Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

いろいろ「低下」

2025-04-02 23:37:39 | つぶやき

 4月1日から値上がりするものがいろいろある聞く。いっぽう新年度と言うこともあり、会社の体制が変わったり、環境の変化があったりと、区切りであることに変わりはない。事務所に来た電話に出た女性の口から、「ことしもよろしくお願いします」という言葉が聞こえて、正月を想起させた。やはり4月1日は元旦である。そんな4月1日、会社の建物にあった食堂が閉店した。もちろん事前に「4月1日から…」と聞いていたわけだが、時おり弁当を持参しない際に利用していた食堂の弁当が頼めなくなって、「困った」とは思うが、ほぼ毎日食堂へ弁当を注文していた会社の女性は、それこそ「困った」という言葉を何度か口にされていた。今まで当日の午前11時ころまで注文できた弁当が、朝のうち、あるいは前日には頼んでおかなくてはならないというような弁当屋さんになってしまって、使い勝手が悪くなるというわけなのだ。近ごろこうした昼食の弁当屋さんの中身の品質が低下している。もちろんいろいろ値上がりしているので仕方ないことなのだろうが、とはいえ500円以下の弁当ともなると内容ははっきりいって良くない。と言ってもっと高額な弁当で持ってきてくれる弁当屋さんは例がない。ということで選択肢がないから、女性も困っているのである。わたしなどはほかの弁当屋さんの中身を見ると「頼みたくない」と思うような内容で、「まだカップラーメンの方がましだ」と思うほど。コンビニの弁当の方が良さそうだから、今後は会社に行く途中で購入していくしかないと思うが、通勤時間帯に買おうと思っても、コンビニの弁当を販売している棚は品薄状態。ようはまだ品物が届いていない時間帯。悩ましいことに変わりはないのである。

 さて、今夜は妻が珍しく店で鰻を手に入れて来た。「国産」とはあるが、一切れ口に入れて「なんじゃこれは」という感じ。前にも同じような代物を口にしたことがあるが、ちょっと違う。包装の値段を見てまたびっくり。けっこう高額だ。わたしだったら「二度と買いたくない」代物。近ごろ品質がいろいろ低下しているような気がしてならない。それは食べ物に限らず、いろいろだ。人間の品質も低下している、ということなのかもしれない。この後が心配でならない。

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過去の画像と、動画と

2025-04-01 23:52:05 | つぶやき

 先日「ハードディスクの違和感から」を記したが、そもそも保存しているデータの重いものは動画データだ。それらを長く保存する必要もないから、ハードディスクがダメになったら「さよなら」でもしょうがないとは思っている。が、例えば画像データに関してはダメにしたくないデータだから、なんとか保存しておきたいもの。ほかにも仕事のデータとか、動画以外のさまざまなデータも、いつか利用する可能性があるので、消したくないデータでもある。この頃はデータ量が大きくなりがちだが、そういう意味でもデータは小さく保存することが良策なのだが、なかなかそこまで考えて保存する余裕はない。

 ということで近ごろ古い画像データをハードディスクで覗いているのだが、ここ10年ほどのデータはそこそこいろいろ撮影しているのだが、さらに遡って10年となると、この10年と撮影している趣向が異なっていることに気がつく。加えてあまり画像の品質が良くない。「あの頃は何のカメラで撮っていたものか」と思いながら紐解いているのだが、最近利用しているカメラは、暗いところで撮影した際の写りがまったく違う。やはり暗いところで撮る写真はカメラによって差が出るということになるのだろう。当たり前のことではあるが、前時代の画像は品質が落ちる。

 そんな画像データを閲覧しながら、混在している動画データも紐解きながら、とはいえ動画データにも消したくないものがあることに気づく。なにより最近のテレビが面白くない。とくにドキュメンタリーが少ない。それはNHKも変わりない。いいやむしろドキュメンタリーが多かったNHKからそれが消滅している。たまに放映していると思えば、過去の再放送ばかり。ということで過去のNHKが放映したドキュメンタリー映像は、複製を作成しておきたい、とここ数日思うようになった。

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ハードディスクの違和感から

2025-03-25 23:27:42 | つぶやき

 久しぶりにデータ保存用に利用しているハードディスクを起動させて少し違和感を覚えた。前はこんな感じではなかった、という印象だけのことなのだが、記憶させている媒体に対しては敏感になるのは、やはり何度も苦い思いをしているからだ。先ごろ自治会の引継ぎでUSBメモリーを引き継いだが、その容量を見て「少し古い」という印象を持った。ようは容量が大きくなく、、今では量販店ではあまり売っていない容量。とはいえ、パソコンに繋いでも違和感なくデータは取り込めた。もちろんその度USBメモリを取り出してデータを作成するのは面倒だから、パソコンに取り込んだ。引き継ぐ際にメモリに保存して渡すつもりだ。

