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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

旧東部町祢津西宮の自然石道祖神⑥

2024-09-13 23:46:43 | 民俗学

旧東部町祢津西宮の自然石道祖神⑤より

 

東御市祢津西宮古見立の道祖神群

 

 公民館東側にある道のもう1本東側の道を少し下りてい行ったところに、写真の道祖神群が祀られている。注連が張られているものが双体道祖神、向かってその左にあるものが「道祖神」である。逆光のためそれらしい陰影が無いのではっきりしないが、当然ながら双体像がこの空間の中心であることは確かなのだろう。右端にあるものは合掌している丸彫りの単体像ながら、東部を欠損している。双体像、単体像、文字碑と勢ぞろいであるが、左端にあるものが自然石であり、岡村知彦氏はこれを「人形型自然石」と記している。そして道祖神群と記した通り、ここには道祖神しか祀られていない。その上で周囲にある五輪塔残欠である。当然ながら道祖神の祭祀場にある以上、これらは道祖神として祀られていると捉えて良いのだろう。佐久地域では道祖神以外の石造物にも五輪塔残欠が一緒に置かれている例があって、必ずしも「道祖神」と捉えられないのかもしれないが、こうした例が少なくないことは事実である。五つの五輪塔残欠以外にも小石がいくつか置かれていて、それらも含めて「道祖神」として捉えられるのかもしれない。岡村氏はここの道祖神として4基として一覧に掲載されているが、それ以外の石の捉え方は難しい課題と言える。

 以上祢津西宮の6カ所の自然石道祖神を紹介してきたが、岡村氏の報告で捉えると今回の⑥を除いた5カ所が西宮における自然石道祖神のすべてということになる。

終わり

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旧東部町祢津東町の自然石道祖神 後編

2024-09-13 23:27:32 | 民俗学

旧東部町祢津東町の自然石道祖神 中編より

 

東御市祢津公民館入口の道祖神

 

 祢津の公民館や保育園のある一角に入る道の四つ角にひっそりと道祖神が祀られている。なぜ「ひっそり」かというと、消火栓は目立つが(それほど目立っていないかも)車の往来があって、四つ角ということも重なり、ここに石碑が並んでいることも気がつかない人は多いだろう。それほど背丈のあるものがないから、石がごろごろしている程度の感じ。言ってみれば祢津の入口のような所。向かって左側2基が道祖神に当り、左端のものは単体像だろうか。風化が進んでいてはっきりしないが、岡村知彦氏はこの道祖神を自然石道祖神としている。どちらも人形に見えなくもなく、岡村氏は「人形型自然石」と表現する。右側のものはまさに自然石で火山噴出物らしい雰囲気を醸し出す。置かれている雰囲気から、あまり信仰を集めているという雰囲気はない。左端のものは碑高40センチほど。右側の自然石は70センチ余。

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東信の道祖神と五輪塔⑤

2024-09-12 23:29:45 | 民俗学

東信の道祖神と五輪塔④より

 

北佐久郡立科町平林


東信の道祖神と五輪塔③」で触れた北佐久郡立科町牛鹿虎御前公民館から数百メートル東に行ったところにある平林集落の中ほど、三叉路に双体道祖神が祀られている。その周囲に石がごろごろと祀られているのか、それとも置かれているのか、はっきりしない風景が目に入る。岡村知彦氏の『北佐久石造文化財集成―立科町編―』には、合掌型双体立像1基のほか、同じ所と思われるところに石祠1基と五輪塔片1基があるように記載されている。道祖神と五輪塔が並んで記載されていると「怪しい」と思いピックアップして現地を訪れているもので、ここ平林の道祖神を訪れるきっかけも岡村氏の前掲書による。

 さて、石祠は同じ箇所に見受けられないが、五輪塔片は確かに存在した。それも1基どころか数えると6基は最低でも確認できる。さらに五輪塔片かどうか不明なものが、双体道祖神の後ろにも隠れていて、小さなものを含めるともういくつか上乗せとなる。ようは前掲書の1基以上に、たくさん五輪塔片が存在するのである。双体道祖神に銘文はないが、そこそこ古い年代の物と想像される。もともと道祖神と五輪塔片が並んで祀られていたのかどうか。

