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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

手紙を書く

2025-01-22 23:14:43 | つぶやき

 新年早々「年賀状じまい 後編」において、「「年賀状」ではなく、自分スタイルの新年のあいさつに変えれば良いだけのこと」と書いた。そして「もう少し歳をとったら、そんな仕掛けに変えていきたい」とも。その後6日ころ新たに年賀状が届いて、遅くなったがもちろん返信は投函した。しかし、あまりに遅い年賀状となってしまったため、あらためて「自分スタイル」ではないが、手紙を書くことにした。近ごろはメールで返信すれば早いし、字のきたなさも目立たないから楽なのだが、あえて手紙を書くことを選択した。ということで、久しぶりに手書きの手紙を書くことに…。最近は、もし手紙だとしてもワープロで印刷して出していたから、本当に久しぶりだった。もちろん半世紀近く前は死語となった文通好きだったから、面倒とも思わないが、なにしろ年老いてくると漢字を忘れているし、勢い文字を間違えたりする。なかなかワープロで文字を打つようなわけにはいかない。

 とはいえ、実は最近はワープロも、かつてのように早く打てない、というか文字を間違える。文字を羅列していく順番をよく間違えるのである。したがってこの頃、backspaceキーを押すことが多い。なんだかしらないが、最近のパソコンは昔のように思うような漢字変換をしてくれない。ようは思うような文章を書くには時間がかかる。単純に年老いた、だけではないと自分では言い訳をしている。先ごろ提出した原稿も、初校があがってきて読み返していると、あまりに程度の低い間違いをしていて、「こんな間違いをするはずがない」と印刷屋のせいにするが、あらためて原稿をパソコンで開くと、確かに間違っている。情けない事実である。

 さて、その後も数通手書きの手紙を出している。いずれも年賀状のお詫びのようなもの。さすがに茶封筒では、と思い便せんや封筒を買い足そうと文具を売る店に行ってみると、ちょっと気の効いたものを買うと、1000円くらいしてしまう。そこへ値上げされた郵便料金となると、手書きで手紙を書くのも、もはや贅沢な世界だ。だが、手紙をもらう方の気持ちになってみればどうだろう。もちろん年老いたわたしの捉え方であって、若い人は無駄だと思うのだろうか。カタチ、モノにこだわってきたわたしたちとは、世界が全く違うように見えるこの後の世界。そもそも年賀状を「出す」という意図が意味不明なら、手紙を書くなどと言う行為は選択肢から消滅しているのだろう、若い世代からは…。今こそ、「手紙がいい」とわたしは思う。

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〝山の神〟再考 ⑤

2025-01-21 23:41:28 | 民俗学

〝山の神〟再考 ④より

 

 高遠町藤沢荒町における山の神講の現在について触れたが、ここでは必ず芋汁を作って食べる。加えてかつては兎の肉を食べたというが、『長野県史』において「何を食べるか」という聞き取りはされておらず、祭りで必ず作るもの、食べるものははっきりしない。供え物で把握するしかないわけで、ここでは祭りでの供え物を地図にしてみた。実は調査表には「食べ物」をまとめた欄もある。しかし、それは東信を除いた3地区の表であり、東信の表には「供物」とある。ただ東信以外の「食べ物」欄にまとめてあるデータをみてみても「食べ物」というより「供物」の答えに近く、はっきりと「食べ物は何をつくりましたか」と聞いた回答とは考えられない。したがってここではあくまでも「供物」として捉えた。

 供物のうち洗米や酒といったふつうに神様に供えられるものについては省いた。ようは特徴の表れそうなものをまとめてみたわけだが、地図からもわかる通り、あまりはっきりした地域差を表すには至らなかった。シロモチ、カラコ、オハタキは、いずれも生米を水に浸して粉にして丸めたもので同意として捉えた。海のものについては、「魚」と表記されていると必ずしも「海のもの」とは限らないが、凡例上同意としてまとめた。野菜も洗米や酒同様にふつうに神様に供えられるものなのでここでは外すことも考えたが、目立たないように図には表してみた。その上で図に地域性を見いだすなら、シロモチやカラコといったものは奥信濃など北の県境地域にも見られるが、主たる分布域は県南部と言える。事例数は少ないが五平餅が中信から南信に掛けて点々と分布する。あとは点々と全県に分布する事例で、地域特有性は見られない事例と言える。食べ物とは別に弓矢があるが、これは「〝山の神〟再考 ③」で示した図「山の神の祭りの弓矢」の方が正しいのかもしれない。あくまでも調査をまとめた表の供物欄に記載されたデータでここでは作成したもの。あえてそのデータのみで作成した本図から言えることは、上伊那や中信南部にのみそれは表れている。

 さて、高遠町藤沢荒町では芋汁を作ったわけであるが、実際のところ芋汁を山の神に供えるということはしなかった。直会の料理として必ず作られているもので、ここで示してみた図と必ずしもリンクしないが、長野県史調査データの中に芋汁という単語は発見できなかった。ようは荒町独自の風習と考えられる。

続く

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道祖神とゴミ収集場

2025-01-20 23:14:09 | 民俗学

 1月11日に「令和7年オンバシラ」を記し、その際安曇野市三郷一日市場下町のオンバシラを紹介した。当日は長野県民俗の会第244回例会が開かれたわけであるが、オンバシラは道祖神の祭りであり、道祖神の脇に建てられる。一日市場下町のオンバシラもかつては道祖神の脇に建てられていたというが、現在は少し西側の車の往来が少ないところに建てられている。道祖神のある場所は県道沿いで、車の往来が激しい。このオンバシラを訪れた際、「道祖神のある場所はゴミ収集場になっている」と話題になった。まさに一日市場下町の道祖神の横が収集場になっている。車の往来が激しいのになぜゴミ収集場になっているか、違和感があったことは言うまでもない。オンバシラの建てられるさらに西側には集会施設があって、そこにもゴミ収集のスペースが確保されているようだったが、あえて車の往来が激しい道端にそうした空間が設けられたのか、それほど道祖神とゴミ収集場は関係性がなくてはならないのか、といった話題に繋がった。

 その後柱立ての現場をいくつか見て歩く中で、同じような事例はほかにも見られた。例えば辰野町羽場中村のデーモンジである。ここの道祖神の真横が、やはりゴミ収集場なのである。みなが利用しやすい空間が、やはり道祖神の建てられている場所、ということになるのだろう。一日市場下町の場合、今でこそ車の往来が激しくて「危ない」場所になってしまっているが、かつてはみなの集まりやすい場所ということだったのかもしれない。もちろん安全を考慮して場所を移動することも必要なのだが、あえていまだ場所を維持している理由を聞きたいところである。羽場中村では、14日にデーモンジは建てられる。それまでは竹が横たえられていて、そこへ厄年の人が扇を結び付けていく。ゴミを出しがてら厄を落としていく人はいないかもしれないが、「厄を落とす」=「ゴミを捨てる」、考えてみれば同じような心持ちなのかもしれない。

