Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「運」がなす業

2024-12-03 23:28:46 | つぶやき

 人には「運」というものがある、そうきつく教えられるような出来事があった。裏を返せばのほほんと暮らしている人たちも大勢いるのに、なぜ「その人が」被らなければならないことだったのか、まさに「運」なのである。

 帰りがけに従妹の家に立ち寄った。1週間ほど前に庭木の剪定をしていて脚立から転落し、首の骨を折って手当てのかいなく亡くなった。労災認定されたというが、従妹がアルバイトで剪定作業に行っていたことは知らなかった。身体は丈夫で事故に遭うかしなければ長生きをされたに違いない。落下するといってもその状況で様々だろうから、死に至る特別な例だったといえる。1時間ほど心肺停止だったということが大きかったし、頭部から落下したという状況が大きな要員になった。

 2015年になるからもう9年余前のこと、「また、ひとつの別れ」を記した。首都圏にそれまで暮らしていたが、奥さんの実家のある奄美大島へ移住した従兄弟は、子どものころによく遊んだ。身近な従兄弟の一人で、その兄が今回脚立から落下して亡くなった従兄弟にあたる。奄美大島へ移住した従兄弟はまだ50歳代後半だった。そしてその兄は60歳代後半。いずれも長寿の世において早い別れとなってしまった。いずれも事故で亡くなったことになる。従兄弟の母親が父の妹にあたる。叔母さんは93歳、まだまだ元気で足が少し不自由になってきたが、見た目は90歳代には見えないし、記憶もはっきりしている。息子さん二人を見送ることになったつらさは痛いほど伝わる。時おり手土産を持って立ち寄っては、叔母さんの顔を拝見していた。最近はその度に従兄弟とも顔を合わせては「みんな元気かい…」と声を掛けてもらっていた。あっけない別れで言葉が詰まる。まさに「なぜ」二人とも、と思う。「運」とはこんな時に使う言葉なのだろうか。繰り返すが、転落の仕方はたくさんあるだろう。そんなたくさんのパターンの中で、なぜ選択された道筋だったのか、そう思わせる事例なのではないだろうか。兄と生まれた日が近かった従兄弟。その従兄弟の分も、叔母さんには長生きをして欲しい、そう思った。

合掌

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続 今年も柚子を採る

2024-11-30 23:24:20 | つぶやき

今年も柚子を採るより

 昨週に続いて柚子採りをした。それにしても棘がすごい。その棘が実に刺さって傷をつける。したがって採った柚子のうち傷のないものは3割とか2割ほどになってしまう。人にあげるのだが、傷のないものを、と思うと傷のついたものがたくさんコンテナに残ってしまう。実が大きくなる前に棘をカットすれば良いのだろうが、手の届かないところの棘を取るなんて言うことはできない。

 この棘、ウェブ上には「トゲは動けない植物の生存戦略として、動物から食べられることを防いだり、蒸散を抑え乾燥から守ったりするため」などと書かれているが、ではほかの植物にもあって良いはずだか、柚子ほどの棘はめったに見ない。棘の少ない品種もあると言うが…。

 

 

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〝まさか〟…

2024-11-27 23:43:02 | つぶやき

 〝まさか〟の展開になっている。先ごろ「回帰」を記したが、それから1か月、この日記を11月の末に記したことにしようとしているから、半月もしないうちに、「回帰しても、昨年までのように日記が空白になることはないと思う」は嘘になってしまった。この日記は12月13日の未明に記している。前述したように空白をなくすためのこと。ところが空白が半月にもなってくると、それを埋めようとするには、よほど時間的余裕がないと難しくなってくる。さすがにこういうことを日記に記すことは初めてかもしれない。ようは今日は〇〇日だが、前月の〇〇日の日記を書いている、などということは。果たして空白をなくすことができるかどうかは、わからない。

 その理由はやはり「生業」だろう。ずるずると中途半端に未解決な事項が送られてきて、結局これまでと同じことを繰り返している。定年になって「楽になるはず」が大きな誤算だった。そもそも負債を抱えて定年なんてありえないのに、わたしにはその負債がある。それも複数。自ら招いたことだが、信頼関係の上に背負った負債だから、この負債は絶対今年度のうちに処理しなければならない。年明け後はその負債を処理しなければならないが、ずるずると中途半端に工期が延長された仕事も、もはや負債に近い。一月単位を目途に、それに負債を処理しなくてはならないし、年末までに提出しなければならない申請書もある。昨年までは負債について「来年やります」、と回答していたから負担を軽減できたが、今年はそれができないからますます窮地に立っている。このところの生業以外の仕事の「言い訳」は、「来年からやります」になっている。もう口にすることはなかったはずの言葉が、今年も口から出る始末。もう今年もあと半月である。ここからが今年のピークである。