続く

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自然石を祀る(長久保の道祖神)後編

2024-09-11 23:17:10 | 民俗学

自然石を祀る(長久保の道祖神)前編より

 

長久保10区長安寺参道入口の自然石

 

 長和町長久保から佐久へ向かう国道142号の道沿いに長安寺がある。国道を挟んで集落から参道があり、その参道入口、寺に向かって右手に子育地蔵菩薩が祠の中に安置されている。この子育地蔵菩薩を管理されているのは長久保10区の皆さん。祠の前に垂れている奉納幕に「令和六年春 長久保十区町内会」と墨書きされている。この祠の左手に小さな祠が二つ並んでいる。いずれも自然石のみが祀られていて、これらは神様系のものと思われる。特に複数の自然石が積み重なるように祀られている祠は、長久保のほかの町内会に祀られている自然石道祖神の祀られ方と似ている。しかし、これらは前編でも触れた岡村知彦氏の『東信濃の道祖神』には記載されていないものと思われ、「道祖神ではない」とされたものなのかもしれない。

 この自然石についていったい何の神様なのか、周囲で聞き取ろうと試みた。そこで気がついたのは、周囲に家がたくさんあるのに、住んでいる人がいない。ようは空き家だらけなのである。長久保は新町と言われ、町割された集落。家々は軒続きで、通りに面したところはともかくとして、裏通りに入ると「道が狭い」。とくにこの自然石が祀られている10区は、傾斜地に家々が並んでいて、軒先まで車が入れない家も見られる。現代の事情から推定すると、暮らしづらい空間なのかもしれない。故に、若い人たち、ようは次世代の人々がここを敬遠してよそへ行ってしまう。したがってどんどん空き家が増えて、町の中にもかかわらず、いいや町の中だからこそ、人口減少を招いている、そう見えた。ということで、話を伺おうと思っても聞けないのである。寺にも訪ねたがわからず、周辺の住んでいそうな家を訪ねていくのだが、隣の町会へ行ってしまう。ようやく話を聞いた女性は、何の神様かはわからないと言う。特に「道祖神とは言わなかった」という。ただ、隣の9区や11区には道祖神があるものの、10区にはない。今となっては難しいのかもしれないが、道祖神以外に何の神様なのか…。

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飯山市桑名川名立神社例祭へ④

2024-09-10 21:43:32 | 民俗学

飯山市桑名川名立神社例祭へ③より

 

飯山市桑名川名立神社例祭 練り

 

 天狗による注連切りが終わると、練りは前進を始める。とはいえ、午後9時に始まった練りは、拝殿まで獅子が練り込むまでは2時間ほど要す。距離にして150メートルほどではあるが、この間をゆっくりと進む。「飯山市桑名川名立神社例祭へ②」でも触れた通り、かつては練りの途中でも子どもたちの舞があったが、現在はそれがない。従ってかつてに比べれば少し時間短縮されているのだろうが、それでも拝殿での舞が始まるのは午後11時過ぎとなる。

 さて、JR飯山線を越えたところで1回目の注連切りを終えたが、練りの途中でも獅子舞が舞われる。かつては今ほどライトアップされていなかったため、まさに闇夜に灯籠の灯りだけが浮かんで、幻想的な雰囲気を醸し出したものだが、今の練りには当時の雰囲気は少し欠けている。また三十六歌仙灯籠が練りに加わらないのも寂しさを感じさせている。しかし、かつてとの違いはあるものの、拝殿での舞が始まると、そんな印象は消えてしまう。それほど名立神社の午前零時前後の舞は圧巻なのである。それは次回触れることとする。

 境内へ入る手前にある鳥居で2回目の注連切りが行われる。見物する人たちの目的は、やはり天狗の注連切りであり、また拝殿での「剣の舞」であることは誰でも知っている。従って午前零時を過ぎても、若干見物する人は減っても、全てが終わるまで見守る人も多い。練りの中心に位置するのが獅子であることも、わかる。注連切りされたあとは、獅子が徐々に拝殿に進み、そのまま拝殿へ練り込んでいく。最後は拝殿で待ち構えていた祭典掛長の前に進み、練りは終了となる。そして頭も、天狗の面も、拝殿内にしつらえられた祭壇に並べられて、その前でいよいよ舞が始まるのである。