 

安曇野市三郷一日市場下町道祖神

 

辰野町羽場中村道祖神

 

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〝山の神〟再考 ④

2025-01-19 23:34:44 | 民俗学

〝山の神〟再考 ③より

 水神ほどではないが、里から山へ入ると山の神と称されている祠を目にすることはよくある。『長野県史』の調査地である飯島町石曽根の事例には「山の神を鎮めるため今は飯島区で合同して祀っている」と記されている。飯島区の西山裾のうどん坂を上り与田切川源流へと山道を走ると、道端に「平澤山の神」という社が祀られている。これがここでいう飯島区で祀る山の神社であるが、こうした大きな山の神とは違い、小さな山の神は各地に祀られるが、前回も記したように、山とのかかわりがなくなって忘れ去られそうな山の神であることも事実である。

 旧高遠町藤沢の荒町では、今日「山の講」と言われる祭りが行われた。前回山の神の祭りの呼び名の図を掲載したが、長野県史のデータからは高遠町近在に「山の講」という名称は分布せず、むしろ「山の神の祭り」といった記号が目立っていた。この荒町で行われている現在の山の神の祭りについて見ていこう。

 荒町ではかつて4つの山の神講があったという。しかし現在も祭りを行っているのはさまざまな姓がの方たちで作る講のみ。ほかの講はどちらかというと同姓の人たちによって編成された講だったという。ちなみに荒町の現在の戸数は27戸といい、かつて多かった時は64戸ほどあったというから、ほぼ3分の1まで減少している。ここの山の神講は、昨年まで講員は7戸だったが、今年から移住された方が1戸加わって8戸となった。午前9時に荒町にある公民館に講員が集まると、広間の正面に「大山祇の命」と書かれた掛軸が掛けられ、まず皆でお茶をいただく。当番に当る御当屋(オトーヤ)の挨拶で山の神講は始まる。男性は弓と矢を作り、女性は芋汁と肉を入れた汁を作る。もともとはオトーヤで行われたが、公民館ができると公民館で行うようになったという。過去の経緯については後述する。また男性のみの祭りだったが、現在は女性も加わっている。講員の減少もあるだろうが、時代や環境の変化に伴って変えてきたようである。

 弓はもともとはヨウズミの木を利用したというが、近年竹に変更した。ヨウズミの木を選ぶのには少し経験もいるようで、若い人たちでも手に入れやすい竹にしたようだ。4尺ほどある青竹を4分割にし、4つの弓にする。持った時に手に刺さらないように割った竹は節を取り、割った面は綺麗にする。弦にはバインダーの紐を利用しているが、昔は藁を綯ったものだったともいう。矢は茅を利用したが、これも理想の材料が手に入りずらくなったため、近年竹に変えた。数年前にもらった竹が残っていて、今年はその竹を利用して矢を50本ほど作ったが、一人3本作ると言われている。ここでいう一人とは、かつては1戸当り一人が参加したため、1戸3本と捉えられるのだろうが、現在は一人3本という捉え方のようである。

 弓矢と芋汁などの準備が整うと、弓矢と洗米と御酒を持って貴船神社裏の山の神の祠へ向かう。今年は祠のある尾根に登ったのは男性のみだったが、年によっては女性も登り弓を射る。山の神の祠へ洗米と御酒を供えお詣りすると、神酒を頂く。そしていよいよ弓を射るわけである。恵方に射ると言われており、今年の恵方である西南西ら向けて一斉に弓を射た。その最「あたりー」と言って弓を射、その弓が木の枝に載って落ちてこない方が良いとされている。葉の落ちた木に向かって落ちてこないように射るのは難しいと思っていると、意外に枝に引っかかったり、中には木に刺さって落ちてこない矢もある。祠の前で矢を射た後、弓と矢を1対山の神に供え、山を下りると貴船神社境内で再び矢を入り、貴船神社に参拝後再び御酒をいただき公民館に帰り、直会となる。

 

令和7年1月19日撮影

 

続く

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〝山の神〟再考 ③

2025-01-18 23:27:39 | 民俗学

〝山の神〟再考 ②より

 山の神の祭りの呼び名についても『長野県史民俗編』総説Ⅰの「民間信仰」の節「山の神の祭り」の中で「山の神-祭りの呼び名-」と題した民俗地図にして県内の分布が示されている。あえて同じことをわたしも作図してみたわけだが、驚いたことに分布の姿に地域性を見いだすような記号を選択していたら、結果的に似たような記号を拾うことになった。先般の長野県民俗の会第244回例会(1月11日開催)において、民俗学会でグループ発表したことに触れ、この後のことが雑談で話題になったが、福澤昭司氏は「結局いろいろ図を作成してみたが、『長野県史』以上の図を示すのは難しいかもしれない」というようなことを口にされた。確かに今回の図を作成してみて、結果的に同じことを提示しているとすれば、同じことのトレースに過ぎないことになる。ただし、GISを利用することによってほかの図と重ねることはできる。そのメリットを利用して新たな発見をすることが求められることになるのかもしれない。

 いずれにせよ、今回作成した図「山の神の祭りの呼び名」は、刊行された県史からの引用ではなく、その下資料から図化してみたもの。必ずしも一致しないわけだが、この図から解ることをまとめておこう。山の神様あるいは山の神の祭りなどと称している地域は全県に分布する。ただし記号そのものの密度が南信のとくに南部に薄いことがわかるだろう。この地域では山の神信仰そのものが薄いという印象を受ける。印象だけではなく実際事例数が少ないということは、山の神に対しての意識が低いことを示すことになるのだろう。後述する予定だが、調査資料を見ていて気がつくのは山の神を信仰している人たちのことである。とくに資料に目立つのは昔はムラ全体で信仰していたが、今は山に関わる仕事をしている人たちだけで祭っているという書き込みである。調査された年代が昭和40年代後半。とすると既に山の仕事は昔のように誰でも関わっていた時代ではなく、農業における山への依存度も低下していただろう。したがって山の神への信仰がすでに希薄化していた時代と言える。とくに平地の山から遠い地点での回答には、山仕事の従事者だけの祭りという捉え方が強いように思われた。

