ウォーキングと旅行でのひとり言

黒田官兵衛と御着城跡

N H K の大河ドラマ「黒田官兵衛」をやっているときは、地元の播磨にいながら、御着城跡に行ってみようと思わなかったのですが、最近、ついでもあったので御着に行ってみました。JR御着駅から徒歩10分ぐらいで着きます。着いた時は、ちょうど二の丸にあたる野球場で少年たちの元気な練習の掛け声が飛んでいました。本丸跡には、姫路市の東出張所が、城に似せた姿をして建っています。




黒田官兵衛ゆかりの地の旗がなびき、御着城本丸跡の石碑があり、ハリボテの人形の顔の部分だけをくりぬいた写真撮影用のものなど、まだ、大河ドラマをやっている時のものと、考えられるものが残っていました。



黒田官兵衛は若い時にこの城の主小寺政職の近習となり、さらにその後、家老を務めました。黒田家が勢力を増して行く過程の出発点です。残念ながら、小寺政職の考え違いによって秀吉を裏切り、官兵衛を裏切って、滅亡することになります。官兵衛の本当の能力を知っていたら、政職人生は変わったであろし、日本史の教科書も変わっていたでしょう。姫路市の東出張所に向かってほんの少し左へ行くと、黒田家の廟所があります。官兵衛の祖父重隆と母の墓です。建物も墓もすごく立派であると思いました。



さらに、姫路市の東出張所の裏にまわってみたら、立派な石の橋がありました。これは、移設されたもので、もとは、旧山陽道の天川に1828年、姫路藩によって築造されたものであり、竜山石による総石造りの
太鼓橋で、全長26.6m、幅4.45m、高さは約5mです。重要な場所の橋なので、姫路藩の威信をかけた工事だったと思います。




その後、黒田官兵衛は秀吉の軍師として活躍し、中津城を与えられ、その子長政は関ヶ原の戦いで活躍し筑前福岡城を与えられます。最後に、長政が、没落した小寺政職の子の氏職を迎え入れ、その子孫は代々福岡藩士として仕えます。御着城跡本丸付近には、堀や土塁跡と思われる痕跡がわずかばかり残っているとのこと、確認はできませんでした。大河ドラマの場面を思い浮かべながら、配役の顔を浮かべながら、楽しい時間を過ごせました。
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