続く

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自然石を祀る(長久保の道祖神)前編

2024-09-09 21:52:25 | 民俗学

 この夏は東信地域へ何度となく足を運んでいる。伊那谷から東信地域へ行くとなると、南佐久南部以外は、和田峠越が一般的だ。実際何度か足を運んでいるうち、和田峠以外の道を選択したのは、小海町の休職している同僚の見舞に行った際に麦草峠を越えたのと、南牧村の野辺山近辺を目指した際に長坂インターを経由して清里から入った2回のみ。先日もそうだったが、途中で用を足して北信へ、という際にも検索すると和田峠を越えて行くルートが最も早いよう。高速を使わずに北信へ向かう場合は、どうも和田峠→菅平というルートが早いようだ。ということで、和田峠を越えるということは、長久保を頻繁に通る。6月に「旧長門町長久保松尾神社入り口の道祖神」を記したが、長久保は旧丸子町や旧武石村のように、自然石の道祖神が多く残る。その長久保といえば、同じ6月に「道祖神バンザイ」を記した。昭和62年の正月に訪れた道祖神祭りについて触れたものだが、そこに写っている道祖神が、最近頻繁に通る中探していたのだが見つからなかった。昔の記憶をたどりながらあちこち探したのだが分からなかった。そして、先日木島平へ向かう途中に再び長久保に立ち寄ったところ、ようやく見つかった。安堵である。

 さて、長久保の道祖神については、岡村知彦氏の『東信濃の道祖神』から引用させていただくと、次のようになる。

①片羽 自然石6
②五十鈴川 自然石2 文字碑1
③拾弐開戸 双体像2 自然石7
④竪町 自然石4
⑤山宮 自然石7
⑥大石 自然石10

これはあくまでも同書からわたしが捉えた箇所数であって、羅列されているので括りに間違いがあるかもしれない。いずれにしてもわたしが同書から察知すると祭祀箇所は6箇所とみる。このうち、前掲の松尾神社入り口のものが③だろう。とすると残りは5箇所。先日過去の写真に写っていた道祖神が見つかり、それはジェイアールバス関東 小諸支店 長久保営業所の北側の道沿いにある家の裏側に祀られていたもの(「道祖神バンザイ」の7枚目、9枚目の写真に写っている道祖神)。また、竪町から観音寺に向かう狭い橋の袂にあるものは同じ「道祖神バンザイ」の6枚目の写真のもの(②)。これで残りは3箇所。長久保4区にあるものは④の竪町のものか、同じ横町の11区にあるもの、さらに12区にあるものまで確認したが、①から⑥のどれかはっきりしないものの、これで6箇所となる。

 さて、長久保10区の長安寺参道入口に自然石が祀られている。長久保のほかの道祖神を見ていると、これも道祖神ではないのか、と思うのだが、はっきりしない。

 

長久保4区道祖神

 

祠の外に「道祖神」、中に2基の自然石

 

長久保11区の道祖神

 

JRバス関東 小諸支店 長久保営業所の北側道祖神

 

 ジェイアールバス関東 小諸支店 長久保営業所の北側の道祖神を探し出して驚いた。「道祖神バンザイ」の7枚目の写真でわかるように、自然石が祠の中にいくつか積み上げてある。しかし、現在はそこに小さな双体像が置かれており、かつての自然石道祖神のひとつと思われる石が、双体像の後ろに置かれている。あとの石は石組に使われているのかどうか。双体像はまだ新しい。自然石では道祖神と認められなくなって新たないわゆる世間で認められる道祖神を祀ったのかどうか。

続く

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初宮参りの日

2024-09-08 23:06:04 | 民俗学

 