 そうした背景を前提に図から見える地域性をうかがってみると、特徴的なものは十二様地帯である。山の神を「十二様」と呼ぶ地域が栄村に多い。図からはそれが読み取りにくいが、北信域に十二様という記号がみられる。また「山の講」と呼ぶ地域が際立つのは下伊那南部である。さらに木曽谷まで続く。北安曇にも見られるがどことなくこの分布は中央構造線の西側に分布しているとも受け取れる(正確には東にも記号は見られるが)。もうひとつ、やはり上伊那であるが、「トオカンヤ」の記号が落ちているのは上伊那に限定されている。

 

 その上で山の神の祭りでよく供えられる、あるいは射られる弓矢のことを図化してみたものが「山の神の祭りの弓矢」である。弓矢が祭りに供えられるかどうかは記号のあるなしで判断できよう。したがって北信、東信に集中し、南信にはほとんど記号が落ちていないことが解る。その上で使われる樹種が記載されているものについては樹種別に記号変えてみた。長野市近辺にはウツギの木を利用するところが多く、しなる木を利用していることが解る。

続く

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〝山の神〟再考 ②

2025-01-17 23:39:49 | 民俗学

〝山の神〟再考 ①より

 山の神について『長野県史民俗編』総説Ⅰの「民間信仰」の節に「山の神の祭り」と題して触れられている。まず祭日である。

祭日は必ずしも一定ではないが毎月一七日とする所が多い。このほか北信の秋山や市川谷から下高井地方、上高井地方、小県地方にかけて十二日を祭日とする所があり、北信の善光寺平、川中島平を中心とする地域では九日としている。上伊那地方、下伊那地方及び木曽地方の一部では十日とし、下伊那地方、木曽地方の大部分は七日としている。木曽地方では十日と七日とが並行しているのである。それは二月七日と十月十日と春・秋に二度まつるとする所である。祭日を年一回として一月あるいは二月にまつるとしている所も多い。

 この解説には「山の神-祭日-」という地図が添付されており、県内の祭日分布が示されている。凡例には7、9、10、12、17という各日別の記号で図示されており、「日」にこだわったまとめ方となっている。県中央部を中心に「17日」が最も多く図示されていて、北部は9日と12日、南部は7日と10日が目立つ。明確に地域分布がわかる図ではあるが、あくまでも「日」に焦点を当てたものである。あらためてここに県史の調査資料から山の神の祭日を図化してみた。今回の図を作成するにあたり、回答されている月日別に一覧化した上で、事例数の多いもの(目安として10例以上)を図に落としてみた。ただし、複数の日数を回答している地点も多く、とくに目立つのが1月17日を祭日として挙げながら、「毎月17日」と回答している事例である。424地点のうち18地点においてこの回答をしており、それらが県史の地図でいう「17日」地点であることに違いはない。今回の図では「1月17日」と「毎月17日」と回答しているものは優先的に「1月17日」の凡例に含めた。したがって「月の17日」の凡例に該当するものは、単独回答のものということになる。回答された祭日は多様で、毎月10日、毎月12日、毎月16日、毎月17日、正月、1/7、1/8、1/9、1/10、1/11、1/12、1/14、1/16、1/17、1/18、1/19、2月初旬、2/5、2/7、2/9、2/12、初午、2/17、3/9、3/10、3/12、3/15、3/17、4/7、4/12、4/15、4/17、4/22、4/24、4/27、八十八夜、5/7、5/17、5/8、6/17、6/24、7/27,28、8/16、8/17、8/27、8/28、9/9、9/15、9/16、9/17、9/24、秋分の日、10/1、10/7、10/9、10/10、10/12,13、10/17、10/18、11/7、11/10、11/17、11/23、12/1、12/3、12/7、12/8、12/9、12/10、12/12、12/17と実に71回答にのぼる。このうち複数回答についてはそれぞれの日に割り当てているが、2月7日に関してはすべて複数回答にあたるため、今回凡例として2月7日と10月7日、2月7日と10月10日の凡例に振り分けた。したがって凡例は1/17、2/12、10/7、10/10、10/17、2/7と10/7、2/7と10/10の7例に毎月17日を加えた8例とした。ちなみに最も回答数の多かったのは、1月17日の93例である。そして凡例にあげたものは10回答以上のもので、前述したように2月7日とセットに10月7日と10月10日にあらためて割り振ったため、記号として表示されているものは10回答以下になっているものもある。

 

 まず1枚目の図てある。山の神の祭日を単純に表したもので、少し見づらいが昭和の市町村割りを示してみた。ほぼ奥信濃のみに2月12日が分布し、1月17日と月の17日という事例が北は信州新町から箕輪町と高遠町あたりまでに広範に分布し、東西の地域性は表れていない。10月17日という事例は北安曇を中心にしており、開田から伊那市といったラインから南に10月10日、ようはトオカンヤを祭日とした地域が分布する。そして木曽南部と飯田市より南に10月7日地域があるということになる。実は空白地帯もはっきりしており、長野市と西山地帯、上伊那南部から飯田市までの地域はほぼ記号が落ちていない。もちろん前述したように回答数が10例を越える地点だけ示しているため、祭日がないというわけではないが、地域性を示せるほど傾向のない地域と言えるのだろう。

 

 トオカンヤについてはこれまでにも「かつての祭りを振り返り③(平成4年11月4日)」にリンク付けした記事で何度となく触れている。それらに示した地図で上伊那地域にトオカンヤに「山の神をまつる」という事例が目立つことについて触れた。この日「山の神をまつる」というのは県内でもほぼ上伊那だけである(木曽に1例あり)。その際に利用したトオカンヤの行事に関するデータを今回の図に載せてみたのが2枚目の図である。市町村枠は邪魔なので消して示したが、行事の中でも事例数の少ないものは省いた。今回の図と同じような傾向がトオカンヤの行事にも地域性として表れていることがわかるだろう。トオカンヤの行事がない地域が10月7日祭日地帯と重なる。やはりトオカンヤと山の神信仰はなんらかの関係性があるのでは、と想像する。

続く

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小正月に建てられたデーモンジ

2025-01-16 23:17:06 | 民俗学

辰野町羽場中村

 

辰野町羽場上

 

辰野町北大出宮下

 

辰野町北大出三ツ谷道祖神

 

 一昨日今年のデーモンジについて触れたが、違和感のある写真が羽場中村と羽場上の写真にあったと思う。「なぜ建っていないのか」と。考えてみれば訪れたのは14日の午後。ようはまだ建てるに至っていなかったというわけである。今年は鞍掛が実施無いことについて触れたが、鞍掛は毎年必ず14日に建ててきた。この時代になっても土日実施ではない。同じことが周辺でも言え、羽場の2箇所と北大出の神社前の宮下が14日に建てている。宮氏の写真は一昨日掲載しなかったが、実はいつも建てる横に竹だけ横たわっていて、「いずれ建てる」という感触は得ていた。聞き取りをしていないが、おそらく建てるのは14日の夕方なのだろう。