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オートライト

2024-11-26 23:35:25 | つぶやき

 近ごろの車は厄介で仕方ない、というところは「今どきの軽自動車」で記した。軽トラックごときで使いづらいとなると、もっと良い車はオートだらけなのだろう。ライトについては考えた末にちょっと細工をして、自動点灯を制御しているが、最近まで軽トラックには手こずっていた。自動でライトがハイビームになるのが気になって仕方なかった。1年もそんなことで悩んでいたが、それを制御することは簡単なことだった。ようはライトをオードではなく、強制点灯にすれば、ロービーム状態にスイッチをしておけばハイビームにはならない。常用している車ではなかったことから、それに気がつくのに1年もかかってしまった。

 しかし、このオートライトに手こずっていた間に気がついたことがある。わたしはけっこう車間を空ける方だということはこれまでにも記した。自分が後ろから接近されるのが嫌だから、自分が嫌だと思うことは相手にもしたくない。したがって前の車との車間は、ひとより広めだと自負する。先日記した「毎朝の鬱陶しい“奴”のこのごろ」の鬱陶しいのも、詰まるところ後ろから接近されることに始まった。都会はもちろんだろうが、直線道路も気にはならないかもしれない。しかし山間地の道路を走っているとこのロービームとハイビームの切り替えが自動だと本当に厄介で仕方ない。ようは接近していると車の後ろを走っているからハイビームになることはない。ところが車間を空けていると頻繁にハイビームとロービームが切り替わるのだ。これって前を走っている車はけっこう嫌なはず。なぜハイビームになるかといえば、カーブで前の車が視界から少しでも外れると、すぐにハイビームに切り替わる。ものの1秒か2秒、前方から明かりが消えるとすぐにハイビームになるのだ。したがってカーブが連続すると頻繁に切り替わることになる。車間を空けているとそういう状態になるため、切り替わるのを避けたければ接近するしかないのである。もちろん前方から相手が消えるからハイビームになるのだから、前を走っている車はそれほど気にはならないかもしれないが、前に灯りを感知しない限りロービームにはならないのだから、瞬間ハイビームを目にしていることは確かだと思うのだが…。

 ロービームとハイビームの切り替えで対向車や後続車が気になることは、今のところそれほどないが、「通常の走行時は、ハイビームで走行するのがルール」でみんなが自動化すると、きっと「眩しい」という対向車は増えるのだろう。

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今年も柚子を採る

2024-11-23 23:21:53 | つぶやき

2024.11.23撮影

 

 柚子採りをした。例年より早いと言っていたが、2014年には12月1日2015年には11月22日の収穫の記事を記したから、今年も同じくらいだろう。2010年に初めて我が家でも柚が成り始めたと記している。「昨年から」としるしているから、2009年から収穫を始めたということになる。植えるきっかけになったのは、剪定をしてもらっている方から頂いたこと。2010年にも記したが、その方が地域の直売所に置いたものの、ほとんど売れ残ったと言う。柚子そのものに親近感の無い地域の人たちには、買う意欲が生まれないということだ。「どうやって消費すればいいの」とは、柚子を差し上げた方たちの第一声である。けして柚子が成らない地域ではないにもかかわらず、柚子が増えないのは、親近感の無さといえる。

 2015年の日記には柚子が成っている写真を掲載した。その様子がよくわかるように、と邪魔な葉をとって撮影したら、妻には「不自然だ」と言われたことを記した。今回も同様に木に成っている写真を引用してみたが、葉に覆われて成っている。2015年の葉をとって撮った写真ではたくさん成っていることがよくわかるが、葉に覆われていると「たくさん」というあたりがわかりづらい。我が家には2本、柚子が植えられているが、近年は生活クラブなどで売ってもらっていて、それらはすぐに売れるという。地域の直売所に出して売れなかった、という話とはずいぶん違う。知っている人たちにはその使い道がよくわかっているのだろう。