 これまで苦い思いをしたのは2.5インチのハードディスクとUSBメモリでの経験。3.5インチのハードディスクではかろうじて経験がない。当初はほとんど同じメーカーのメディアでの経験だったから、記録媒体を購入する際にそのメーカーのものは避けるようになった。とはいえ、以後別のメーカーのものでも破損するケースがあって、メーカーでどうということもなさそうだが、いずれにしても同じメーカーのメディアで何度もデータを失っていることは事実。こうした経験があるから、あちこちに同じようなデータを保存する傾向で、ますますデータを探すのに苦労したりする。USBメモリで一時的に記憶したとしても、必ず別のメディアにも定期的に保存する。そのひとつが冒頭のハードディスクであった。しかし、違和感があったことからハードディスクを新しいものに更新するのか、あるいは別媒体へ保存する方が良いのか、少し悩んでいる。記録媒体の寿命についてはあちこちで説明されているが、例えば「記録メディアの寿命ランキング」で見てみると、意外なことに気づいたりする。やはりこのページを作成しているのはデータ復旧会社。最近はデータ復旧サービスを利用したことはないが、昔と違って媒体の記憶容量が大きいから、費用的にどうなのか、と思ったりする。もう20年近く前に復旧した際にはずいぶんお金を払ったものだが、その際のハードディスクの容量はメガバイトの世界だった。

 苦い思いをするのはUSBメモリが多い。したがって会社の机の中にも、自宅の引き出しの中にもUSBメモリがいくつも転がっている。おおよそ1年で新しいものに替えているから増えていく。とはいえ、その1年単位の中でもデータが読めなくなるケースはたまにある。もちろん古いものは、そのままデータは消すことなくしまっているから、たまにそれらを使おうとするとどこにデータが入っているか分からなくなる。裏を返すと、たまにそれらを紐解いて「ここにあっのか」と、見つけることもある。もちろんそれらは別のハードディスクにも保存はしてあるのだが、しっかりとメニューを作成して管理しているわけではないから、欲しいデータが見つけられずに、こうした古いメディ内からみつかることもある。

 さて、前述のページを見ると、最も寿命の長いものは「長期保存用光ディスク」だという。メーカーでは100年は持つというが、自分が生存している間生きていてくれれば良いと思っているから、そこまで長くなくても良いが、その次に寿命の長いものが「MО」だという。これは意外だったが、今や利用しなくなったメディア。ドライブは今もあるが、いわゆるUSBでつながる時代のモノではない。容量も小さいから、この後新たに利用していくメディアではない。ということで、次に長いと言われているDVDなどのメディア。10年から30年と言われているから、自分の余命に近いモノだ。意外に短いハードディスクに保存するのは、やはり一時的ということになるのだろう。記録するのに厄介だが、DVDなどのメディアにもこれからは複製を取っておくよう心掛けるつもり。もちろんメディアによってその寿命は異なるようだから、メディアの選択はもちろん、最も寿命を左右する保存環境も気を遣おうと思っている。

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なかなか見つからない、解らない

2025-03-21 23:55:00 | ひとから学ぶ

 わたしも根拠のないことをたくさん記しているかもしれない。しかし、世の中にはそうした文献がたくさん溢れている。

 実は昨日触れた「世長戸」について調べてみようと、それらが記されていそうな文献をいくつか調べてみたが、どこにも記載はなかった。とりわけ中坪区地名調査会がまとめた『手良中坪区地名調査』にはあるだろうと考えたが、「世長戸」という単語すら見つからなかった。伊那市内では地区ごとにこうした地名調査が行われてまとめられている。正式な印刷物になっていないため、伊那市の図書館くらいしか蔵書とした置かれていないが、県立長野図書館にもあるようだ。これらに関わった方に聞くと、地区ごとの統一が図られたという風でもなく、地区ごと独自色があったようだから、正確性は低いのかもしれないが、事業としては地元の人たちによってまとめられたものだから意義あるものとは思う。この『手良中坪区地名調査』をさらにまとめたものと考えられる『手良歴史・地名ものがたり』も読んでみたが同様だった。これらには地名の読み仮名が記されているのだが、昨日も触れた「米垣外」に対して前者は「よなかいと」とあり、後者には「よねかいと」とルビがあり、地名研究分野ではそう読むのが正しいのか、地元の現在の読み方は参考にしていないのか、いずれにしてもルビを振った根拠がはっきりしないほど不統一なのだ。そもそも過去の地名の読み仮名など記されている可能性は低く、知識者によって振られたものと思うのだが、実際のところはわからない。しかし何か根拠を、と思って調べたものに頼ってしまったらこれらは「どうなの」ということになる。ちなみに昨日の「お念仏」を事前に把握しようと参考にさせていただいた宮原達明さんの『祈りの里』(ほおずき書籍  2018年)にも「よなかいと」とルビが振られていててっきりそれが正しい読み仮名と思い込んで地元の方に聞いたところ「よながいと」だったというわけである。民俗を調べている者は、「地元での呼び方」を重視することにしている。もちろん時代によって変化はあるかもしれないが、現在当り前に呼ばれているものがどうしてそうなったかが、民俗でもある。以前「新山」について何度か触れているが地元では「にいやま」と呼んでいるのに、よその人たちが「にゅうやま」と呼ぶ。もちろん地名の語源に照らすともしかしたら「にゅうやま」が正しいかもしれないが、今暮らしている人たちが呼んでいるものを否定するのはどうかと思う。そしてその背景が興味深いことも確かだが、それはそれとして捉えるべきことなのだろう。

 世の中は昔のことを知っている人がとても少なくなった。とくにオールラウンドな知識人は稀だ。特定のことに詳しい人はいても、地域全般となるとほぼいない。したがって「なぜ」と聞いてもわからないのが「今」である。したがって聞き取りして何の意味があるのだ、と口にする地域の知識人が目立つ。きっと「わたし以上知っている者はいない」とでもいいたげに。もしそういう人たちがもの書きをしたら、地域の歴史は歪んでしまうのかもしれない。まさにそうしたことが、現実に起きようとしている事例を、わたしは耳にしている。