 ということで今日現場に出た際に立ち寄ってみた。羽場の2箇所はもちろんだが、宮下のデーモンジもちゃんと建てられていた。とくに驚いたのは宮下である。過去の宮下の写真を顧みればわかるが、今年のデーモンジは、高く掲げられていて、これまで見た中では最も立派に建てられていた。鞍掛が今年建てられていないせいもあるが、もしかしたら今年この一帯で建てられたデーモンジの中では最も高く、そして賑やかかもしれない。もちろん竹が枝垂れている多屋小路のものも見た目は派手ではあるが、昔に比べると高く揚げられていない。こじんまり建てられていたこれまでの印象とずいぶん違っていた。

 デーモンジの話とは異なるが、もうひとつここでは取り上げておきたいことがある。ほかのデーモンジはどうなっているかと周辺のものを見てみたが、小路中のものは既に撤去されていて、上垣外もなかった。いっぽう三ツ谷は今日も建っていたが、今まで気がつかなかったが、ここの道祖神をあらためて見てみて気がついたことがある。なぜか蓮座の上に乗った双体像はかなり風化しているが、その横にある文字碑である。「道陸神」と彫ってあるのだろうが、この道祖神、元は自然石であったのではないだろうか。そこへ後から文字を彫った。しかし石質が変成岩系のため、面が一様でなくうまく彫れなかったという感じ。以前から思っていることだが、数ある道祖神の中には、もともとは自然石のままだった石に、後から文字を彫ったものがあると推定している。三ツ谷の文字碑はその一例のようにわたしは思う。

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正月の景色

2025-01-15 23:51:34 | 民俗学

伊那市富県貝沼「ホンダレ様」(令和7年1月14日)

 

伊那市東春近中殿島城下「セーノカミ」(令和7年1月14日)

 

 写真は伊那市富県貝沼の今年の「ホンダレ様」である。ブランコの枠を利用して道祖神の飾りがされているのだが、ホンダレ様は右側の脚にしばりつけるように立てかけてある竹の先に結わえられているビニールの中にあるものを言うらしい。このホンダレ様については以前にも何度か触れており、とくに2年の絵に記した〝柱立て「ほんだれ様」〟で平成30年のものと比較した記述をしている。もともと県道脇に建つ道祖神の脇に建てられていたホンダレ様は、県道の工事によって集会施設の敷地内に移動した。近年はブランコを利用して飾られるのが恒例となっている。道祖神の脇に飾られていた時よりこじんまりしてきたが、それだけ正月飾りが衰退してきたということになるのだろう。ただよく考えてみると、この飾りにはいわゆる松飾がほぼ見られない。この地域では松や竹を正月飾りに利用しないのかどうか。それとも道祖神の飾りには既成の飾りだけ利用しているのか、そのあたりを聞いてみないとわからない。そもそも既成の飾りは昔は少なかっただろう。いや、大昔はこのような飾りは無かったはず。とすればこうした飾りはそれほど古い時代のものとは思えない。

 さて、先日東春近古寺のハナについて触れたが、その際にはまだ立てられていなかった同じ東春近の城下のセーノカミが、昨日は立てられていた。ただ令和3年の際のものと比べると雰囲気が違う。紙テープがたくさん脇にある木から垂らされていて、騒々しい感じ。それ以上に気になったのは、令和3年に太陽と月とともに掲げられていたハナが無いのである。これでは各戸に配るハナが無いことになってしまう。

 この正月から小正月にかけて、こうして上伊那郡内の様子をうかがってきたが、もはや絶滅危惧ともいえるものに、貝沼の例ではないがホンダレ様がある。貝沼の事例は本来のホンダレ様ではないと考えられ、このあたりでホンダレ様というと、平成30年に記した「ホンダレ様」の前編後編の2例がそうである。しかし後編で扱ったホンダレ様は、ご主人が亡くなられて現在は実施されていない。毎年地元の新聞に掲載されるのが前編で紹介した向山さんだ。さらに古くは平成23年に辰野町小横川のホンダレ様を紹介した。当時もあちこち見て回ってそのくらいしか見つからなかったわけで、その小横川のホンダレ様も、今はもう見られなくなっている。長くこの日記を記してきているが、既に見られなくなってしまったものが、実はたくさんこの日記には残されている、と実感している。

 先日「ことしの〝松飾り〟」を記したが、正月の雰囲気を醸し出していた飾りそのものも、ずいぶん姿を変えてきている。先週末松本から安曇と回ったが、サンクローが先週末実施されている所が多かった。それも午後2時から3時ころに集中していた。防火の観点から消防車が横付けされている姿もあったが、消防の関係で時間が決められている風にも見えた。さらに思ったのは、いずれのサンクローも小型化しているということである。飾りが減れば小さくなるのも当然だろう。そのいっぽう塩尻市南内田あたりのサンクローには、皆がみな手に手に繭玉を持ってきていて、その光景が賑やかに映っていた。このあたりではどこのサンクローにも繭玉を手にして集まっていた。

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デーモンジ(令和7年)

2025-01-14 22:56:51 | 民俗学

 小正月14日である。かつて成人の日が15日だった時代には、その前夜である14日は行事の集中日でもあったが、今は小正月だという認識すら薄れている。平日であってもこの日に小正月らしい行事を残している所も稀にあるが、ほぼ14日から行事はほかの日に移っている。松本平から安曇野のオンバシラが、建っていたり建っていなかったり、とずれるのは、土日に行事を行うようになったせいだ。オンバシラは一定期間建てておく。したがって土日に行動をとるとなると、1週間単位で建てて早くするか遅くするか、と言った具合に日取りがずれる。考えてみれば、この週末はまだ小正月に入っていなかった。しかし、松本平や安曇野では、多くの場所で12日にサンクローが実施された。オンバシラがまだ建っていなかったところでは、これから建てるのか、それとももう建てないのか、といったところがよくわからなかったのも事実である。