 先日「初宮参りの供物」を記した。辰野町を中心に初宮参りに扇と真綿と麻を祈願する霊を見て民俗地図で表したものだったが、初宮参りをする日(生後何日目に行うか)を併せて地図化してみた。そもそも『長野県史民俗編』の問いは「お宮参りは、男・女児それぞれ生後何日目にやりますか」というものであって、その際何を神社に供えますか、という問いではなかった。答える中でそうした内容も聞き取っていたものであって、そもそもの問いが異なることから、答えとして網羅されているかどうかと問われると自信はない。いっぽう初宮参りは生後何日目か、というストレートな問だけに、答えは多様であった。今回地図化するにあたり、生後何日目かという数字をデータ欄に落とし込み、その上でデータを加工してみた。実際に回答された数字の最大は、男女共に100日目、最小は男19日、女20日であった。多様な数字が並ぶうえで、男女1日違いの数字を回答する事例が多かった。回答に添えて「女は低いので1日か2日遅れてお宮へ行くんだときかされていた」というものがあった。いっぽう「女の方がませているから」と言って、「男33日、女30日」という事例もあった。最頻値で示すと、男3女共に33日となった。また、実施日を実数で全て足して事例箇所数で割った数値(平均値)は、男34.3日、女33.4日と、みごとに1日違いの数値となった。しかし、図を見てわかる通り、必ずしも男の方が早いわけではなく、同日や女の方が早いという例も数多く、前述したように、必ずしも男女の数値が1日違いではなく、2日違いという例が多いがために、平均したら偶然にも1.0日という差が出たというわけである。

 さて、地図は数値が多様なため、男女同じか、男が早い、あるいは女が早い、という3社択一という図で表すこととした。男女同じという回答は北信に顕著で加えて佐久市周辺臭いい。いっぽう男の方が早いという回答は全県的にあるが、顕著なのは下伊那と木曽だろうか。また、女の方が早いという回答は、栄村や長野市周辺、さらに松本周辺と上伊那に多い。これら傾向の裏には何があるのだろうか。なお、今回は小原稔氏が作成した主要街道の図を載せてみた。

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豊足穂神社例祭へ 前編

2024-09-07 23:18:21 | 民俗学

ここまで南鴨改善センターで

 

豊足穂神社で(令和6年9月7日午後7時20分~50分)

 

 同僚の息子さんが「天狗」を担うというので、先週に引き続き奥信濃を訪れた。いわゆる祭礼で注連切りをする天狗。炎を伴う祭りは、人々の目を奪うのは確かで、練りの中心は神楽、いわゆる獅子ではあるが、人々の感心は、やはり「天狗」なのである。

 木島平役場のすぐ東に南鴨生活改善センターがある。ここが祭りの「宿」である。かつては「宿」を担うのは希望者だったというが、希望者が無いと区長宅が宿となった。その負担も大きいこと、また最近ではコロナ禍もあって、宿は集会施設に変わった。この宿で注連切りはもちろんだが、獅子舞も舞われ練りは始まったというが、今は獅子舞を舞うのは神社境内のみ。したがって午後7時に始まり、終了は午後9時ころと、約2時間の奉納神楽である。南鴨改善センターから豊足穂(とよたるほ)神社までは、距離にして70メートルほどと短く、練りは短時間。したがって改善センターと神社での注連切り、神社での獅子舞がメインとなる。戸数140戸ほどという南鴨区の家々がほぼ氏子となる。祭典団と言われる若者の集団がこの奉納神楽を担っており、若者の集団がここでは健在だ。30歳代なかばで祭典団は終了のようで、同僚の息子さんも祭典団では長老にあたる。昨年初めて天狗を務め、今年は2回目。3年は務めると言うが、さすがに人手が減ってきて、4年目もあり得るということも耳にした。

 先週の桑名川の天狗と違うのは、注連を切る際に右手に刀、左手に松明を持ってその所作に入るところ。切る際には松明を放り注連を左手で持って右手の刀で切る。野沢温泉の湯沢神社の注連切りに似ている(湯沢神社では松明を放り投げると同時に注連を切る)。

 さて、ここでも灯籠がたくさん練りに加わる。制札灯籠に御幣灯籠は桑名川と同じ。傘鉾風の灯籠は提灯の付いたものも角灯籠のタイプの物も合わせて花灯籠と言う。野沢の道祖神祭りに揚げられる灯篭も花灯籠なのだろうが、垂れ下がる花はないものの、ここではそう呼ぶようだ。小さな角灯籠は「こっぱ灯籠」と呼ぶらしく、この灯籠は子どもたちが持って練る。書かれた文字を見ると、そもそも灯籠造りには子どもたちが加わっているようだ。

