「農村カフェ 記憶(旧田住家)」の前からブログを続けます。
ここ旧田住家は、宮本武蔵と関係が深いです。
武蔵の生母は天正12年に亡くなります。父無仁斉は後妻を「平福別所家」からもらいますが、武蔵はこの母に育てられました。
父も、天正18年に死亡しますが、この生母は平福に戻り、後に「田住氏」に再稼しました。
武蔵は連れ子となって、田住家での食客となり、母と共に暮らして成長します。
私も若い時、「吉川英治氏」の本に夢中になって読みふけったのを思い出します。非常に情熱的な本だったと記憶してます。ひきこまれていって時間を忘れました。
黄色の線に沿って歩きます。
しばらく行くと、「金刀比羅神社」があります。
海上の安全を守る神であり、雨乞いの神でもあります。
それで、航海に関わる人だけでなく、農業関係者にも信仰されているのですね。
すぐ隣に「本陣跡」がありました。
「鳥取池田藩」の本陣跡です。現在は素盞嗚神社の「お旅所」になっています。
ここからゆっくり町屋を見ながら歩いていると、素敵な建物に遭遇しました。
料理旅館だそうです。
この宿場町は南北1200mの区域の300戸余りの家の約8割に屋号がつく商人の町です。
この旅館の河内屋も屋号だと思います?
ここから「陣屋門・代官所跡」を見に行きました。
江戸時代に、小藩の城や代官所のことを「陣屋」と呼びました。
利神城の廃城後、ここは松平氏5千石の旗本領となり代官支配になります。(昔の時代劇の映画に出てくる代官所の場面を思い出しました。)
この地の陣屋門は1864年に代官「佐々木平八郎」によって建築されたそうです。
もとの通りにもどります。ゆっくり、のんびり歩きました。
好きな風景があったので、思わず、少し家の中に入らせてもらって、写真を撮りました。
さらに歩いていると、「瓜生原家」にきました。
享保年間に、津山から移り住み、屋号は「吹屋」と言います。
昭和の初め頃まで鋳物業を営んでいたそうです。現在は、ごらんのような休み処になっています。
地図の黄色の線に沿って、「六地蔵」を目指しました。ずっと宿場町の端の方まできたと思います。
金倉橋の近くです。
金倉橋の西側は、江戸時代の平福藩刑場と伝えられます。供養のために建てられた「六地蔵」と「南無阿弥陀仏」の念仏碑がありました。
1596年、武蔵の13歳の時に、初決闘をしたそうです。
相手は、新当流「有馬喜兵衛」です。
「何人なりとも望みしだい手合わせいたすべし、われこそ日下無双兵法者なり」という高札をみました。
武蔵は、一刀のもとにたおしたそうです。
もときたみちを瓜生原家の方へもどり、その横の小さな路を通って、佐用川に沿った通りに出ました。
河原の通りをいったりきたりして景色を充分楽しみました。
平福は1596年から1623年に城下町として発展し、現在の街並みがつくられました。
しかし、その後わずか30年で城下町は終わり、宿場町へと生まれ変わります。
佐用川沿いの石垣に並ぶ川座敷、土蔵群は、平福ならではの景観で、この辺りでは特に有名です。
ここから、平福駅にもどり、1日の小旅行を終えました。
次回は、「岡山の小京都 津山」に行きます。
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