 オンバシラの上伊那バージョンである「デーモンジ」。このデーモンジを今でも必ず小正月14日に建てているのが辰野町北大出鞍掛である。そう思って足を運んだが、午後になっても建てる雰囲気が見えなかった。そこで以前庚申講の話をお聞きした方の家に立ち寄ってみると、今年は中止だと言う。昨年のデーモンジで柱を倒す際に事故があったという。どなたか怪我をされたようで、今年は自粛と言うわけだ。今回は必ず聞いてみたいことがあった。「扇子」である。北大出や羽場といった辰野町南部のデーモンジには、扇子が付く。扇子には「厄落し」の文字が見え、厄年の方が扇子に厄落としが主旨の文字を書き、「〇歳男」とか「〇歳女」といった具合に対象者の年齢が添えられる。この地域の神社に行くと、拝殿の格子にお宮参りの奉納物が結わえ付けられていて、扇子と真綿と麻がセットで奉納される。このことは本日記でも触れてきたことだが、加えてそのお宮参りの扇子が、北大出の神社では秋の祭典で天狗の持ち物になる。ようは「扇子」が通過儀礼に何度となく登場するのである。そのあたりの捉えどころを参加される方たちに聞いて見たかった。

 さて、併せてデーモンジの今年の様子をうかがってみたので、ここで触れておくこととする。

 

辰野町羽場中村

 

辰野町羽場上

 

辰野町北大出多屋小路

 

辰野町北大出上垣外、御幣を挟んでいる木に「大文字用」と記されている

 

辰野町北大出小路中

 

辰野町北大出三ツ谷

 

箕輪町漆戸(今年は12日に建て、19日午前8時に倒される)

 

どんど焼きの日程が貼られていた

 

上戸の道祖神のうち、双体像は道路拡幅の記念に平成8年に建てられたもので、

それ以外の道祖神は自然石である

 

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松本市内のオンバシラ(令和7年)

2025-01-13 23:59:22 | 民俗学

南内田のオンバシラ(令和7年)より

2014年オンバシラ

 

2025年オンバシラ(令和7年1月12日撮影)

 

 実は南内田のオンバシラを確認する前に、松本市内のオンバシラの状況も確認している。まず旧梓川村横沢のオンバシラである。横沢のオンバシラについては2014年1月2日に「正月の柱立て」と題して記した。この横沢のオンバシラ行事については、松本市指定文化財となっており、「横沢の御柱とスースー」(スースーについても本日記の「横沢の“スースー”を訪れて」で触れている)で紹介されている。横沢では中(なか)と西下(にしじも)の2箇所でオンバシラが建てられていたが、西下のオンバシラは見られなかった。両者同日に立てていたことから推測すると、西下では途絶えているのかもしれない。

 中のオンバシラについては、2014年のオンバシラと12日に確認した2025年のオンバシラの両者の写真をここに並べてみた。2014年には水平にしたオンベの数が15本あったが、今年のものを見ると14本しかない。今年のオンバシラを見ると上から5段目と6段目の間に×の形でオンベをクロスさせてたものが付けられているが、2014年のものにはない。スースーで配るオンベの位置も、2014年のオンバシラは下よりに付けられているが、今年のものはかなり上部に結わえられている。このように若干違いが見られるが、基本的な形状は同じである。

 横沢のオンバシラを見た後、和田太子堂と町神(まちかん)にも立ち寄った。太子堂のものについては2016年1月18日に「これも御柱か?」で触れ、町神のものは同年1月14日に「これも御柱」で触れた。これまで触れてきているオンバシラとは形状が全く異なるものだが、町神では当時明確にオンバシラと称していた。そしていずれの柱も12日現在には立てられていなかった。町神のものはともかく、太子堂の場合、当時立てられていた日から推測すると現在は途絶えているように見えた。聞くところによると、松本市内では旧梓川村の花見(けみ)のオンバシラも今現在途絶えているらしい。

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南内田のオンバシラ(令和7年)

2025-01-13 23:19:51 | 民俗学

 塩川原の寒念仏を見た後、帰路前日に見られなかったオンバシラをいくつか確認しながら帰った。まず塩尻市南内田のものを3個所、ここに取りあげてみた。

 

塩尻市片丘南内田赤津

 県道松本塩尻線の脇に立っているのは赤津のオンバシラである。南内田のオンバシラは丈が長いという印象がある。したがって遠くからでも立っている姿がわかる。オンベをクロスした組が12段ある。竹の先には五色の紙垂が付き、キンチャク風の切り紙による飾りがそれぞれに付けられている。頂には御幣と松が結わえ付けられ、それぞれの組が揃うように荒縄で繋げられている。最下に藁束(俵)が付き、そこにイネバナが20本ほど挿されている。柱の向きは南向きである。

 

塩尻市片丘南内田原村

 赤津の県道から東を望むと水田地帯の中にオンバシラが見える。原村のオンバシラである。脇にサンクローの櫓が作られていたが、サンクローについては後日あらためて触れる予定である。原村のオンバシラは東を向けられている。ようは道祖神とおなじ向きである。形は赤津のものと同じであるが、荒縄による繋ぎは左右1本ずつ。オンベの先の五色の紙は紙垂と言うよりは紙の束のように見えるが、それぞれビニールで包まれていて、濡れないようにしている。オンベのクロスは9組と赤津より少ない。赤津より戸数が少ないということになるのだろう。キンチャク風の飾りはここにはなく、中ほどに1本、柱に結わえ付けられているハナがある。階段状に付けられたものとは別のものと捉えられる。赤津同様最下に藁束が巻かれ(ベンケイと呼ぶ)イネバナが挿されており、その数は20本余あるだろうか。

 

塩尻市片丘南内田立小路

 赤津の南、市道立小路大口線の脇に立つのは立小路のオンバシラである。「道祖神」とともに「天照皇大神 秋葉大神 明治天皇」の石碑が立ち、その横に三峯様の祠が並ぶ。祠の中には「火防盗難除」のお札があり、「参拾六戸」と書かれた札があることから講仲間は36戸あって、現在も三峯様が信仰されていることがわかる。オンベのクロスが11段あるオンバシラは、いずれの段にも横棒が加えられていて、赤津や原村のものより梯子状のイメージが強い。オンベの先の紙垂は、やはりビニールで覆われていて、濡れるのを防いでいるよう。原村のものは竹が青く、赤津のものは竹が少し茶色がかったものがあったが、立小路の竹はだいぶ以前に採ったものらしく乾ききった竹を利用している。頂に御幣と松に加えて1本花が付いている。これは原村のものと同様に特別なものと捉えられる。柱の中段に大きな切飾りが付いているが、よく見ると今年のものは広告を利用しているよう。これをフーセンと呼ぶらしい。道の脇に作られていたサンクローの櫓に混ざって切飾りがあったが、おそらくこれは前年の切飾りと思われる。