続く

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小布施町中子塚庚申さんの祭り

2024-09-07 21:38:06 | 民俗学

上高井郡小布施町中子塚(令和6年9月7日撮影)

 

 木島平村豊足穂神社に向かう途中、小布施町で自然石道祖神を確認しようとしていたところ、四つ角にある祠に幟が立てられていて今日が祭りだということがわかった。祠の中を覗くと写真のような石祠が祀られていて、下部に猿らしきものが2体彫られていることから「庚申」さん?、と疑った。そこで近くの家の方に聞いてみると、外に出て来て親切にいろいろ教えてくださった。今夜が庚申さんの祭りだということ。ここでは神楽が舞われるという。庚申講では珍しい設定だ。すぐそばに中子塚の神社があるため、「神社の祭日?」と聞くと、神社の例祭は春とのこと。やはり庚申さんの祭りだと言う。以前はもう少し道寄りに建っていた祠は、車がひっかけて破損したという。時おりそういうことがあることから、ほんの少しではあるが、東へ移転したという。使える材料は使って建て直したというが、見た感じはけっこう新しい印象。ある程度材料を交換したのだろう。祠の中を覗くと天井が格天井となっていて、そこに絵が描かれている。こうした祠では珍しい細工だ。

 幟が立っていて気になったのも事実だが、実は祠の外の野天に自然石の祭祀物が目に入り、それが何のか気になった。もちろんこの日小布施に立ち寄ったのは自然石道祖神を確認しようとしてのこと。そういうこともあって、話を聞いてかくにんしてみたかった。するとこの石は「かりったま」と言うらしい。ようは陽石である。そしてその横にある立派な松の木の肌にあるあざの様な模様を女性に見立てたという。とはいえ、『小布施町の石造文化財』(1989年 小布施町教育委員会)によると、これをカリタケさんと言い、道祖神として紹介されている。今回聞いた方は「道祖神とは違う」と言われたが、どちらが正解か。陽石を祀る背景には道祖神としての主旨と重なる部分があり、実際陰陽石を道祖神と言っている例は多い。したがっていちおう道祖神として捉えても良いのだろう。

 さて、ここの庚申さんの祭りの獅子舞について、「北信濃神楽採訪」に掲載されている。2014年のおぶせ六斎市に出演された際のもので、庚申さんの祭りに舞われたものではない。平成19年に中断した獅子舞は、復活して現在も舞われているよう。

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飯山市桑名川名立神社例祭へ③

2024-09-06 23:10:55 | 民俗学

飯山市桑名川名立神社例祭へ②より

 

天狗の注連切り(令和6年8月31日午後9:55~10:16)

 

 獅子の練りが参道を進むなか、JR飯山線の踏切を越えたところにある鳥居の前では、天狗の注連切が行われる。奥信濃特有の行為で、例えばスキー場開きなどでも天狗の注連切りが行われる。いわゆるスキー場の安全を願ってという意味もあり、そもそも注連切りはその場の悪霊を祓うという意味もあるのだろう。天狗は頭にトリカブトを被り、白ずくめの上に赤色の襷を掛けている。刀を持ち手甲をし、人差し指と中指をかんじよりで縛っている。この意味について斎藤武雄氏は『奥信濃の祭り考』(1982年 信濃毎日新聞社)において、「何のためにこんことをするのか判然としないのであるが、地元の人は、燃やしたたいまつが短くなって、次のしばってある紐を解く時に手にけがをしないようにするためだといったり、もしけがをしても血のしたたりを止めるためだといっている所もある」と述べている。注連縄から20メートルほど手前に立って注連縄の方に向かって相対すると、刀を左右に振って地に刺すような動作をしたり、天を仰いだりして指で印を結び、言ってみれば歌舞伎の見栄のような所作をする。

