弁護士辻孝司オフィシャルブログ

京都の弁護士辻孝司のブログです
弁護士の活動、日々感じたことを弁護士目線でレポートします
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安保法制反対に学ぶプレゼン!(3)

2015-08-01 10:08:10 | 社会・経済

参議院での審議が始まりました。

ますます反対の声が高まるばかりですが、目新しい動きがないと報道が下火になってしまい(そんな報道機関の姿勢はどうかと思いますが。)、反対運動が沈静化したという雰囲気が生まれかねません。

そんな中で、ニュースで取り上げられたのが、自民党が作成したアニメをパロディーにして、ヒゲの隊長を言い負かしてしまう「あかりちゃん」のアニメ。

とてもよくできています。

日本のアニメ、マンガ文化って、本当にすごいな!と感心してしまいます。

それと同時に、反対運動にいろんな才能や技術を持った人が現れてくるっていうことに、運動の広がりを感じます。

   

自民党が、このアニメの第2弾を作成して、公開してくれたようです。

きっと、まもなく第2弾のパロディーも登場することでしょう。

私も含めて、全国のファンが楽しみに待っているはず!

再度パロディーを作られて、反対運動の材料にされることがわかっていながら、第2弾を公開してくる自民党というのは、ある意味誠実なのか?それとも、何も考えていないのか?

たぶん後者かな。

   

どんどんいろんなタレントが集まって、運動のバリエーションが出てくるのが楽しみになってきました。

 

   

【あかりちゃん】ヒゲの隊長に教えてあげてみた

 


安保法制反対に学ぶプレゼン!(2)

2015-07-16 16:55:34 | 社会・経済

今日は、衆議院本会議で可決されてしまいました。

  

どうして、戦争のできる勇ましい国にそんなになりたいのか?

どうして、戦争や武力行使に頼ることなく、国家の存立、国民の命を守ることに政治の叡智を結集することができないのか?

日本は、世界の中で占めてきた重要な立場を失いつつあるように思います。

   

さて、安保法制反対の中で見つけた、すばらしいプレゼンテーション!

今回、ご紹介するのは、衆議院平和安全法制特別委員会の中央公聴会(7月13日)での、木村草太首都大学東京准教授のスピーチ です。

木村草太准教授は憲法学者、報道ステーション(テレビ朝日)のコメンテーターとしてよくテレビに出演されていますので、ご覧になったことのある方も多いはず。

こんな方です。

   

まず、見た目がいい!

何より髪型! いさぎよいし、清潔感あるし、スリムな体型、顔立ちにとてもよく似合っています。

服装もいつもダークスーツに、白いワイシャツに、きっちりとネクタイを締めていて、クールビズという名のだらしない男性諸氏(国会議員も)が多い中で、キラリと光っています。

真面目さ、実直さ、洗練潔白さがにじみ出ています。

こういう人を So,Cool! と言うのでしょう。

   

さて、本題の中央公聴会でのスピーチ

これがとても良い!

  

どういうところが良かったかというと、

   

・まず冒頭でズバリと結論を言ったところ。

 違憲か、違憲でないかが一番の問題ですが、この点についての結論を初めにはっきりと語っています。

 結論を述べてから、理由を説明するというのがプレゼンの鉄則ですね。

 

・専門家がわかりやすい言葉を使って、ひとつづつ噛み砕いて丁寧に語っているところ。

 専門家は、自分自身はとてもよくわかっているし、専門用語を使った方が正確に端的に説明できるし、格好もいいから(専門家っぽい)と、ついつい、難しい専門用語を並べて、過程の説明をすっ飛ばして、話をしてしまいます。

 聞き手も同じ専門家であるときはそれでいいのですが、一般人の聞き手だと、まったく理解されず、反発されてしまうばかりです。

    

 今回の木村准教授の話は、聞き手が一般人であるというつもりで、大学に入ったばかりの学生に話をするように、わかりやすい言葉で、ひとつづつ噛み砕いて丁寧に語っています。

  

 もっとも、本来、国会議員は立法が仕事ですから、憲法や法律について専門家でなければならないはずですよね。

 だから、木村准教授は、もっと専門用語を使って、論理の過程の話を省略して話しても良かったのです。

 しかし、残念ながら、現実の国会議員は憲法と法律のド素人です。

 そのために官僚にすべてお膳立てしてもらって、なんとなく恰好をつけようとします。

 木村准教授は、そんなド素人の国会議員相手に話すには、よほどわかりやすく説明しないとダメだと考えたのではないでしょうか。

    

・論理、論理、論理で畳み込むように話を組み立てているところ。

 木村准教授の話はすべてが論理です。

   

一般的には、プレゼンをするときには論理と感情をミックスさせます。

 どういう割合でミックスすべきかは、プレゼンによって変わってきます。

  

 今回の安保法制の議論を見ていると、賛成・反対いずれの立場の意見であっても、結論ありきで、あとはわかったようなわからないような話を感情的に話して、情緒的な議論に持っていこうとするものが大部分です。

 今日の衆議院本会議での公明党の遠山議員の賛成討論を聞きましたが、感情論、情緒論ばかりで気分が悪くなるほどです。

 ご本人は大満足でしょうが、聞かされる人はたまったもんじゃありません。

 おじさんの歌い上げる熱唱カラオケのようなものです。

    

 木村准教授の話は、これとは真逆、すべてにおいて論理的です。

 感情は一切入ってきません。

 話し手が憲法学の専門家、プレゼンの場は国会での意見陳述、加熱する議論と世論、

 そんな状況の中で、木村准教授にもっともふさわしいスピーチは「論理」です。

 きっと、自分が何をしなければならないのかをとてもよくわかっておられるのだと思います。

 