 なお、この地域のオンバシラについては浜野安則さんの「道祖神の柱立てと火祭りとの関係-安曇野・松本平・上伊那の事例から-」(『信濃』63-1 信濃史学会)に詳しく報告されている。

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寒念仏

2025-01-12 23:33:30 | 民俗学

集落を北へ

 

屋根が葺き替えられたばかりの道祖神にお参り

 

お堂にお参りして終了

 

寒念仏塔婆

 

 「寒念仏」についてはコトバンクにいくつか解説されている。最も詳細なものは世界大百科事典(旧版)内の寒念仏の言及だろうか。

…一年中で最も寒い時期の修行であるために,厳しい苦行となるが,その苦行が多くの功徳(くどく)をもたらすという信仰が背景にある。一般に寒行には僧侶を中心とした寺堂や道場での座禅・誦経・念仏・題目のほか,鉦を叩きながら民家の軒先や社寺を巡って念仏や和讃を唱える〈寒念仏〉,鈴を振りながら裸足で薄着して社寺に参詣し祈願する〈寒参り〉,冷水を浴びて神仏に祈願する〈寒垢離(かんごり)〉などの所作がある。〈寒念仏〉について,文化年間(1804‐18)に編まれた《会津風俗帳》には〈堂社修繕建立のため,出家又は信心の男女四五人連にて和讃念仏を唱へ,村々相廻り,米少々つゝ出す〉と托鉢の状況を記し,同時期の《歳時謾録》には六斎念仏の行者が城下や無常所を夜行したと記し,《続飛鳥川》には白木綿の単物と頭巻を着し,鈴を振って歩行し,絵札をまく願人坊主の姿を記している。…

※「寒念仏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

これらでは民間でどのような信仰がされていたかについてはあまり触れられていない。

 寒念仏については「寒念仏供養塔」と検索すると本日記の「“寒念仏”塔」が比較的上位に現れる。20198年2月に記録したものだが、あらためて読んでみると伊那市に多い寒念仏塔について詳細に触れている。確かに伊那市には「寒念仏供養塔」などの念仏塔が多い。ところが現在そうした寒念仏に関する信仰が残っているわけではない。江戸時代も中期以前に盛んとなって明治維新ころにはすでに廃れていた信仰と言えるのかもしれない。実は前掲日記では市内で最も古いものは美篶芦沢の元禄2年銘のものと記したが、寒念仏の石碑が市内で最も多い富県の石造物を見ていくと、貞享4年(1687)の名号塔に「寒念仏供養」と彫られていて、この方が古い。そもそも富県に残されている石造物の中でもこれは5番目に古い。「同行十□」と彫られているようで、民間での信仰が偲ばれる。富県でも北福地の湯戸公民館庭にあるもので、同所には元禄15年の「奉供養月念佛」の碑もある。

 さて、昨年3月の「寒念仏について」の記事において「実情を把握するために、実際の行事を訪れてみるしかない」と記した。その寒念仏を訪れてみた。明科塩川原は犀川左岸にある小さな集落。「塩川原農業研修センター」の横にあるお堂に寒念仏の痕跡があって現在も行われていることが解ったのだが、実はこの寒念仏は三九郎と同日に実施されている。コロナ禍前には二日にかけて地区内をふたつに分けて実施していたと言うが、今年は三九郎を行う日に集約されて行われた。三九郎、いわゆる道祖神に関する部分については後日触れるとして、目的であった寒念仏の様子についてここでは触れる。

 三九郎の準備が済んだ午前中にその寒念仏は行われた。農業研修センター、いわゆる地区の集会施設を午前10時半過ぎに出発し(お堂から始まると言っても良いのだろう)、まず北へ向かう。集落の北外れに石仏に2体を納めた祠があり、そこへお参りをすると南へ引き返す。祠内にはいわゆる西国坂東秩父百番供養塔が2基納められている。寒念仏にかかわりある石碑かもしれないがはっきりしない。道端に建てられている石仏、石神には必ずお参りして回る。とくに「道祖神」にはすべて回るという意識があり、念仏と道祖神がかかわりあるものかどうかもはっきりしない。いずれにせよ三九郎と同日に実施することから習合したのかもしれない。以前は二日に分けて行われていたということで、この日まわった道順が従来のものと言うわけではないよう。繰り返すが地区内の神仏にお参りしているものの、集落内各戸に念仏が聞こえるように回ったというから、もれなく集落内を回ったものと考えられる。その目標物として石仏や石神があったと思われる。最後はやはりお堂にお参りして終わりとなる。集落内をおよそ40分ほどかけて回った。集落内を回る際に唱えられるのは「なむあみだ なむあみだ そうりゃーなむあみだ」であり、小さな鉦を叩きながらこれを繰り返し唱えて回る。なお、〝音の伝承〟に「長野県安曇野市明科塩川原寒念仏」と題して掲載している。

 かつては1週間くらいを毎日行ったといい、いわゆる寒念仏の姿があったと思われる。現在は三九郎が塩川原だけではなく、北隣の原と県営住宅のある地区と一緒に行われているため、この寒念仏もそれらの地域の子ども達によって行われている。もちろん時世であるが、おとなも一緒に回っており、行事そのものは育成会行事で実施される。もう一つ、実施していることを教えてくれた堂内の塔婆のこと。てっきりこの塔婆を持って集落内を回るものと思っていたら、塔婆はお堂内に納められたままだった。一緒に歩かれた数十年前を知っている方も「塔婆は持って歩かなかった」というから、その昔の姿ははっきりしない。塔婆は集落内の大工さんが形をこしらえてくれるらしく、子どもたちが塔婆へ字を書きこんでいるという。その文字は例年通り、

奉 修寒念仏供養塔婆 塩川原子供達
天下泰平 五穀豊穣 養蚕大当 無病息災 交通安全
令和七年 一月祥日

であった。

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令和7年オンバシラ

2025-01-11 23:06:33 | 民俗学

 長野県民俗の会第244回例会は、オンバシラの見学であった。よく知られている御柱ではなく、正月に道祖神の脇に建てられるオンバシラである。本日記でも「オンバシラ」、あるいは「御柱」のキーワードで何度となく記録してきたものであるが、本日回ったオンバシラも、これまで紹介したオンバシラの現在を確認することとなった。午前10時に集合してほぼ1日かけて回ったオンバシラは下記の7箇所であった。

①安曇野市三郷一日市場東村
②安曇野市三郷一日市場下町
③安曇野市豊科吉野梶海渡
④安曇野市豊科成相
⑤安曇野市穂高倉平
⑥安曇野市穂高塚原中部
⑦安曇野市穂高塚原巾上