 繰り返し同じような所作をした後、刀から松明に持ち替える。その長さは2メートルほどあり、燃え尽きるまで使わず、火の勢いが弱まると新しい松明に持ち替える。前進ししたり後退したりする際には松明を振り回すものだが、桑名川の場合比較的おとなしい振りである。同じことの繰り返しの中で、いよいよ注連縄に近づいてくると、周囲からは「まだまだ」という声が飛ぶ。ようは「まだ早いぞ」という意味である。前後を繰り返した後、いよいよ天狗は注連縄に掛かっている紙垂に松明の火を付ける。すると松明から刀に再び持ち替え、注連切りとなる。注連を切る際にも前進したり後退したりし、3回目の前進で注連を切る。なかなかタイミングが合わず、切った瞬間を撮影する、とはいかなかった。

 斎藤武雄氏はこの天狗の注連切りの分布域について「偶然の一致になるのか、お祭りの時の料理に、エゴヨウカンとイモナマスを作る地域と大体同じである」と述べている。

続く

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初宮参りの供物

2024-09-05 23:23:41 | 民俗学

 

 先日「初宮参りの扇と真綿と麻と」を記した。辰野町沢底の鎮大神社と、箕輪町長岡の長岡神社に扇と真綿、それと麻を付けたものが奉納されていたことについて記したものだが、このことについて、「御鉾様と五輪塔残欠」でも引用させてもらった諏訪大社と諏訪神社について詳細に触れている方のページに紹介されている。「鎮大神社」のページのものだ。それを読むと、箕輪町野松島神社や辰野町の手長神社などで奉納されている同類の写真が掲示されている。やはり辰野町から箕輪町あたりに顕著な初宮参りのスタイルのようだ。

 そこで『長野県史民俗編』の元資料から民俗地図を作成してみた。それが冒頭の物である。これを見ると「扇・真綿・麻」を供物として神社に持参するのは辰野町あたりに集中していて、ほかの地域には見られない。実は長野県史のデータには諏訪市豊田上野にもこれらを奉納する例があげられているが、上野は有賀峠を辰野町に下る所にある集落。ようは辰野町に近いところに位置する。長野県史では全ての集落を網羅していないため、その境界域を明確に探ることはできないが、いずれにしても辰野町あたりが中心であることは確かなよう。この後、周囲に少し目を配ってみたい。なお、地図からは供物「酒」を省いた。理由はかなりの箇所で供えられているもので、全県的に分布しているためあえて「酒」を外した。

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東信の道祖神と五輪塔④

2024-09-04 23:00:19 | 民俗学

東信の道祖神と五輪塔③より

 

小諸市山浦西浦農事集会所の道祖神

 

 小諸市山浦の西浦浦は、小諸市の中心地域から千曲川の対岸へ渡った千曲川沿いの山裾にある集落である。県道八幡小諸線沿いの西浦農事集会所の玄関先に、写真の石碑群がある。ここに注目したのは、岡村知彦氏の『北佐久石造文化財集成小諸市』の西浦地区の一覧を見ていてのこと。西浦には道祖神は1基しかなく、「井戸の入口」にそれはあると記されていた。そしてその「井戸の入口」に12項目の石造物が記載されており、その記載から1箇所にそれらが祀られていると推定した。その中に「五輪塔」が1基数えられていたため、確認してみようと思ったわけである。

 県道側に向けて双体道祖神が安置されているが、ほかの石造物は集会所の入り口側に向けてあり、道路拡幅の際にここにまとめられた可能性はある。その道祖神の背後に小さな石がごろごろしていて、その一つが五輪塔なのではないかと確認したが、明確に五輪塔の残欠と捉えられるものはなかった。むしろいわゆる自然石の類と見られた。周囲にそれらしいものが見られないため、おそらく3枚目の写真にある石のどれかが五輪塔と数えられていると思うのだが、確実ではない。いずれにしても石碑群から見れば背面にごろごろしている石に過ぎず、地元でこれを祭祀物と捉えている人は少ないのだろう。

続く

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ご神縁

2024-09-03 23:11:46 | 民俗学

小野弥彦神社

 