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彼岸の数珠回し

2025-03-20 23:39:58 | 民俗学

(左上)数珠と鉦、(右上)数珠回し(左下)般若心経、(右下)ご詠歌

 

 伊那市手良中坪の米垣外において数珠回しがあった。彼岸のころに数珠を回すところが多いことは、わたしが『長野県民俗の会会報』35号(平成25年)に投稿した「春彼岸の神送り行事」に報告している。それらは過去に実施されていて現在は行われていない事例が多かったわけだが、そこには掲載しなかった数珠回し(念仏)のひとつが米垣外のものである。

 ところで「米垣外」と書いて「よながいと」と読む。知らなければ「よねがいと」と読むのが一般的だろう。「よなが」と読むところに少し違和感を抱いたわけであるが、その理由は江戸時代の集落名にあるのだろう。この数珠回しの数珠を納めている箱に掛軸が入っていて、そのひとつが「南無阿弥陀仏」であった。善光寺大勧進の権僧正が書いたと思われるもので、背面に年号が書き込まれている。「寛政十二庚申年冬従善光寺承之」(1800年)とあり、並べて同じ筆跡で「安政五戌午年八月再表具」(1858年)とある。したがって書かれたのは寛政12年ではないのだろうが、寛政12年に取得したものとすると、当時の権僧正は「等順」となる。等順の名が入る掛軸は、安曇野あたりにはいくつも見られる。同様の掛軸が伊那のあたりにもあったということになる。ちなみに等順は善光寺大勧進の住職で寛政10年に権僧正に昇進し、享和3年(1803)に大僧正に昇進している。寛政10年3月5日まで京都竜雲寺の御開帳に、彦根、大津より近江路、美濃路を巡行し、5月7日に馬籠宿へ。12から16日まで松本の生安寺で御開帳、19日に飯田の如来寺(元善光寺)に行き26日まで御開帳。その後高遠満光寺で御開帳を行っている。このころこの地域で念仏講が盛んになったのではないかと推測する。米垣外には念仏塔がいくつか残っており、その中に「当村女講中」で建立されたものがあり、「寛政十戌午天三月」と刻まれている。ようは当順が高遠へ来る直前に建てられたものである。

 さて、等順のものと思われる掛軸の裏書には「世長戸講中」とも記されている。この「世長戸」は現在の「米垣外」のことと思われる。その読みが現在に残って「よながいと」と読まれているのだと推測する。米垣外の清水寺の下にある辻に石碑がいくつも並んでいて、その中に「世長戸」と刻まれたものがふたつほどある。いずれも江戸時代に建てられたもので、明治以降のものには「米垣外」とある。

 数珠回しは移転して新しくなった清水寺(せいすいじ)の本堂で行われた。麓から少し登った清水寺の旧本堂でこれまで行われていたが、新築された本堂で数珠回しが行われるのは2度目と言う。最初は昨秋の彼岸に行われた数珠回しで、春の彼岸では初めて。コロナ禍を経て6年ぶりの春彼岸の数珠回しだったという。春秋2度行われている数珠回しであるが、清水寺はその場を借りているに過ぎず、数珠回しそのものは米垣外の行事と言う。したがって現在準備をされているのは米垣外常会の役員の方たち。現在21戸という米垣外であるが、井上井月顕彰会とヴィジュアルフォークロア2011年に製作した動画では25戸であった。その動画を見ると大勢集まっているが、この日は8名だけの参加であった。しばらく女性だけが集まる数珠回しだったようだが、現在は誰でも参加できるということで声掛けをしているようだが、動画撮影されたころに集まっておられたお年寄りが出られなくなって、参加者は減ったという。当時輪の中心で鉦を叩かれて音頭をとられていた高齢の女性が昔の数珠回しのことを語っておられ、昔は男性が数珠回しに参加していたという。鉦を当時叩かれていた女性は数年前に亡くなられたという。

 午後1時にみなが集まると数珠が回される。「なむあみだー、なむあみだー」と繰り返し唱え、長い数珠を右回りに3周半回す。それが終わると般若心経と三宝御和讃が唱えられ、数珠回しの行事は終わる。その後茶話会となるが、ここで話をするのが楽しみだという。井上井月顕彰会とヴィジュアルフォークロアが製作した「数珠回し 伊那市美篶笠原・山梨薬師堂 伊那市手良中坪米垣外・清水寺」のもうひとつ、笠原の山梨薬師堂の数珠回しは、コロナ禍で中止されていまもって復活される兆しはないという。

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また味わった忙しさ

2025-03-18 23:43:04 | つぶやき

 2年がかりの、世間では国家的プロジェクトとも言われる事業の末端関連事業にかかわる業務がようやく終わった。といっても厳密には終わっておらず、この後にも尾を引きそうな業務。しかし一応工期末を迎えたため、納品し竣工検査があった。当初は1年の契約だったが、関係者との調整に手間取って工期が何度となく延長されていた。個人財産にかかわるので、地元の了解を得るのに手間取ったことと、国家的と言われるプロジェクトも遅延気味で、さまざまな環境が尾を引くことを示唆していた。