 「ゆずの使い道にはどんなものがある?活用方法やレシピをご紹介」というページがある。冒頭はジャムである。妻も最近はジャムにして保存している。なぜかというと、柚子は棘があって、自ら実を傷めてしまう。したがって表面に傷がないものとなると、収穫した柚子のうち、3割くらい。ちゃんと管理すればもっときれいな実がなるのだろうが、ほったらかしだからこんなものなのだ。実が大きくなる前に棘をカットする、という方法もあるのかもしれないが、ちょっとそんな余裕はない。傷ついた柚子は加工に限るからジャムとなる、というわけである。

 柚子みそは以前にも記しているが、おでんのタレにすると良いことは言うまでもない。やはり柚子そのものメインで食すという方法があまりないから、目立たない存在だ。とはいえその添え物としての存在は少なからずあり、利用法は多様だとは思う。

続 今年も柚子を採る

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古本を買う 後編

2024-11-19 23:26:01 | つぶやき

古本を買う 前編より

 今年になって古本を何冊も購入している。ふつうに検索すれば、つまるところ東京都古書籍商業協同組合のページに行きつき、そこで購入している。前編でも触れた通り、そこに表示される古書代は、ぴんからきりである。しかし、高いから良い、安いからダメとも言えない。手に取って買うわけではないから、特に新書ではないとなれば判断は難しい。したがって安いものに手を出してダメだったら、それも仕方ない。今年に入って購入したものの多くは民俗地図に関するもの。けっこう高価だったかもしれない、昨日の600円物に比べたら。その中で1冊、失敗物があった。そこそこの値段がしたのに、ページがごそっと抜け落ちている。いわゆる「落丁本」である。売る側が解って売っていたかはわからない。図書館にもどこの図書館にもあるというモノではなかったので、高価だったが購入したが、残念な結果であった。したがって古本は、ちょっとしたかけのようなものかもしれない。

 さて、今年、友人がグリーンファームで古本を買ったといって、その本を見せてもらった。今年9月27日のNHK『ドキュメント72時間』で放映されたグリーンファームである。そこで古本まで扱っているとは知らなかった。見せてもらった本は、やはりここでよく引用している『長野県上伊那誌民俗篇上』である。ページ数は1467ページという厚さ。当時いくらだったか覚えはないが、ふつうなら高価なはず。前述の東京都古書籍商業協同組合のページで検索すると、現在1冊だけ販売されていた。ただし上下2冊売りで、下巻は「方言篇」で676ページある。合わせると2000ページ超え。さすがに2冊で1万円となっている。やはり高額だ。ところが友人はこの上巻をグリーンファームで100円で売っていたといって買ったよう。数日後「また買って来た」といい、「100円は安すぎる」と店に最初に購入した際に言ったらしく、「300円だった」という。それも2冊購入して来たらしく、この値段ならわたしも欲しい、と言ったら1冊譲ってくれた。ほかにも本があるのだろうと、わたしも久しぶりにグリーンファームに足を運んでみた。数は少ないが、市町村史誌や郷土の本が何冊か売られている。さすがに何冊もあったであろう『長野県上伊那誌民俗篇上』は全て友人が買ってしまったらしく、もうなかった。何冊もいらないが、と思いながら『長野県上伊那誌民俗篇下』を購入した。やはり300円。1冊所有しているが、コピーする際に厚いとしづらいため、裁断しようともう1冊手に入れることにした。ほかにすぐ手にしたいと思った本はなかったが、さすがに市場よりは安い印象だから、またいつか行って買って来ようと思っている。

「続 古本を買う」

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古本を買う 前編

2024-11-18 23:42:23 | つぶやき

 先日「青木村の自然石道祖神③」で引用した『信州の芸能』(昭和49年 信濃毎日新聞社)、実は手元にあるのは同書のコピーである。コピーしたのは、わたしが祭りを盛んに訪れていた20代のころのこと。刊行されたのが昭和49年だったから、すでに本屋に並んでいなかったし、そもそもお金がなかったから、「買う」という思いもそれほど強くなかった(本屋に並んでいれば悩んだうえで買っていたかもしれないが)。そこで図書館で借りてきて、会社で内緒でコピーしたというわけである。200ページちょっとという本だから、コピーしても100枚ほどのものだったので、それほど目立つ行為ではなかった。ただ、最小限と言う気持ちもあって、奥付はもちろんだが、最後にあった三隅治雄の解説部分は省いた。ということで、発行年がわからず、引用する際にはいつもネットで検索していた。たまたま今回も発行年を検索していて、古本の販売ページを見たわけだが、「安い」と思ったしだい。昔と違って印刷不況や、ペーパーレス化で本が売れない時代になった。ということで古本を検索しても、けっこう安い。ということで購入することにした。なぜならば、このコピーバージョンの本、しょっちゅう書棚から出している印象がある。ようはこの日記でもよく引用している本なのだ。そもそも若いころコピーして、この本を参考にあちこち祭りに出向いた。「こんなところに、こんな祭りがある」と情報を得るための座右の本(コピー)だったのかもしれない。