 昨日「御鉾様と五輪塔残欠」を記したが、隣の弥彦神社の拝殿前の掲示板に絵馬ではなく、板状の同様の意図のものが吊るされていて、よく見ると「弥彦神社」と記されたものが1枚あっただけで、あとは別の神社の名前が入っている。ふつうはこうしたところに吊るされている絵馬などには、その神社の名前が記されたものが吊るされているはずなのに「どういうことか?」と頭を傾げたわけだ。そうこうしているうちに、一緒に訪れた仲間から、社務所に何かそれを説く鍵になるものが置かれている、と聞いて行ってみた。無人であったため、板状の札をについて聞くことはできなかったが、そこに「信濃巡縁紙(しなのじゅんえんし)」の専用台紙なる小さな紙片が置かれていた。B5版の紙を二つ折りしたもので、中には「御神縁」と印刷されたスタンプの台紙が挟まれていた。そこに印刷されている神社は、弥彦神社のほか蚊里田八幡宮(長野市若槻東条)、武水別神社(千曲市八幡)、山家神社(上田市真田町)、菱野健功神社(小諸市菱平)、子檀嶺神社(上田市武石小沢根)、岩崎神社(松本市新村)、冨士山稲荷神社(飯田市浜井町)、以上8社だった。ようはこれら8社で「ご神縁めぐり」という企画で参拝を促しているというわけである。その上で板状の物を「結び札」と称し、「願いを書いて次の神社へ奉納しご縁を繋ぎます。もう一枚は願いを込め家にお持ち帰りお祀りください。」という。なぜここの掲示板に弥彦神社のものが無かったのか、これを読んで判明したわけである。結び札は2枚で一組となって販売されている。「県内指定の八社すべてで押印したら、申し出てください。修了印を押印します。また記念品を差し上げます。」という。

 さて、弥彦神社にはこの結び札が58枚掛けられていた。こ神縁巡りをされている方が大勢いるようで、遠隔地の神社の札がいくつも吊り下がっていた。表には神社名、裏面には「願いごと」を書くスペースがあって、各々思いのところを記していた。「家内安全 健康長寿」といったものから、「神縁」と言っているから「良いご縁がありますように」といったものが目立った。同様の絵馬を最近見ているが、「縁」に関わる願いは見なかった。「縁」を結ぶための「結び札」と称していることから、願いを込める人々にもその思いが誘導されているようにもうかがえた。

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御鉾様と五輪塔残欠

2024-09-02 23:42:34 | 歴史から学ぶ

塩尻市北小野小野神社「御鉾様」

 

 例会翌日の見学会について先日触れた。小野神社と弥彦神社は並んで祀られていて、小名神社が北小野の氏神である。この神社の入口にいくつか掲示板が建てられていて、その一つに「鐸鉾」についてのものがある。

市有形文化財 小野神社の鐸鉾(さなぎほこ)(神代鉾)

所在地 塩尻市大字北小野一七五の一
指 定 昭和四十九年八月二十八日
所有者 小野神社

 小野神社の鐸鉾は、古くから祭事に使われたとの言い伝えがあるがどのように祭事に使われたかは不明である。諏訪神社にも同型の鉾があり、神領内を巡視する祭儀に使ったものと伝えられている。小野神社の鉾には、十二個の鉄鐸が結び付けられさらに、麻幣(あしで)がふさふさと結び付けてあり、七年目毎に行われる御柱祭に一かけずつの麻幣を結ぶ習わしである。この鐸鉾がどのような祭事に使われたかは不明であるが、麻緒が多数取り付けられており、しかもその古いものはぼろぼろに崩れるほどになっているところから、おそらく一定の祭儀に用いられたことが推定される。境内本殿に向かって左方に藤池と呼ばれる御手洗池があり、そのかたわらの玉垣内に「御鉾様(おぼこさま)」といわれる石があり、神聖の場として足を踏み入れてはならない磐座(いわくら)となっている。この石は方形で中央に孔があいているが、おそらくこの石に鉾を立て、祭儀のとき神霊を招き降ろした重要な磐座であり、この祭儀に神の依り代として使用した神器ではないかと考えられている。