 ということで、二度と空白期は来ないと思っていたのに、このところ日記を書く暇も無かった。全てを停止しないと「間に合わなかった」。もしかしたら、長い生業の中で最も「間に合わない」と焦ったこのごろだったかもしれない。そしてそれが終わったから「良かった」とは口にできないほど、年度末を迎えて納期を迎える物件が重なっていて、もう少し忙しさのピークは続く。前者を優先させたため、今もって余裕はないが、最優先事項が納品できたことで、ほんの少しだが心持ちに隙間ができた。

 再雇用なのに「何でこんなに忙しい」と思うが、もはやわたしのこれがライフワークの姿なのかもしれない。人はさまざまで、常に余裕の人もいれば、わたしのような者もいる。愚痴っても仕方ないが、その上でものを深く考えない人たちを見ていると腹が立って仕方ない。それも若いころからのわたしの口癖かもしれない。かつては口に出せば、そのまま自分の評価に繋がって躊躇したものだが、もはやいつでも口にできる立場。墓場に入る時に惜しまれる必要などない。「嫌な奴がいなくなった」と喝采を浴びれば良いと思っている。

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紐解いても期待しない時代

2025-03-17 23:51:57 | つぶやき

 昨日、地域の役員の引継ぎ会があった。コロナ禍の影響はいまもってあり、かつてはこうした引継ぎ会の後に懇親会が開かれていたが、そうした機会は控えられている。地域では、感染症に敏感な方もいて、人の集まる機会を今も控えることを徹底している人もいる。この春に「新年会をどうする」と隣組で話題になった際、いつもこうしたことに敏感な方が「実施しなくて良い」と言って、積極的に実施したいと主張する人もおらず今年も中止となった。否定的な方が来年は隣組長になることもあって、当分の間?、いやもう復活することはないかもしれない。そんなことを考えるまでもなく、近ごろは自分の住む地域であまり人に会わないでいると、この地域の雰囲気を知らないままにいたが、下伊那地域の中心である飯田市界隈に久しぶりに足を運ぶと、上伊那と違っていまもってマスクをする人が圧倒的に多い。地域性もあるのだろうが、けしてこの地域に感染症が高い比率で蔓延しているわけでもないのだろうが、なぜかマスク姿の人が多くて、していないわたしが浮いているように感じる。

 さて、懇親会に代わって折詰を用意して自宅で飲んでもらおうと用意するのがコロナ禍以降の姿。わたしも昨年まで担った公民館の役員の際に、そんな準備に気を漬かったもの。近ごろいろいろ値上がっていることはみな承知のこと。しかし地域の予算は簡単には上げられないから、値上がりがあっても内容を減らして対応するしかない。したがってこうした中身が節約されることになるのだが、包装はいつもながらの姿ながら、包装をほどいて中の蓋を開けてみると、「食べたいと思うものがない」。そもそもこれがいくらするか知らないが、こんなものを用意するくらいなら、こんなことは辞めた方が良い、と思うが、そんなことは他人にはなかなか言えない。しかし、わたし的にはこんなものを配布するくらいなら全廃するか、どうしても肴のつまみが欲しいのなら、乾物の方がまだましだと思ったりする。こんなもので由と思う人がいるのなら、もはや私はいらないから「欲しい人にあげて」と思う。近ごろ会社で弁当を頼んでも、中身は期待薄。既成の総菜でも入れたのでは、と思うような内容で、健康には留意されていない。何とも残念な話に加えて、このごろは弁当業者も減って、「お昼どうする」と悩む人も多い。世間に期待することはもはや過去のことで、自分のことは自分で賄う、そうでもしなければ残念なことが多すぎる。

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盃状穴の背景

2025-03-02 23:59:59 | 民俗学

 本日記では盃状穴について何度となく記してきた。とりわけ盃状穴再びにおいて、ウェブ上に掲載されている盃状穴の取り扱いについてもまとめてある。Wikipediaでの扱い方も紹介したが、現在もなお「謎」として取り上げられている印象だ。加藤幸一氏は、越谷市郷土研究会のページ石造物にみられる謎の「盃状穴」を掲載しており、その中で次のように報告している。

 この「盃状穴」の信仰は、江戸時代には盛んであったようであるが、明治以降の石造物には盃状穴があまり見られないことから、明治以降になると何故か衰退したと推定されている。この信仰に関してはまだ解明されておらず謎の習俗としてとらえられているようである。埼玉県の東京に近い蕨市では、蕨市史調査報告書第八集「蕨の石造物」(平成4年刊)によると「凹の残されている石造物はすべて江戸時代のものであり、(調査の時点で)明治以降のものは一基も見えないことから、明治以降この風習は廃れてしまったため、このような風習があったということが伝わらなかったのであろう。」としている。全く同感である。 
 昔は「盃状穴」という名称はなかった。単に「穴」と呼ばれていたようだ。この「穴」は、子供たちのままごと遊びに利用され、特に、ヨモギなどの草を穴に入れ、棒で搗いてすりつぶして遊んでいたという。 

 としながらも文中では「結局は「盃状穴」がどうしてできたのか、本来の盃状穴の習俗については、今となってはよくわかっていないのが現状である」と述べており、やはり「謎」という印象を与える。しかし、「女児が数人でままごと遊びに凹み穴へドングリを盛ったり、草の葉を叩き擦ったりもしていました」と言う例も紹介しており、こうした伝承が少なからず存在することには触れている。ようは伝承からたどれば、信仰の対象ではなく、子どもたちの遊びの中で語られていたものと推察可能だと思うのだが、それらは江戸期の石造物に見られるもので、近現代では忘れられてしまったものという捉え方もされている。

