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カンボジアその1

2008-10-05 22:56:40 | 小春的〝小旅〟
私のつらすぎる歴史度   

カンボジアの歴史を自分の勉強をかね出来るだけわかりやすく書いてみますね。

第二次世界大戦前フランスの植民地でした。

  戦後1953年、世界の機運に乗じフランスから完全独立。シアヌーク殿下国家元首就任。

  1961年ベトナム戦争始まる←かんたんにまとめるとホー・チ・ミンが指導者で共産主義の北ベトナム  アメリカの傀儡(かいらい・・・あやつり人形。いわれるがまま)の南ベトナム政府の戦いだった。

  風見鶏シアヌーク殿下の思惑・・・最初アメリカが肩入れする南ベトナムが勝つと国境が接していて領土を取られるかも?と有名なべトコン←正式名(南ベトナム解放戦線)がカンボジアの領土内から南を攻めるのを黙認する北寄り。

 北が有利になってくると一転。何とアメリカによる自国カンボジアへの空爆を許可。べトコンのチカラを削ごうとする。早い話戦争に疲弊して南も北も自滅してしまえという姑息な考えで自国民が苦しむことになった。

 風見鶏シアヌーク殿下をアメリカが信じるわけなぁーい。中国に出向いた間隙を突きロンノル将軍にクーデターを起こさせシアヌーク殿下は帰れなくなる。

 自国を空爆するアメリカとロンノル将軍を当然カンボジア国民は憎む憎む。そんな時シアヌーク殿下の帰国実現を掲げ台頭してきたのがポルポトとクメールルージュ(ポルポト派)

 カンボジア国民の民意中国からの武器供給利害が一致べトコン=アメリカの息の掛かったロンノル将軍を制圧・・・シアヌーク殿下は帰れないままでポルポト政権となる。

 チカラを一手にしなければロンノルの二の舞と学習したポルポトはいつか自分に反対し敵になる可能性があると考え、教師や学者、医者などの知識人・金持ち・地位のあるもの全て虐殺。また都会に住む者全て山奥に追いやるなど手を血で汚す恐ろしい独裁者に。
一説には当時の全国民の1/3強、300万人以上が殺されたと(ちなみに今のカンボジアの人口は1400万人程度だそうです)言われています。殺し方も残酷のきわみ。

*ご自分は気が弱いと思われる方は以下3.4行飛ばし読みしてくださいね。

日本でも昔敵方の武士の首をはねる時、憎しみが強いと刀の刃をわざとこぼれさせ一瞬で切って死なせるのではなく痛み苦しみを長引かせたと聞いていますが、カンボジアではギザギザのバナナの葉で首を切ったそうです。一日近くかかる公開処刑だったそう。聞いているうちあまりのむごさに鳥肌が立ってきましたよ、ホント。
他にもあるある悪行の数々 
世界遺産アンコールワット・アンコールトム他ほぼ全ての仏像や寺院破壊
全ての学校を廃校に
全ての私有財産没収
全ての子供に集団生活強要
全ての信仰禁止
全ての貨幣流通停止

 恐ろしい4年弱の時代が終結を迎えたのはヘム・サムリン(カンボジア救国民族統一戦線)・・・名前は聞いたことあるけどいまいち  の方も多いのでは。元はクメールルージュ(ポルポト派)だったけれどこれは違うだろう  と反旗を翻した人たち  ベトナム軍の支援でした。

 しかしご存知のように傷跡はカンボジア中に今も深く残っています。破壊された遺跡。 多分国民の数よりも多いとされる今も埋められたまま地雷  知識人が多く殺されたため時代を担う子どもたちを教える教師がいない。国の繁栄の礎の知識人が極端に少ない。

この世で一番怖いのは自分の地位を他の誰にも渡したくないと考え、そのための手段は選ばない人間が大きな力を持ったときだと感じますね。 

こんな過去を踏まえてのエピソード1。

現地で遺跡のガイドをしてくれたミアンさん(男性)やはりポルポト派にエンジニアだったお父さんを殺された過去があります。お母さんも知識人ですが、たまたま結婚して家庭に入り職業を持っていなかったため助かったそうですが、全ての財産も没収され大変な苦労をされたそうです。

たぶん良いご家庭の出だと思うのですが、ミアンさんは正式な学校は出られずに働きながら民間の学校を出て日本語を習得し今の仕事に就いたそうです。英語も流暢なようでした。きっとこちらも努力して身につけられたのだと思います。夫を亡くしたミアンさんのお母さんも今はマシマティックス(数学)をおしえていらっしゃるとのこと。そして今は幼馴染の奥さんと家庭を築き4人の子ども(10歳娘・8歳息子・5歳息子・2ヶ月娘)を持つお父さんですって。
4人は子どもの数として多いほうか聞いてみましたら田舎だと10人ぐらいで首都プノンペンや世界遺産アンコールワット・アンコールトム他遺跡の町シェムリアップだと4人が平均だそう  
ローマ時代ではなく近年の同じアジアでこんなことがあったのですね。自分の国は平和だから  はどうなんだろうと思いましたね。

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