 この説明と鐸鉾について考察したページが諏訪大社と諏訪神社について詳細に触れている“小野神社の「御鉾様」”である。説明にあるように、境内に入って左手に「御鉾様」というものが祀られていて、立ち入り禁止になっている。「方形で中央に孔があいている」石には上に丸い石が置かれていて、その孔は露になっていないが、それらしい形は察知できる。「古代祭祀遺跡」とされているが、前述のホームページ管理者は「大胆な変遷を挙げてみました」といって、下記のように記している。

御佐口神の石棒が祀られていた。
↓ 石棒を譲渡した。
↓ 安置していた穴に、別の(折損した)石棒を差し込んだ。
↓ 記録や伝承がないので、磐座と見るようになった。
穴に鉾を立てた・丸石に鉾を置いて神事を行ったと考えた。

 さて、あくまでもここに紹介したわけであるが、実は最近五輪塔片、残欠を見て歩いていて、この御鉾様の上にある石を見て「これは五輪塔残欠では?」と思った。石の全容は、孔に隠れている部分もあって判明しないが、どうみても五輪塔の「空」あるいは「空風」の部分と思われる。向かって右隣りにある丸い石も、宝珠のように見え、これも五輪塔かそれらの塔の残欠に見える。こう見てくると、そもそも五輪塔の頂の部分だけが、なぜこれぼと世間に「転がっている」のか、と考える必要がある。いずれにしても五輪塔残欠、とりわけ「空」の部分が、「借用物」として祭祀対象にされていることは事実であり、それもかなりの事例が道祖神を中心に見られることには、注目するべきなのだろう。

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飯山市桑名川名立神社例祭へ②

2024-09-01 23:00:34 | 民俗学

飯山市桑名川名立神社例祭へ①より

 

名立神社道中舞(令和6年8月31日)

 

 昭和の時代に訪れた際には、毎年8月31日が宵祭りだったと記憶する。ようは土日が祭典日ではなかった。現在は土日に変わっているようだが、今年はたまたま31日が土曜日。本来の祭日に当った。事前に午後9時からとは聞いていたが、桑名川に着いたのは午後7時を少し回ったころだった。かつて訪れた際より、ずっと早い時間帯に既に桑名川へ身を置いていた。午後9時を前に、旧国道117号線に接する参道入口に人々が集まり始める。ふだんはここに「郷社 名立神社」と刻まれた石柱が目立っているが、夜、それもふだんはここにない灯籠が掲げられているとその石柱も目立たず、むしろその神社寄りに建つ石造の灯籠が目立っている。でも触れた立派な灯籠が掲げられていて祭りの夜を十二分に味あわせてくれる。かつて氏子の多かった昭和時代には180戸あったというが、現在は120戸ほどに減少しているという。この辺りでは中心的な位置にある桑名川だが、人口減少はどこでも進んでいる。二十歳そこそこのころ、この地はよく通った地であるが、仕事で訪れたことは数えるほどで、最も記憶にあるのは昭和58年の台風災害の復旧でかかわったことだろうか。やはり千曲川沿いは浸水している。

 午後9時に始まる獅子の練り。灯籠をくぐったところに獅子頭をはじめ天狗や松明など、祭りにかかわる道具が並べられる。その前で祭典掛長によるこの日の配役が読み上げられる。その後参道を挟んで両側に役員3人ずつ別れお神酒を頂いてから練りが始まる。かつては氏子総代が6人いたというが、現在は4人。あと祭典掛長と桑名川区長が役員に加わる。

 氏子総代がお神酒を頂くと、練りの行列が出発する。先頭は制札灯籠、ほか灯籠が練りを始めるが、かつては三十六歌仙灯籠が長く続いたが、①でも触れた通り、軽トラックにそれらは積み込まれ、先んじて境内に運ばれて行った。獅子舞の始まったのは午後9時20分前。後方のひょっとこが幌を大きく広げて舞う、いわゆる幌の舞(ここではヨタン舞という)で始まり、御幣を持って舞うオンベ舞、刀を持って舞う刀舞と続く。かつては道中舞には長刀やミヨ舞なども演じられたが、今年を見る限り、道中は獅子舞のみだった。また長刀に至っては、子どもが少なくなって祭典の中から姿を消している。

続く

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