 さて、盃状穴再びで触れた通り、伊那谷南部では「石屋さこまんば」にみられるように子どもたちの遊びによって造られた「穴」だと触れた。先日飯田市誌のアンケートを紐解いていて、当時の調査報告書にもわたしが「石屋さこまんば」について記していたことに気がついた。飯田市誌編纂委員会民俗部会が2001年に発行した『山本久米の民俗』の中に次のように報告した。

 家の周りでの遊び 石屋さ駒場は、石の窪みをよもぎでつついた遊びをいう。「石屋さ駒場穴掘って通れ」という歌もあり、こうして長年突かれた石には、窪みがいくつもできて残っている。どういう意味かわからずに遊んでいたという。つつく際には主にヨモギを使った。子どもたちが家に集まって男も女も混じってやったもので、よそにそういう石はそれほどなかった。

というもの。これは飯田市久米北平の昭和3年生まれの男性に聞いた話をまとめたもので、その男性に書いていただいた「子どものころ遊んだ場所」の図には、家の庭に「石屋さこまば」と記入されている。そして実際に家の庭にある石に盃状穴があることも確認している。

 

飯田市久米北平の個人の庭にあった盃状穴(2001年2月17日撮影)

 

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自然石道祖神の中に紛れていた句碑

2025-03-01 23:08:06 | 地域から学ぶ

 先月美篶芦沢の「道祖神講」を訪れたことについて触れた。その際講員のひとり長島さんから子安神社境内にまとめられている自然石道祖神の中に銘文のあるものがあると教えられた。先ごろ講のことで長島さんを訪ねると、子安神社の文字が彫られている石を案内してくれるという。そこで仕事中だったが、子安神社まで案内してもらったわけである。いくつかある自然石の中にひとつだけ一面が平に加工されているものがあり、確かに文字が彫られていることに気がついた。しかし、木々によって太陽が隠されていて陰影がはっきりしない。後日あらためてその石を確認したわけであるが、先日長島さんからも午前9時50分、「今なら陽が当たって文字が浮き出ている」と連絡が入った。

 

中村伯先句碑(伊那市美篶芦沢子安神社境内)

 

 さて、長島さんからその連絡が入る前にあらためて子安神社を先ごろ訪れたわけであるが、ストロボを利用して強制的に陰影をつけて撮影してみた。それが写真である。右端の文字がはっきり写り込んでいないが、「伯先」と見える。文字の流れが俳句のようにも見えることなどから、これは「中村伯先」の句碑ではないかと考えた。陰影をつけても文字がはっきりと読むことができなかったが、伯先といえば伊那市山寺に句碑があり、そこには「三尺の 雪のうへ照る 月夜哉」と彫られていると、『長野県歴史人物大辞典』(郷土出版社 1989年)の「中村伯先」の項にあった。あらためて子安神社の石に彫られている文字を見ると、まさに同じ句である。左端が欠けているため、完全ではないが、これは中村伯先の句碑であることがわかった。それが自然石道祖神の中に紛れているというところの背景がどういうものだったかは、いまとなってははっきりしないが、石としてはそれほど大きなものではなく、句碑といってもかなり小さな部類に入る。

 中村伯先について書かれた前掲書(『長野県歴史人物大辞典』)の内容を下記に引用する。

中村伯先 なかむら・はくせん
 江戸中期の儒医、俳人。一七五六(宝暦六)一八二〇年(文政三)。伊那郡西伊那部村(現伊那市)の医師吉川養玄(号は崇広、俳号は白紙関竜水)の長男に生まれ、本名元茂、号は淡斎、医名は昌玄(昌元)、俳号を伯先といった。一六歳で江戸に出て、医術、儒学を学び、三年後帰郷。二〇歳で根津平治郎の娘はくと結婚し、家を弟に譲って中村氏を称し飯島(現飯島町)に住み、二六歳から六年間上穂村(現駒ヶ根市)に済み、その居を駒嶽楼と称した。三二歳から四年間田畑村(現南箕輪村)に住んだ。三六歳の正月京都に行き、医術、本草、儒学を学び、八月に帰った。以来六五歳で死去するまで三〇年間山寺村(現伊那市)に住み、庵号を坎水園と称した。俳諧は初め美濃派の影響を受けていたが、二七歳ころから伊勢派麦林乙由の流れを汲む加舎白雄とまず文書のやりとりによる交流が始まった。二年後の一七八四年(天明四)に白雄の駒嶽楼来訪があり、ここで伯先は白雄門に入り、やがて北信戸倉の宮本虎杖と共に信州における「白雄が両の手の桃桜」と呼ばれたという。八六年(天明六〕には白雄揮毫の芭蕉句碑を上穂村に建立し、これを記念して最初の編著『葛の葉表』刊行した。以後三〇年余り、医学に俳諧に数多くの編著をなし、また後進を育成し、伊那の地に蕉風俳諧を広めた功績は大きい。死去した年に追善集『明月集』が出され、翌年次の句碑が居宅の坂の下に建立された。
 三尺の雪のうへ照る月夜哉

 ちなみに文責は竹入弘元氏である。

 以下にここで取り上げられた昌玄坂の下にある「三尺の雪のうへ照る月夜哉」の句碑の写真をあげる。句碑には「文政四辛巳三月 舜齢及門人建之」とある。伯先の亡くなった翌年(1821年)に建てられたという(文政3年8月23日死去。65歳)。

