Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

承前〝長野県における河川法第23条の問題〟

2025-02-19 23:29:15 | 信州・信濃・長野県

長野県における河川法第23条の問題より

 かつて農業用水の考え方について9回に分けて記した。その第1回目に西天竜の用水について触れながら、天竜川の東西での争いに触れて、用水量の実際の数値を示した。表にしてあるが、西天竜の用水量は1ヘクタールあたりに対して0.0047m3/sであるが、東側へ導水している東天竜は0.0153m3/sと西天竜の3倍もの単位用水量を示しており、最大の辰野堰に至っては西天竜の60倍もの単位用水量となっている。もちろんこれは過去の資料によるもので現在値とは異なるだろうが、権利であるならば、それほど大きな変化はないはず。昨日も触れたように、いったん許可を受けた水利権は、基本的には前例に対して権利を更新していくので、減ることはあっても増えることはほぼありえない。ここでいう「減ることはあっても」の背景は、水田の地目変換による減少によるものがほとんどである。

 わたしの日記では農業用水については数えきれないほど記してきている。ライフワークと言っても良いほど、生業に限らずここに関わってきた。自らも河川沿いで生を受け、河川と共に成長してきたから、「川と農業用水」は常に視界に入っていた。わたしから河川を省いたら人生はほぼ無に等しくなってしまうほど、川は生活の一部といって良いほど身近だった。だからこそ、かつて『地域文化』(八十二文化財団機関誌)で「天竜川」を扱った際に異論をはさんだし、いっぽうで人によって川に近いか遠いかによって川への思い入れが異なることを知った。繰り返すがわたしは川の中で育った、と言って良いほど川は兄弟のようなものだった。どこかで書いたかもしれないが、今は言えないものの、子どものころは川の中で競争をしたら、誰にも負けなかった、と言えるほど石がごろごろしたところで走るのは得意だった。「名は体を表す」ほど、「石」も身近だった。後に倉石忠彦先生が子どものころ、科学技術展で「石」で表彰されていたことを知って「似てるなー」と思ったものだ。

 さて、本題である。昨日も記した通り、川の水が干上がるような川での許可水利はほぼ不可能と言える。それは昨日も触れた通り、渇水量の際に取水しようとする水量以上水が流れていないと申請できないためで、本当はここに維持流量などを加算すると、もっと流れていないと申請資料はできない。いつも不思議に思うのだが、許可水利の中には、取水しようとする本流だけではなく、不足分を補う水量も表示して許可を得ている例がある。ようは不足分はため池とか渓流で取水しているというもの。申請資料ではそうした補給している水量も表示して、結果的に必要量を掲げているのだが、そもそも渓流取水などというものが「成り立つのか」ということ。計算上そうした計算をさぞ現実のように示しているが、わたしに言わせたら作為的と捉える。というか申請先の方々の中には、そうした渓流取水の根拠も示せという方がいる。しかし、本来取水している本流の許可をする際に渇水量から取水量を計算するように言っているわけだから、1年を通して流れが認められる渓流ならともかくとして、このあたりの渓流などというものは、渇水時に水がなくなる渓流が多い。ということは渓流から取水するのはそもそも不可能なのだ。にもかかわらず渓流から〇〇m3/sなどという数値を示している事例は「怪しい」はず。他県はともかくとして長野県内ではかなり小さな川まで一級河川指定されていて、「渓流」とされているような川は、本当に小さな川となる。許可を受けようとしている川の水量が乏しいと、「ほかの水源は無いですか」と言って渓流のことを口にされる担当官がおられるが、そこで「あります」などと言ったらお先真っ暗になりかねないのである。

 そして昨日も示した国道交通省の「水利使用許可の判断基準」のページにあるこの公式である。

基準渇水流量-(河川維持流量+関係河川使用者取水量)-取水予定量≧0

ようは渇水量から河川の維持流量と「関係河川使用者取水量」を除いた際に、川に水が残っているかどうかである。小河川の場合、そして取水権者が複数ある場合、それら水利権者がそれぞれ満足するようでないと地域の水利が成り立たなくなる。問題なのは、最初に許可を受けた水利権者は良いが、後で許可を受けようとしたら「水が足らない」ということになりかねない、ではなく、なるのだ。


コメント    この記事についてブログを書く
« 長野県における河川法第23条... | トップ |   
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

信州・信濃・長野県」カテゴリの最新記事