このうち本日記で以前扱ったものについては、それぞれリンクを貼った。①と②したがってわたしとして初めて目にしたオンバシラは②の一日市場東村のものと③の梶海渡のものであった。②については以前扱ったことがあると思って探してみたが見つからなかった。リンクしているものについては、当時の写真と比較してもらえればわかるが、ほぼ過去のオンバシラと変わりがないと思われる。オンバシラとはいえ、場所によって異なることがわかるが、とくに今回初めて見た吉野梶海渡のものはほかのものと異なっている。そもそもヤナギバナがつかず、確かに柱は立っているが華やかな雰囲気は全くない。そしてこの柱は1年中立っているという。柱の根元に竹の筒が立て掛けられていたが、このれが地区内でお祝いのあった家に渡されるゴシンボク(御神木)である。事前にゴシンボクの依頼があった家の数だけ用意されるようで、今年は1本しかなかったので、依頼したのは1軒だけだったということになる。本来ならゴシンボクは柱に掲げられるものなのだろうが、ここではだいぶ省略されてしまって、今年の姿は根元に置かれているだけとなっていた。ここに掲げることで神が宿り、相応のご加護が導かれるということになるのだろうが、現在の姿はちょっと寂しく見える。加えて濡れないようにと被せられたビニール袋は、いわゆる自治体ごとに指定されているゴミ袋であった。ここではオンバシラが1年中立てられたままになっていると記したが、1年中と言うより6年間立てられていて、7年目に立て替えられるという。もともとは毎年立てていたものが変化したものと言えよう。吉野にはほかに3箇所ほどオンバシラが立っていると言うが、いずれも梶海渡スタイルだと言う。

 吉野ではゴシンボクが祝い事のあった家に渡されるが、成相から穂高にかけてのオンバシラには俵が付けられていて、吉野のゴシンボクの代わりとなってこの俵が祝い事のあった家に渡される。これを「福俵」と称している。さらに三郷一日市場などではヤナギバナが各戸に配られて縁起物とされる。

 さて、例会後の帰路、旧波田町上波田のオンバシラに立ち寄ってみた。すると中町にはオンバシラが立っていたが、上町も下町にも柱は見えなかった。かつて訪れた際に3箇所とも同じ日に立てていたことから推察すると、1箇所にまとめられてしまったのかどうか。以前訪れた際にも子どもが少ない町会では存続が危ぶまれていたが、それほど時を経ていないが、地域社会の変化によって行事が変化していることに気がつかされる。

 

安曇野市三郷一日市場東村(頂に付けられる女神、下に付くのはオガミ)

 

安曇野市三郷一日市場下町(ヒョウタンが日天・月天から吊るされる)

 

安曇野市豊科吉野梶海渡

 

安曇野市豊科成相(タワラ、キンチャク)

 

安曇野市穂高倉平

 

安曇野市穂高塚原中部

 

安曇野市穂高塚原巾上

 

松本市波田上波田

 

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「ブラク(漢字)」は消された

2025-01-10 21:15:02 | つぶやき

 かつてこの日記の中で「被差別ブラク(漢字)」について何度か記した。ここに「」の中にブラク(漢字)を挿入していたが、気づいたら本ブログでは「」表示になっていて、ようは単語が消されていた。これがgoo blogサービス利用規約に違反していたから消された、ということかどうかは不明である。もしかしたらいずれここに記した「被差別ブラク(漢字)」も「被差別」とだけ表示される時が来るのかもしれない。いずれにしても今ここに「被差別ブラク(漢字)」の「ブラク(漢字)」の部分に漢字を入れても、おそらくは表示されていて、いずれ消されるのだろう。これに気づいたとき、「ブラク」が非差別用語として捉えられていて消されたとわたしは判断したが、本当のところはよくわからない。田舎では今もって差別とは無縁に「ブラク(漢字)」を口にする人はいる。もちろんひと昔前に比較したら減ってはいるものの…。

 ということで、2010年3月26日に記した〝消された「部落」〟について文中内の空白を修正して「ブラク(漢字)」と修正した。前述したようにこの修正もいずれ消されるかもしれないが、消されてしまうと逆に内容が歪曲されて捉えられるような気がしてならない。ただ、この〝消された「部落」〟のページタイトルの「」内が消されていないのは腑に落ちない。そもそも消すにあたって何らかの指摘が外部からされたため消されたのか、それとも自動的に消されるようになったのか、いずにしても不明である。「ブラク(漢字)」については、ページ内の検索欄に入れて検索しても該当記事は表示されない。ようは検索機能からも削除されている単語なのである。ちなみにまだ修正していないページを参考に確認してもらいたい。例えば2011年8月3日投稿の「衣生活」である。「ブラク(漢字)」は消されている。goo blogサービス利用規約の第11条(禁止事項)に「(8)他の会員又は第三者を差別又は差別を助長する行為」というものがある。これが当てはめられて、「ブログ情報が前項各号のいずれかに該当すると判断するときは、該当のブログ情報が投稿された会員ページ(公開であるか非公開であるかを問いません)を会員の承諾を得ることなく、かつその理由を会員に説明することなく、ブログ情報を変更・非表示・削除等の処置が」がされたものと思われる。投稿の原稿には単語は表示されているが、閲覧ページには無いのである。そして利用規約では「この場合、当社は、当該ブログ情報を投稿した会員の会員資格を失効させることができるものとします。」とも掲げている。失効されていないだけまだ良いということなのだろうか。もしかしたらこんなことを書いたから、消されるかもしれない。

 たまたま「ブラク(漢字)」が消されていることに気がついたが、もしかしたら長年の記事の中には、ほかにも消されている単語がたくさんあるのかもしれない。

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〝山の神〟再考 ①

2025-01-09 23:06:50 | 民俗学

 わたしは1993年の『信濃』45巻1号(信濃史学会)へ「コトの神の周辺」を記した。コトの神の祭りが行われるコト八日について触れたもので、その中でコト八日と山の神とのかかわりについて次のように書いた。

  五 山の神とのかかわり
 山の神の祭りがコト八日の近くに行われることもよく知られており、県内では下伊那郡南部において旧暦二月七日を祭日としている所が多い。山口貞夫は早くより「二月八日及び東国の十二月八日は、元々山の神の去来する日であった」また「此神が片目であると云ふ思想があった為に信仰の下落に伴って一目小僧に堕し、神を迎へる為に静粛を守った人々は悪霊を怖れて蟄するに至った。神の招代として竿頭に揚げた目龍は一目小僧と日数を争ふ道具となり終り、別に臭気をかがせて邪気を払ふ行事までも付加されるに至った」という指摘(37)をしており、その後の山の神とコトの神とのかかわりを説く論文の参考とされてきた。この山の神の祭日には山へ入ることを忌み嫌った。