 今は注文してもすぐに届く。えらい時代になったもの、と思う。土曜日に注文して、今日既に届いた。気がついたのは当時1500円だったということ。それほど厚い本ではないが、けっこう高価な本だったということになるのだろうか。昭和49年と言うとネットで検索すると、国鉄山手線の最短区間が30円だった。タクシーの初乗りが220円だっと言うから、一概には言えないが、現在の2倍から3倍くらいだろうか印象は…。とすると5000円くらい、今ではこの本、5000円では売れないだろう。もっと高い印象だ。その本が安値は600円だったので、もちろん最安値のところで注文した。本をたくさん持っていて、書庫を自宅に用意しているわたしには、お買い得感が高い。もちろんふつうの人には「高い」かもしれないが、コピーバージョンよりはずっと良い。若干のかすれた傷はあり、年代物だから変色もあるが、ほぼ新品と変わりないくらいの状態。ようは使用された雰囲気はほぼない。コピーをとらなかったのでわからなかったが、末尾の三隅治雄の解説を読んで気がついたことがいろいろある。この本、昭和47年1月から翌年の12月まで、おそらく信濃毎日新聞に特集記事として掲載されたものをまとめたものなのだろう。信濃毎日新聞にはよくあるケース。したがって記事は記者によって書かれたもの。毎回三隅治雄によって「ゆらい」として解説が加えられていたようだ。

 いずれにしても600円プラス送料。800円もしない。ネットで検索すると値段は高いもの(3000円超えもあった。きっとその値段が最安値だったら買わなかった)もあれば安いものもある。価値としてはもっと高くて良いと思うのだが、残念な時代であり、ありがたい時代でもある。20代の頃から利用していたコピーバージョン、40年もお世話になったが、これで廃棄処分である(内緒でコピーした当時を思い起こせば、それも可哀そうな印象ではあるが…)。

続く

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回帰

2024-11-14 23:56:19 | つぶやき

 こういう日記はもう書くことはないと思っていたのに、回帰している自分に「何をやっているんだ」と口撃したくなる。再雇用扱いになった今年は、家へ仕事を持ち帰ることはほぼなかった。この程度の仕事は職場で処理できる、と前々から考えていたことだ。今までは雑務がたくさんあって、本来の仕事は家で処理することが多かった。そもそも担っている仕事が多かったのかもしれない。多く処理すればするほど経験値は増える、そういうスタンスを若いころから持っていた。だからそう簡単に身に覚えのある仕事観が変わるはずもない。もちろん今担っている業務量は昨年までに比較したら、ずいぶん少ない。さらに数年前の仕事を例にしようと回帰すると、「よくこんなに仕事を処理していたものだ」と感心したりする。したがって半年余、家で仕事をすることはなかった。

 ところが最近、夢の中に同僚が登場したり、仕事のことを考えていて寝付けなかったりすることが…。「まずいなー」とは思うが、間に合わないのだから仕方ない。そこへ本職以外の仕事も重なってきて、「前と同じ」とつぶやくように…。とはいえ、やはり以前ほどの多重債務状態ではないのだが、やはり退職までに担当していた仕事を処理できずに、翌年に送っていた仕事が影響している。いまだその債務は棚上げになっているので、これから3月までの業務量は、おそらく正規職の社員より多いかもしれない。

 ということで、ここのところ家へ仕事を持ち帰り、少し仕事をするようになった。するとそれほど長い時間ではないのだが、この少しがけっこう役に立っている。夢にも出てくるくらいだから、「どうやったらいいか」という考える時間も職場以外に移った。意外に歩いていたり、違うことをしていて「気がつく」ことがけっこうあったりする。「働き方改革」なんていう言葉が流れ、実際のところそうした制約とでも言って良い環境が押し寄せてきているが、わたし的には、業務外で錯綜しながら仕事のことを思い出すと、「ひらめき」があったりして、そんなもの「くそくらえ」と思っている。もちろんそのために業務外の仕事が疎かになりがちだが、せめて債務を処理するまでの今年度中は少し回帰せざるをえないと思っている。ただし、回帰しても、昨年までのように日記が空白になることはないと思う。

