(1)ごろつき。
(2)いたずらっ子。腕白小僧。
 
ごろつきを引いてみると
ごろつき
定職も定まった住居も持たずにあちこちをうろついて、弱い者をいじめたり、たかったりするならず者。無頼漢。ごろ。
 
つまり、ごんぎつねは、「いたずらで手に負えないならず者キツネ」という名前なのだ。
まさに、ごんぎつねそのものだ。

「いたずら」は国語辞典にはこのように載っている。
いたずら【〈悪戯〉】
面白半分に、人が困るような行いをすること。悪ふざけ。
ごんは、相手が困るだろうと分かっていて、わざと困らせることをしているのだ。
それも、朝から晩まで一日中。
名前だけでなく、実際のごんの行動も「嫌なやつ」なのである。
 
ちなみに、ごんは、小ぎつねとなっているので可愛らしく思えるが、子どもではなく大人だ。
「子」ではなく「小」なのだ。
なりは小さいけれど、大人なのだ。
子どものするいたずらなら可愛らしいところもあるだろうが、
大人がするいたずらは、たちが悪く、された方は怒りを感じるだろう。
まさに、ごろつきキツネなのである。チンピラみたいだ。
 
 

 さて、tossで有名な有田和正さんの本に教材研究について書いてある。

有田さんは、教材研究を3つに分けている。
「素材研究」「教材研究」「指導法研究」だ。
以下のように説明がされている。
 

 

「素材研究」
 成心なき一読者として、力一杯作品そのものと向かい合って読む。
子どもに教えるとか、どこがむずかしいとかいうような、「教師面」をしないで、一人の人間としてその作品と力一杯対峙する読み。
私はこの作品をこう読む。この作品をこう考える。この作品をこう批評する。
というように、自分自身の読みとして、読み取りの確立をはかる。
 この「素材研究」の確かさ、深さこそが、授業の成否を決めていく。
ここが弱く曖昧であると、子どもたちの様々な発言に対して、それを望ましく方向付けしていくことはできない。
 このような考えから、素材研究には半分以上の精力を注ぎ込んでいる。

「教材研究」
 素材研究に時間と精力を傾けてあれば、教材研究にかけるそれらは、30%で十分であろう。
 教材研究は、教師としての読み、教師としての研究である。何年生に向くか、どのぐらいまで読み取れるか等を研究し、何をこの教材で教えるべきかという、指導事項の明確化がこの段階での中心的な仕事となる。

「指導法研究」
 教室での授業を想定して、授業技法の研究を意味する。
発問、板書、助言、指名、形態、分量など、特定の具体的な子どもたちの実態に即した形で研究する。
この段階に至るまで、すでに十分な素材研究・教材研究が成されているから、もややここでは全勢力の2割程度を注げば十分に良いものができる。

素材研究で50パーセント、教材研究に30パーセント取り組んであれば、指導法研究は簡単だし
もはやこの段階になって悩むようなことはない。どのような指導法をとるにせよ、その授業は大きく誤ることはない。.....
そんなところだろう。

この「ごんぎつね」=「いたずらで手に負えないならず者キツネ」という読み方は、「素材研究」の範疇だ。
こうした知識なしで授業をすると、薄っぺらい授業になる。
薄っぺらい授業とは、自動的な学びであり、
よりよい素材研究が成されていると、追求的な学びが構築できるのだと思う。

 

先日、職員室で「スイミー」の一節について議論していた。
「小さな 魚の 兄弟たち」は 次のどちらかについて。(小さなは、どこに掛かるかについて)
小さな / 魚の兄弟たち
小さな魚の / 兄弟たち
だと、今は小さいけれど、やがて大きくなる小魚の兄弟であり
だと、元々小さく、これ以上大きくならない魚の兄弟ということになる。

この魚の兄弟たちは「いわし」という説と、「サンマ」という説がありますよ。
そうかあ。いわしだと元々小さいからだし
サンマはだんだん大きくなるから、だよね。
どっちだろう???
と、こんな具合に。
すると、それを聞いていた他の先生がこうおっしゃった。
「大きな魚が登場するよね。あれはマグロでしょ。」
「すると、マグロは回遊魚だから沿岸にいるイワシは食べないよね。」
納得。
つまり、スイミーの生息場所は、島や大陸の沿岸ではないのだ。
回遊魚が訪れる、大海原の中のどこかなのだ。

こんな読みが、素材研究だと思う。
いろいろな知識、時にはこうした雑学的な知識までも動員して読む。
これって結構おもしろい。楽しく読める。
決して、苦しく読むことが「素材研究」ではないのだ。
多くの発見をしながら、興味深く読むことが大事なのだ。 

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
なるほどね! (Mrヒデ)
2013-10-13 09:28:26
 昨日はありがとう。若い教師が本研究会の意義が理解でき、手応えを感じ、実際に自分の授業に役立ってきているとのこと、ほんとうによかったと思います。
 「ごんぎつね」のごん(権)ああなるほどね。「小ぎつね」と「子ぎつね」の違い。子どもたちに教えたり、考えさせたりするだけでもおもしろい。ほんとうに素材研究です。こんなことは、ほとんどの教師はやりません。
 有田和正さんは、おそらく斎藤喜博の教材の勉強に影響されていると思います。斎藤喜博は教材の読みを次のように書いています。まず、「一人の人間としての読み」次に「教師としての読み」そして「子どもを前にしての読み」です。
 酒井さんのブログ勉強になりました。多くの先生方に読んでもらいたいです。
返信する
Mrヒデさん ありがとうございます。 (totoro)
2013-10-13 11:59:23
昨日はありがとうございました。

今、どこのクラスでも行われている国語は
1.主人公の気持ちが分かるところに線を引きなさい。
2.線の箇所から分かる気持ちをノートに書きなさい。
3.友だちとノートを読みあいなさい。
4.友だちと交流して分かったことを発表しなさい。
5.まとめなさい

そんな流れです。

それとはちがう、教材を肴にして、知的で楽しい議論をしてみようと新採の先生に提案しています。
うまくいけばいいのですが、中途半端に教えると中途半端な先生になってしまいます。

追求方式を伝えるべきかどうか、迷う所以です。彼らの様子を見ながら判断していこうと思っています。
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