 事例21 下伊那郡松川町新井 十一月七日は山の神様が出雲へ出発する日なので、山へ行ってはいけないといい、半日仕事を休んだ。(38)

 事例22 上伊那郡長谷村市野瀬 コトネンブツといってかね(鉦)をたたいて念仏をあげ、団子をまいて一杯飲んで祝った。各家では餅をつく。この日は木がはらむときだから木を伐ってはいけな い、伐るとけがをするといわれた。炭焼きの止めがまに行くのにも枝一本でも折らぬように気をつけた。(39)

 事例23 伊那市小沢 餅をつく。嫁の里では新夫婦を招いてごちそうをする。「春のオコトにゃ子をよんで、冬のオコトにゃ親をよべ」といわれている。この日は針供養をし針仕事を休む。山の木を伐ってはいけないともいう。(40)

 事例21のように山の神の祭日に入山を禁止する事例は多いが、コト八日においても事例22や23のように山の木を伐ってはいけないという事例が諏訪から上伊那にかけて多い。これらは山の神の禁忌とコト八日の禁忌が混同された事例なのかもしれないが、事例22、23の二つの地区では別に山の神の祭日が定められている。したがってコト八日に付加されたものといえ、山の神がこの日にかかわっていることになる。また注目される点は、事例23のように嫁の里帰りが行われることである。上伊那郡にこの事例が見られるが、この場合「山へ行って木を伐るとけがをする」という禁忌が付加される場合が多い。山の神が産の神であるということは各地で知られている。

 事例24 上伊那郡高遠町東高遠 出産が始まると部屋の隅へ立てかけたわら束に、「山の神ここへ座ってくれ、ウブメシ安産で生ませてくれ」と頼んだ。出産すると四つの膳を供えて「無事出産したからお帰りください、御苦労さん」と拝んで山の神を帰した。(41)

 このように産の神として山の神は迎えられ、目的が達成されると送られている。東北や関東でも妊婦が産気づいてもなかなか子どもが生まれないとき、馬を引いて山の神を迎えに行く行事がある(42)という。これらの事例から新夫婦が嫁の里へ帰るコト八日は、山の木がはらむ日であり、産の神である山の神の祭日であったともいえよう。
 また先の事例9で紹介したように風邪の神を送る場合に、紙に馬という字を一二書き、それを辻などに捨てる方法がとられている。この一二の数については地元では特に意味を理解していないが、山の神=一二様からくる一二ではないかとも考えられる。山の神にはこの一二の数がつきまとい、それは一年の月数とされ、山の神が農事に深い関係があるからだといわれている。
 ところで岐阜県不破郡青墓村では、山の神の祭日(旧正月九日)に未婚の娘をもつ家が宿となり、若衆が山から松の木を伐ってきて、長さ三尺ほどの男根のものを四本作っている。そしてそれらをその年、嫁入りのあった家へもち込み、それから行列を作って歌をうたいながら山の神の祭場へ行って供物を供えているという(43)。この行事の内容は道祖神の祭事にもよく見られる事例であり、先に紹介したコト八日におけるワラウマヒキも道祖神とのかかわりが強く、また産の神や厄神としての要素も道祖神はもっている。こう考えてくると事例3のコトノカミオクリは、風邪の神送りの集団化したものであり、男女二神を並祀した神輿をムラ境に送ることにより厄神を送り出している。送り出されたコトの神は山の神や道祖神の要素を含んでいるのではないかと推察できる。

というものである。ここでいう事例9及び事例3は次のような事例である。

事例9 下伊那郡松川町 こと念仏でとまった(二月六日)夜一二時ごろする。
 紙に馬という字を一二書き、それを封筒の中に入れ、よその部落の四つ辻に持って行って捨て、後を振り向かないようにして帰ってくる。そうすると一年中部落に悪いやまいがはいらなかった。(22)

事例3 飯田市千代芋平 コトノカミオクリは飯田市竜東地区の千代、竜江、上久堅と送り継がれる行事で二一月八日千代の野池と芋平から出発する。特に芋平から出発するのはみこしが造られる。(中略)始めに藁で丸く型が作られ桧の葉をさして屋根形にし、紅白の切り紙で美しく飾り、竹を二本通して前後でさげる位いの大きさにする。みこしの中には藁製のオトコガミ(男神)、オンナガミ(女神)が安置される。また「千早振る二月八日は吉日で、事の神をば送りこそする」と大書された紙製の職旗二本を作る。十時前後にいよいよ出発する。みこしの後には各家から出された笹竹を持った人達が続く。ドカンドカンと鉄砲が鴨され、上久堅境の沼塩の川まで送る。帰りには絶体に後を振り向かないこと、もし振り向くと送り出した悪病神が付いてくるといわれているので急いで帰る。
 笹竹に結ぶ紙は、中折りの四つ切りの大きさに「風の神」「馬と申」などと書く。これには風邪が馬の鞍に形づくられたみこしに乗って申が引いていくのだともいわれている。またこの笹竹には、ぼんのくぼの髪の毛とお米を入れ水引で結えたものも結びつける。このような竹は、各家で家中の部屋を「風の神様どうかこの竹にのり移って下さい」と唱えながら清め、道端に出して置くと行列が集めて次々と部落を引き継いで上久堅柏原の一本松の喬木村側まで送って行く。(9)

 これらは山の神の祭日に着目してコト八日との関係性を考えたものだが、この中で「コト八日においても事例22や23のように山の木を伐ってはいけないという事例が諏訪から上伊那にかけて多い」と記しているように上伊那における山の神信仰は県内でも少し変わっている印象がある。ここで山の神について上伊那を中心に考えてみることとする。

 なお、引用の中の註については下記のような内容である。

 9 上久堅村誌編纂委員会『上久堅村誌』平成四年 七二七頁
19 長野県史刊行会『長野県史民俗編』第二巻南信地方(二) 昭和六三年 八四五頁
22 松川町教育委員会『松川町の年中行事』昭和四六年 六二頁
37 山口貞夫「十二月八目と二月八日」 大島建彦編『コト八日』所収 岩崎美術社一九八九年 二九頁
38 註19と同じ 七六八頁
39 註19と同じ 六二三頁
40 註19と同じ 六二四頁
41 註19と同じ 二三五頁
42 吉野裕子『山の神』 人文書院一九八九年 九一頁
43 宮田登『民俗宗教論の課題』 未来社一九七七年 二一八頁

続く

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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****