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珍しく紅葉を

2024-11-12 23:47:02 | つぶやき

報恩寺で

 

長谷宇津木で

 

 昨日今日と続けて長谷へ入った。昨日はお客さんのところへ予定の時間に立ち寄ったのだが、お客さんに急用があって会えなかった。今日、諏訪まで足を延ばして用事を済ませた後、電話をしてみると今日の午後は大丈夫だと言う。そこで再び長谷へ向かったのだが、午後までには少し時間があったため、宇津木まで足を延ばして時間調整をした。今、長谷は紅葉の時期である。

 宇津木については、2年前に宇津木薬師の西国三十三番観音で触れた。杉島へ行く道を右に折れて細い山道を上って行くと宇津木の集落がある。廃屋ばかり目立つが、その中に手を入れられた家が何軒があって、定住者が今も何人かいらっしゃる。おそらく元々の住民は皆無だと思うが。この道の行き止まり(実際はさらに奥まで道は繋がっているが、現状ではここまでだろう)に報恩寺があり、本堂の隣に薬師堂がある。その薬師堂の前に西国三十三番の石仏がずらっと並んでいるのだが、その真ん中にイチョウの大木がある。そのイチョウがちょうど黄葉している。桜の木があることは認識していたが、よく見れば西国三十三番のど真ん中に生えていたのはイチョウだった。したがってこの黄葉を目指して行ったわけではないのだが、黄葉していてラッキーだった。とはいえ、今日はコンデジしか持ち合わせていなかったのと、そもそも午前中そのコンデジで写真を撮ろうとしたらメモリーカートが入っていなかった。写真を撮るのを諦めようとも思ったが、近くにホームセンターがあったので、悩んだ末に安いメモリーカードを買った。そのお陰で、この写真も撮れたというわけだ。

 イチョウの色づきを撮った後、下り始めると廃屋の庭にいい感じに紅葉が色づいていた。イメージ通りには撮影できなかったが、雰囲気だけは納めて、お客さんのところへ向かった。

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不採用原稿

2024-11-11 23:14:52 | つぶやき

 退会する機会を逸して今年もまだ会員であるが、まもなくそれも終わるので、記憶としてここに残すことにした。「農村振興に携わる幅広い分野の技術者等から構成され」ると言われる組織がある。全国農村振興技術連盟というもので、もとは全国農業土木技術連盟と称していた。「農業土木」という、「土木」とは枠を別にした技術者を対象としていて、「土木」から見れば枠外の人間に見られているかもしれない。印象に過ぎないが、いつも「土木」関係の組織に頭を下げているから、立場は察してほしい。そこに参加している技術者のほとんどは行政関係の技術者、あるいはその関係団体の技術者、そして民間のその関係の仕事をしている設計、あるいは資材を供給している事業者の技術者といったところ。そこでは毎月『農村振興』という機関誌を発行している。見開き2ページの記事がほとんどで、15名ほど投稿者の記事が掲載される。内容は技術的というよりは2ページに限られているから紹介記事的なものが多い。間もなく900号という雑誌だから、12で割れば75年にもなる。その通り、連盟の発足は昭和22年と言う。

 会社から「入れ」と言われて入会したが、もちろん会費は自費である。したがって退職すればおおかた退会する。冒頭「機会を逸した」と記したのは、そもそもいつ退会届を出すのか分からなかった。年度当初「辞めたい」と言ったら「新年度に入っているから1年間はダメ」と言われて今年も入っている。もう何年も前の、わたしが現役だった時代のこと。県庁を通じて会社の「上」にこの機関誌の末尾に何編か掲載されている「会員だより」に投稿してほしいと依頼があった。わたし的には「依頼原稿」と察したが、編集側がどう思っているかは全く知る余地もない。依頼されたので投稿した、というわけである。仕事もピークとなる数年前の10月、「10月末日」を締め切りとされていたので、忙しい中をまとめて原稿を送った。ところがなかなか掲載されない。依頼原稿と思っていたからどこかで掲載されると思っていたのだが、結局不採用だった。依頼された、という意識があったから「何で…」と思ったものだが、そもそもこの組織に加わっている団体の中でも立場は下の方だから「仕方のないこと」と諦めた。