 石質は三峰川上流域のものと思われる。この句碑は『伊那市石造文化財』(伊那市教育委員会 昭和57年)に記載されているが、芦沢子安神社にあることが判明した句碑は、同書に記載はない。

 

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かつて飯田市誌編纂で行われた民俗に関するアンケート

2025-02-28 21:00:00 | 民俗学

「多様な民俗地図への試み」より

 飯田市では、かつて飯田市誌編纂の取り組みがされていた(「中央と地方」参照)。その中で民俗部会はアンケート調査を行ったが、編さん事業が中止されたため、それらは死蔵されることになった。おそらくこれまでも、これからも当時のアンケートが利用されることはないだろう。ちなみにアンケートが実施されたのは平成12年ころのこと。内容が重いアンケートだったが、市内全域から141名の方に協力いただいた(平成12年であるからその後の合併村は含んでいない)。生年月日を見ると明治35年生まれの方が数名おられ、明治時代に生まれた方が15名もおられた。貴重なデータではあるものの、前述したように死蔵されているもの。このアンケートの利用に関しては、その後発足した歴史研究所を通して了解いただいているが、もう10数年以上前のことだから認識されているかどうかは不明である。そもそもこの大量のアンケートについて、協力していただいた方たちに還元できていないことは失礼な話なのだが、繰り返すが編纂事業が中止されたから仕方ないことなのだろう。中止されるまでに使われた費用は無駄となったわけであるから。

 

 

 さて、141名の方たちには同じ地域の方たちもいてそのまま地区数とはならない。アンケートをまとめられたのは当時の編さん室であるが、その際に地区名を付している。その地区数は92箇所あった。それら調査地区を図に落としたものが今回示したものである。旧飯田市の形状は左上から右下へ帯状になっているうえに、左端と右端は山間部のため集落がほぼない。外れた位置にある大平は廃村になっている地区でこれを外すと市域の真ん中あたりにしか集落がない印象を受けるだろう。それらがわかるように、今回は農振地域と用途区域を着色して示した。地区名が確認できる大きさで表示したため、すべての地区名が表示てきていないのは勘弁いただきたい。市街地のいわゆる丘の上といわれる地域は、比較的近いところに調査地点があるため、地区名を表示できなかった。

 こうしてみてみると調査地点にやや偏りがあるように思える。薄く大正9年の行政区域を示したが、旧山本村には「久米」の1箇所しかない。旧三穂村にも「伊豆木」と「立石」の2箇所しかなく、南部が粗い印象を受ける。これらの地点で行われたアンケート結果から民俗地図を作成したものを次回から紹介してみる。なお、実はこれらアンケートを利用したものを既に本日記ではいくつか記している。

年明けの墓参
2月8日の行事を飯田市にみる

続く

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多様な民俗地図への試み

2025-02-27 23:11:53 | 民俗学

 安室知氏は、民俗地図に関連した記事を各誌に掲載している(長野県民俗地図研究会が日本民俗学会年会でグループ発表したは「日本民俗学会第七六回年会に参加して」『長野県民俗の会通信』305号へ、また「方法としての民俗分布論―民俗地図の可能性―」『長野県民俗の会会報』47など、ほかに第36回 現在学研究会 リモート研究会において「方法としての民俗地図、ver.2」2025年1月28日など)。それらで安室氏はこれまでは「小縮尺の議論が中心であった」と言い、「そうした小縮尺の民俗分布論は、特定の事象しか取り上げられないこと、圧倒的にデータ数が不足すること、用いられるデータの出所が不分明であること、データが質的に不均衡であること、民俗誌データと大きく乖離することなど問題が多い」と指摘している。そして「県・地方といった中縮尺の民俗分布論が必要である」と述べて、中縮尺の民俗地図を勧めている。

 地図には大・中・小の縮尺が知られる。一般的には

大縮尺 5千分の1より大きい縮尺の地図
中縮尺 1万分の1から10万分の1程度の縮尺の地図
小縮尺 20万分の1より小さい縮尺の地図

と言われている。ようは縮尺の分母が大きいほど小縮尺と言われ、小さいほど大縮尺ということになり、大小のイメージが逆転するためわかりづらいことは確かである。実際のところ長野県民俗地図研究会が作成した地図はA4版で長野県図を出力しており、縮尺は100万分の1程度である。利用する際にはさらに小さくしているため、実際の縮尺は200万分の1とか500万分の1といったところが実際だ。したがって縮尺レベルでいけば小縮尺なのかもしれないが、安室氏が述べているのはそういうことではない。ようは日本地図であれば広域表示であるから小縮尺であり、県図であれば限定された地域を表しているから中縮尺、もっと狭い範囲を示そうとすれば大縮尺であるという意味である。ようは日本地図で表したような民俗地図は、前述の「小縮尺の議論が中心であった」に当るわけである。

 さて、民俗地図研究会では長野県図の地図を作成してきたわけであるが、いっぽうで「それは長野県という限定範囲のこと」という指摘もある。したがって周辺県を含めた地図も今後は課題となってくるし、会員の中にはそうしたところに目を向けようという意識もある。多様な展開は予想されたことであるし、当初の県史データだけにとどまらない地図も今後は展開されることになるのだろうが、応用していくにはさらなる地図作成が容易なものであるという意識が広がらないと難しい。そういう意味で、ここでは盛んに地図を垂れ流しているわけであるが、「多様」な展開は今後も検討していきたいと考えている。