 さすがに依頼原稿なのに不採用なら、「不採用」だと知らせてくれればよいのに、それも全くなかった。あらためて原稿の内容を思い出すと、あちらにしてみれはせ「内容に問題があった」ということなのかもしれない。そもそもこの機関誌を毎月受け取るたびに思っていたのは、「良いことしか書いてない」。行政関係者によくあるパターンの書きぶりばかり。「農村振興」を主旨にしてはいるものの、その農村に横たわる悪いイメージの記事は「適していない」ということなのだろう。とはいえ、繰り返すが不採用なら「不採用」だと言って欲しかった。わたしのこれまでの投稿原稿で、唯一の「不採用原稿」だった。またいつか、その不採用原稿を、ここに載せようとは思うが、「覚えていたら」のことである。

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よく分からない習慣

2024-09-29 23:09:59 | つぶやき

 綴じてあるものに限らず、綴じてなくても縦書きのものなら右開き(左から右へ)、横書きなら左開き(右から左へ)が当り前だ。日本はこのあたりも複雑な意識をもたらす。こんなことは当り前なのに、ふだんどのような読み物に接しているかで、当たり前のことがそうではなくなる、ということをいつも自分の中ではうっとおしく思っているのだが、これって味噌汁を右に置くか左におくかにも繋がっている。もちろん当たり前なのは右に置く、ではあるが…。味噌汁については「日本人の多くは右利きなので、持つ回数の多いご飯を左側に、味噌汁を右側の位置に配膳します」なとんていう解説がされている。では、味噌汁の方が持つ回数が多い人は、左置き、ということになるのか、というとそうではない。いわゆるマナーなどという言葉で括られてしまうが、では左利きの人は?となってしまう。

 横書きが一般的になった日本社会では、仕事の上では左開きがごく普通になった。ふだんがそうだから、たとえ縦書きの資料があっても、左開きに開いてしまうことがよくある。もちろん本のようにページ数が多い縦書きのものを連続して読むには右開きに読んでいくが、数枚の物を綴じようとする際に、縦書きと横書きが混在していると悩んだりする。大方のものが横書きであれば、縦書きのものが一部混ざっていても左を綴じる。引用物として資料をまとめようとすると、ちょっと厄介なのものだが、厄介だと思うほどの経験は、めったにない。縦書きのものも日常には溢れているから、右開きすることも当たり前にある。日本の雑誌はほぼ縦書きだから右開きが普通だ。漫画だって縦書きでずっときているから、けしてそれらを左開きすることはない。にもかかわらず、わたしは新聞は右開きする。これがなぜなのかはよくわからない。子どものころ、最初に見るページがテレビ欄だったからかもしれない。新聞は裏から開くもの、という癖がついた。どれほど一面に大きな記事が出ていようと、必ず裏から左開きに見ていく。そもそも新聞は全て読まない、部分的、というのも影響しているかもしれない。テレビ欄の裏には社会面が続く。ふつうの新聞はほぼ構成が同じだから、新聞と言えば左開きが通常だ。おそらく新聞を読まない今の若い世代は、こんな癖はついていないはず。自分でも、なぜ裏から左に開いていくか、本当のところは分からない。子どものころからそうだったから、違和感があっても、この行為はずっと続いている。

 もう一度味噌汁に戻ろう。かつてこの日記に記しているのかもしれないが、味噌汁を右側に於いていて、椀をひっくり返した経験が何度もある。したがってご飯茶碗を持つことが多い通常の食事では、動作の多い側に汁物を配膳するのは危険なのかもしれない。にもかかわらず常に椀を右に置いていてひっくり返した際の記憶が強いから、「なぜ左ではいけないのだろう」などと意識してしまう。ひとが見ておらず、ひとりで食事する際に、わたしは味噌汁を左に置くことがよくある。なぜかといえば、味噌汁は必ず飲みたい性格で、食事では必須のもの。美味しい、不味いはともかくとして、味噌汁を飲む際にちょっとした幸福感を覚えるのは、習慣からくるものだろう。その際手にとりやすい左側にあることによって、わずらわしさが低減されることが、その理由かもしれない。でも、これも新聞を左に開いていくのと似ていて、本当の理由はわからない。

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身の丈の「車」

2024-09-17 23:18:53 | つぶやき

 1年以上前のこと、「今どきの軽自動車」を記した。新たに軽自動車を購入したことによる感想を記したもの。軽自動車ではあるものの、今どきの軽自動車は「大きい」。扱いやすさなら昔の軽自動車の方が良かった。しかし、今どきは普通車も大きくなっているし、日本の道路事情が大きく変わったわけでもないのに、車の大型化は、実は厄介なのでは?、と思ったりする。

 近ごろたくさん記している自然石道祖神を巡って、東信を中心に車を走らせているが、もちろん軽自動車で行っている。「よくこんな狭い道を」と思うような道を進んだ先に家々がある所を、あちこちで見てきた。ふだん利用している普通車では、とても入れない。軽自動車を買う前なら当然のこと、普通車で行っていたわけだが、こんな事情を予想して軽自動車を買った。わたしには必須の道具だったとも言える。冒頭でも記したように、昔の軽自動車ならもっと扱いやすかっただろうが、それでも一応「軽」だから、入れないことはない。それでも「ぎりぎり」みたいな道を入ることが度々。わたしは飯島町に生まれ育った。飯島町には密集している集落は少ない。密集していたとしてもこれほど道は狭くない。もともとの集落の発展が違うのだろう。そして生家のあたりは散居だから、隣の家との距離がある。自ずと空間は広く、ほ場整備が全町行われたから、狭い道は限られている。そんな空間で育った者が、最近訪れている集落へ足を踏み入れると、もはや「驚愕」である。絶対普通車は入れない道もあるが、家には普通車が停まっていたりする。どうやって入っているんだ、そう思う。

 近ごろそれほど広くない道で、対向車がど真ん中をやってきて、車を道の左に寄せようとしない、そんな車が多い。そもそも、なぜ身の丈に合った車に乗らないのか、と文句の一つも言いたくなる。狭い世界を知らないのか、それとも広い空間しか乗らないようにしているのか、定かではない。それでも最近足を踏み入れている空間に身を置くと、日本にしかないらしい軽自動車仕様に納得する。先ごろも人を車に乗せる際に、軽自動車、それもツードアは厄介だと思ったが、ほとんど一人で乗っていることが多い事情からすれば、やはり今回の買い物はベストだったと、つくづく思う。もちろん年老いてきた自分の年齢にもびったしだ。

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次週に残された作業

2024-08-24 23:18:02 | つぶやき

 

 毎週末、1日は草刈、今年の日課である。先週も触れたがこのごろ草刈の範囲が広がっている。1枚目の写真と2枚目の写真は同じ場所。上り坂の両面の法面を捉えたのが1枚目。2枚目はそれを横から撮影したもの。この道路の上側法面は45゜を切っていて、わが家でも刈るのには厄介な空間。以前この法面をシルバーの方に刈るのを頼んだら、次からは敬遠された。年寄りにはちょっときつい法面だ。妻が言うには、ここに道が開けるまでは、道のあるところに我が家の畑があったという。その畑をほぼすべて潰して道が開いた。おそらく無償提供である。それでいて、村の所有地になったのは道路面のみ。したがって上側はもちろんだが、道路の下側の法面も我が家の土地。

 1枚目の写真を見ると、道路から下の草を刈ったのはわたし。今日の仕事である。この法面もけっこう厄介で、右端に見えるように中ほどまでブロックが積んである。その上の法面も、そして左手の法面も災害復旧で直したらしく、法面に植生マットのようなものが施してある。もう何十年も前の仕業で、古くなっていることもあって、植生マットのメッシュが表面に出てきていて、ときおり刈払い機に巻き込む時がある。そして何と言っても中段に草が残っている。前述したように我が家の土地だから我が家で刈るべきだろうが、この法面、以前は下の畑を所有している方が刈っていた。年を取って「えらい」からといって我が家にブロックより上半分は刈ってほしいと言われ、仕方なく我が家で刈るようになったが、当初はブロックより上分を刈っていたのに、最近は下の方が刈る範囲が狭まっていて、しだいに我が家の刈る範囲が下がりつつある。いずれは全部我が家で刈ることになるのかもしれない。もう一度崩れて、全面ブロック積みになれば良いのに、と思うが、そう簡単には崩れない。今日は途中から強い雨になったため、草を寄せられなかった。この法面の草、けっこうやっかいな草で、紐式の刈払い機では刈りづらい。したがって鋸刃で刈るから、草がそのまんま倒れていて寄せるにも容量が多い。とても雨の中でやる気にはなれなかった。来週の仕事である。