 そうした中で以前上伊那郡内を示した地図も示してきたわけであるが、ここでは市域という範囲を示した地図を事例として展開していこうとも考えている。もちろん大縮尺化することは地域性を捉えられない可能性が高いが。それらをもう少し広いエリア、例えば郡とか県といったところへ反映することでデータが多くなり、地域性の検証にもたどり着くのだろう。

続く

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農家でも野菜を買う

2025-02-26 23:26:55 | ひとから学ぶ

 先日の民俗の会総会後の懇親会で、「食」の話を参加された女性の方たちとした。まず我が家の食卓であるが、基本的に米はもちろんだが、野菜も自家用のものを利用している。あえていえば毎週届く生協の食材にニンジンが必ず入っているから、わが家ではニンジンを作っていないことになる。我が家ではニンジンがうまくできないため、ニンジンは購入品である。いつも生協の箱が届くと冷蔵庫に運んでいるわたしには、「野菜」の類がこの箱に入っていたことは、ニンジン以外にはない。ごく一般的な野菜の中で、やはりニンジンは必須品(緑黄色野菜)であるから、食材として妻にとっても必須と捉えている食材なのだろう。そのほかのごく一般的な野菜は我が家で採れる。ニンジンについてはこうして毎週届くから「旬」の野菜と言う感覚はなく、いつでも食べている食材の一つでもある。しかし、自家用野菜となると、1年中採れるものはない。やはり採れる時期があるから、無い時期もある。したがってキュウリやトマトを冬場に食べることはない。

 長野県民俗の会第245回例会は3月23日に安曇野市豊科郷土博物館などで開催される。博物館の今回の企画展は「食卓の風景 食と家族の80年」である。「食卓から家族を見た時、どんな風景が見えるだろう。献立は誰が決めるか。食材はどこで誰がどう手に入れるか。調理は誰がするか。家族はどのように座って食事を食べているか。戦後80年の食と家族の変化を見てみよう」というものだが、それに関係して「調理は誰が」という話で話題になり、Uさんの家の話になった。Uさんの家では夕食をUさんが作ることはないという。週に4日はご主人、3日は義母、1日は娘さんだという。ご主人が多く担うのは、退職されて家にいるからだという。ご主人はネットなどのレシピを利用して多様なメニューで組み立ててくれるようで食材もご主人が用意されるよう。そんな話をしていて、Uさんの家は農家でありながらメニューに合わせて野菜も購入すると聞いた。そこで我が家の話を持ち出したわけだが、前述したように我が家では「ある野菜」を利用しているから、旬ではない野菜をわざわざ買うことはない。「農家とはそういうもの」と思っていたらそうではない話を聞いて、考えてみれば農家と言っても食事のことを考えて多様な野菜を必ずしも育てているわけではない。だからメニューに合わせて旬ではない野菜を買うことも当たり前なのかもしれない。むしろ我が家のように野菜をほぼ買わない家の方が珍しいのかもしれない。

 ということで今でも「トマトやキュウリを買う」と言われて、思わず「そんなものこの時期に売っているんですか」と聞いてしまった。ということでいつも訪れている店で野菜を見てみたら、トマトもキュウリもちゃんと売っている。ただし、量は少ないし、このあたりでその野菜が採れる時期に比べたら、モノは良くない。そもそも「野菜を買う」とイメージがないため、野菜を売っている空間など見ていなかったということになる。あらためて女性から献立がいつも違う、と聞いてそれもびっくり。かつての農家では献立はそれほど変わらなかったと記憶するし、わが家は今もそんなに多様ではない。きっとご主人の料理は「お金がかかっているんではないですか」と思わず聞いてしまった。

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口惜しいこと

2025-02-25 23:56:49 | ひとから学ぶ

 人はそれぞれであることは言うまでもない。昔に比べるとより多様であるというのは、世の中が画一的な物言いをしなくなったことにもあるだろう。ちょっとした昔話をしても、場合によってはパワハラだと言われかねないし、とくに仕事の空間で仕事を教えるというのは難しい時代になった。いっぽうでそれぞれの技量に負うところが大きくなって、知識格差が大きくなっているのかもしれない。そもそもペーパーレス時代とそうでない時代を生きてきた者にとって、理解不能なことは多い。「印刷」して読もうとするわたしなどは、ペーパーレスにはとても追いついていけない。デジタルとしたら、いかに順番を認識したらよいものか。紙であれば順に重ねることができるが、データで管理するとすればどう管理するべきか、その時に「これでいこう」と思ってもしばらく後にそのまとめ方を変えようとしたら容易ではない。加えれば紙であれば捨てるのも並んでいる中からチョイスすれば良いだけのこと。また順番を変えるのも容易だし、このご時世であれば、紙をデータ化することも容易だ。データだけではちょっとイメージできない。机の上の書類を整理できないで積み重ねているような者にとっては、データなど絶対管理不可能だ。そしてその中から必要なデータを簡単に取り出せるかどうか、年代者には容易ではない。