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炎天下の草刈

2024-08-18 23:23:08 | つぶやき

 約2時間半近いウェブ打合せを自宅で終えてから、いつも通り妻の実家まで草刈に向かった。予想よりウェブ打合せが長くなってしまって、昼寝をする時間が限られた。わたしにとって草刈り作業時間帯は、いつも午後2時から7時までの「暑い」時間帯だ。好き好んでこの時間帯を選んでいるわけではないが、屋内の暑い部屋にいるのも、炎天下の外にいるのも、そう変わりないと、わたしの身体は言っている。とはいえ、7月中に同じような時間帯に作業をした際には、少し熱中症っぽい感じになった。その時は体調が思わしくなかったせいだと、自分的には判断している。このごろはいつも通り、暑い時間帯でもそれほど苦にはならない。もちろん周囲でこの時間帯に外で働いている人はいない。わたしだけの時間、とも言える。先ごろ「畔草管理の世界」を記したが、あの大きな畦畔は、リモコンで操作する少し大き目な草刈機で刈るのだという。法人が受託して耕作している水田の畦畔で、機械は自治体が購入して提供しているようで、自前で購入した草刈機と合わせて3台で刈るのだという。複数台で刈れば1日程度で刈り払いできるという。なるほど小さな機械では容易に刈り払い出来るものではなく、だからいつもきれいなのだろう。とはいえ、長く続く大きな土手の中には法人ではなく個人で耕作している水田の畦畔もあって、そうした畦畔は個人でスパイダーモアで刈っているという。どれほど時間を要すかわからないが、大変な作業なのだろう。兄も法人の作業を手伝うことがあるようで、その機械を操作することがあるという。畦畔勾配40゜程度までが限度で、時おり機械をひっくり返すこともあるという。スパイダーモアも含めて、畦畔勾配45゜は厳しい。となると我が家の畦畔勾配はほとんどが45゜レベルだからそうした機械が使える場所は限られる。ようは従来のように手で刈り払うしかないということになる。

 一時のことを思うとだいぶ日が短くなってきた。午後7時半ともなると真っ暗に近い。8時近くまで働いた6月末から7月上旬の日の長さが愛おしい。兄によれば年に6~7回の草刈をするというが、わが家はそこまで達しない。休日に刈るとなると、全てを同じ回数刈るには時間がない。従って優先度を決めて刈るから少ない場所は年に2回程度しか刈らない。それでも全ての空間を草刈を終えると、もう次の草刈サイクルが始まる。だから炎天下の時間帯に刈らざるを得ない、となる。最近仕事の現場では「草刈する空間をなくす」という意見を度々耳にする。何より草刈が無駄だからその時間をなくしたいという意図である。我が家の草刈を語る余地などそこには全くない。

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千葉からの訪問者

2024-08-16 23:35:53 | つぶやき

飯島町豊岡清水坂不動明王

 

中川村竹の上十王

 

 千葉から飯島町の関の地蔵尊を見たいという方が来られ、案内をした。初めて会う方ではあったが、かつてこうした交流を盛んにしていたこともあり、初めて会うという印象は無かった。もちろんそのかつては、わたしにとっては若き頃のことであり、その当時と同じように年輩の方だから、何の違和感もなく、その当時がよみがえる様な懐かしささえもあった。3時間余の案内ではあったが、車で回ればそこそこ回れる印象があったので、事前に訪問箇所のイメージを持っていたが、そのイメージは最初に訪れた田切の聖徳寺で崩れた感じだった。あっと言う間に目的物を見て「次へ」という感じだったからだ。そういえばかつて盛んに交流のあった京都の方も、1箇所にかける時間は短かったが、それ以上に短い。ようは京都の方は写真を撮りに来ていたが、今回は写真は記録程度の撮り方。したがってワンショットで「お終い」なのだ。早いのは当たり前だろう。とはいえ、そんなときのことも予想して訪問箇所を考えていたので、たくさんの箇所を時間いっぱい回れたと思う(わたしの自己満足ではあるが)。

 さて、そのうちの1か所飯島町豊岡の清水坂では、一時は信仰の廃れていた不動明王に真新しい剣が奉納されていて、少し明るい兆しをイメージてきた。また、中川村の竹の上の集会施設裏の傾斜地に十王を見て、それこそ廃れ切った十王信仰を垣間見た。実はこの場所を訪れるのは初めてだった。草むらに隠れるようにただずむ十王は、表情豊かな顔を見せてくれた。

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