 既に一線をから離脱したものが言うことでは「ないのだが」、と思いながらも、どうしても口にしたくなることも多い。「これで良いの」と問えば、即答できないことが現役世代には多い。いや答えられないことが多い背景は、紙で大事なものを蓄積していないからだと思う。したがって若い世代でもわかっている人は、ちゃんと紙で管理している。それはともかくとして、とりわけ人とひととの関係を冷静に捉えられるかどうかという点については、周囲への観察眼はもちろんだが、こころに余裕がないと見えないことが多い。それは結果として仕事の成果にも表れる。ちょっとしたことであっても、そうしたちょっとしたことに気がつけない人は、人の信頼を受け取ることができなくなってしまう。そしてそれを口で諭しても、おそらくそうした人たちには理解が得られない。人材が少ないと、結局世の中は、そして会社は低迷していくこととなる。まさにそうした実態を眼にしているようで、残念だが、わたしにはどうすることもできない。経験を大事にしなかった会社の末路かもしれない。そして「末路」だと認識していない人たちが、この後どう対応していくのか、見もので仕方ない。

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〝厄年〟その5

2025-02-24 23:00:00 | 民俗学

〝厄年〟その4より

 〝厄年〟その2において男性の大厄について触れたが、女性の大厄についても触れてみたい。男性の場合42歳を大厄としているところは全県にまんべんなくあり、25歳を大厄としているところがやはり全県に点々とあった。ようは地域性というものは見られなかったわけだが、女性の大厄についてここに図を示してみた。見ての通り、女性についてはここ数回で触れてきているように、「37歳」大厄という箇所が下伊那に集中している。ようは男性の25歳と42歳のようにほぼ全県に当り前に厄年として認識されているのとは異なり、女性の場合は「33歳」厄年地帯と「37歳」厄年地帯が明確に分かれているためにこうした地域性が現れる。もうひとつ特徴的なことは、男性の場合の主たる厄年25歳と42歳の場合の大厄「25歳」は19箇所しかなかったが、女性の場合の主たる厄年19歳と33歳における大厄「19歳」は72箇所もあり、女性の大厄は男性の42歳ほど「どこでも」というわけではないことが解る。図を見ても「19歳」大厄は全県に例が見られる。あえて言えば奥信濃といった北部県境地方には「19歳」大厄というところはほとんど無いようだ。以前にも触れたが、「37歳」大厄が長野市と信濃町に点在しているのは意外なことである。

 

 さて、あきらかに「37歳」厄年に地域性が現れたわけだが、この女性大厄と男性大厄を比較してみようと、両者を同じ図に載せてみた。女性大厄の記号をそのままに、男性大厄の記号を明確にしようと違う系統の記号に変更してみた。とくに気がつく点は2点。1点は女性「33歳」と男性「42歳」はほぼ同じ箇所に整合するということ。裏を返せば男性「42歳」があまりにも一般的だからということになるだろう。もう1点は事例数は3箇所しかないが、男性「25歳、42歳」とふたつの歳を回答した地点では、女性も「19歳と33歳」とふたつの歳を大厄として捉えているいる。回答者に大厄は二つあるという認識があるようにもうかがえ、これらは地域と言うよりは回答者の認識に影響しているようにもうかがえる。

続く

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土手焼きの季節

2025-02-23 23:40:56 | 農村環境

 「田んぼ 土手焼き」と検索すると〝よこね田んぼ〟の記事がたくさん登場する。そもそも「土手焼き」という呼称そのものが伊那谷あたり特有のものなのかもしれない。平らなところではあまりしないのだろうが、伊那谷のように畦畔が大きい水田地帯では土手焼きというものをするところは多い。が、わたしの生家のあたりではあまり土手焼きはしなかった。もし今するとすれば、今風の風習かもしれない。Yahoo!の検索でトップにある解説には

田んぼでの土手焼きは、日本の農業における伝統的な風景の一つです。 土手焼きとは、春先に田んぼの土手などに生えている枯れた雑草等を焼き払う事です。 単に不要な草木を取り除くだけでなく、農地の健康を維持し、持続可能な農業を支える重要な役割を果たしています。

と記されているが、例えば〝よこねたんぼ〟のたくさんの記事を覗いてみると、「土手焼きは害虫駆除と土手の状態を確認するのが目的」とあり、害虫駆除の目的もあるよう。、そして「枯れ草を放置すると草が腐敗し、その影響で土が柔らかくなるため土手が崩れてしまう」という意識が根底にはある。〝よこね田んぼ〟のある飯田市は山間地域が多く、もちろん畦畔が大きい。したがって畦畔が脆弱化することへの意識は高いわけである。したがってこの地域では、草刈をして草をそのままにしておくことはあまり好ましいとは思われていない。必ず草を寄せて、その草を運んだり、あるいは焼却したりする。おそらく土手焼きレベルだと野焼きが禁止されている今となれば、消防署などに連絡して許可を得ているだろうが、草刈後の草を乾かした後に焼く際に、いちいち消防の許可を取っている人は少ないだろう、とは想像である。

 さて、昨日民俗の会総会があって松本市で泊ったわけだが、帰路伊那谷に入るとあちこちに煙があがっていた。とくに集中的に煙が上がるのが見えたのは、伊那市手良あたり。ということで検索してみると伊那市手良地区 活性化企画委員会のinstagramの記事があった。

2月23日、本日、手良地区は、土手焼きの日で春になる前のこの時期に土手を焼きます。これは、雑草駆除を目的に行われています。
手良地区内のあちこちで、今日は煙があがっていまいた。

ということで、写真は対岸の南箕輪から見たその様子である。

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