・反対意見を十分に理解していることを示しているところ。

 木村准教授は、その意見陳述の中で何度も、安保法制を合憲とする反対意見に言及しています。

 そして、その反対意見を正確に理解していること、ひとつの意見として敬意を払った上で、論理で打ち破っていきます。

 相手のいうことを真摯に受け止めた上で、それに反論し、自説を述べるというプレゼンを聞いていると、とてもフェアな人だという印象を受けます。

    

 

 報道ステーションでいつも見ていて、この木村准教授というのはどういう立場に立つ人なのだろうと不思議に思っていました。

 コメントを聞いていると、右寄りでも、左寄りでもなさそうだし、いつも冷静だし、コメントは的を得ているし、

 何よりも、テレビでちゃんと尺に合わせてきっちりとコメントしているところがすごい!と感じていました。

 大学時代に、こんな先生に憲法を学んでいたら、私はもっと早く弁護士になっていたに違いない (>_<)

 

 以下、長いですが、木村准教授の中央公聴会の意見陳述の全文を掲載しておきます。

 ぜひ、憲法の授業を受けていると思って読んでみて下さい。こんなにわかりやすくて、面白い授業はないですよ。

 

 【2015.7.13 中央公聴会での木村草太准教授の意見陳述 全文】

本日は貴重な機会をいただきありがとうございます。今回の安保法制、特に集団的自衛権の行使容認部分と憲法との関係について意見を述べさせていただきます。

まず、結論から申しますと、日本国憲法のもとでは日本への武力攻撃の着手がない段階での武力行使は違憲だ。ですから、日本への武力攻撃の着手に至る前の武力行使は、たとえ国際法上、集団的自衛権の行使として正当化されるとしても日本国憲法に違反する。

 政府が提案した存立危機事態条項が、仮に日本への武力攻撃に至る前の武力行使を根拠付けるものとすれば、違憲です。さらに、今までのところ政府がわが国の存立という言葉の明確な定義を示さないため、存立危機事態条項の内容はあまりにも漠然、不明確なものになっています。従って存立危機事態条項は憲法9条違反である以前に、そもそも漠然、不明確ゆえに違憲の評価を受けるものと思われます。

 また、維新の党より提案された武力攻撃危機事態条項も、仮に日本への武力攻撃の着手がない段階での武力行使を根拠付けるものだとすれば、憲法に違反します。逆に武力攻撃危機事態とは、外国軍隊への攻撃が、同時に日本への武力攻撃の着手になる事態を意味すると解釈するのであれば、武力攻撃事態条項は合憲だと考えられる。

以下、詳述いたします。まず、日本国憲法が日本政府の武力行使をどう制限しているのか説明いたします。憲法9条は武力行使のための軍事組織、戦力の保有を禁じています。外国への武力行使は原則として違憲であると解釈されています。もっとも、例外を許容する明文の規定があれば、武力行使を合憲と解釈することは可能ですから、9条の例外を認める根拠が存在するのかどうかを検討する必要があります。

 従来の政府および有力な憲法学説は、憲法13条は自衛のための必要最小限度の武力行使の根拠となると考えてきた。憲法13条は生命、自由および幸福追求に対する国民の権利は国政の最大の尊重を必要とすると定めており、政府に国内の安全を確保する義務を課している。

 個別的自衛権の行使は、その義務を果たすためのもので憲法9条の例外として許容されるという解釈も可能でしょう。他方、外国を防衛する義務を政府に課す規定は日本国憲法には存在しませんから、9条の例外を認めるわけにはいかず、集団的自衛権を行使することは憲法上許されないと結論されます。

 また、自衛のための必要最小限度を超える武力行使は憲法9条とは別に、政府の越権行為としても違憲の評価を受けます。そもそも国民主権の憲法のもとでは、政府は憲法を通じて国民から負託された権限しか行使ができません。そして日本国憲法には、政府に行政権と外交権を与える規定はあるものの、軍事権を与えた規定が存在しません。憲法が政府に軍事権を与えていない以上、日本政府が軍事権を行使すれば越権行為であり、違憲です。

では、政府と自衛隊はどのような活動ができるのでしょうか。まず、行政権とは自国の主権を用いた国内統治作用のうち立法、司法を控除したものと定義されます。自衛のための最小限度の武力行使は、自国の主権を維持、管理する行為なので、防衛行政として行政権に含まれるとの解釈も十分にあり得ます。武力行使に至らない範囲での国連PKOへの協力は外交協力の範囲として政府の権限に含まれると理解することも可能でしょう。これに対し他国防衛のための武力行使は日本の主権維持作用ではありませんから、防衛行政の一部とは説明できず、また相手国を実力で制圧する作用であり、外交協力ともいえません。従いまして、集団的自衛権の行使として正当化される他国防衛のための武力行使は軍事権の行使だと言わざるを得ず、越権行為としても憲法違反の評価を受けます。

 では、自衛のための必要最小限度の武力行使とはどのような範囲の武力行使をいうのでしょうか。法的にみた場合、日本の防衛のための武力行使には、自衛目的の先制攻撃と個別的自衛権の行使の2種類があります。前者の自衛目的の先制攻撃は、日本への攻撃の具体的な危険、すなわち着手がない段階で、将来、武力攻撃が生じる可能性を除去するために行われる武力行使を言います。

 他方、後者の個別的自衛権の行使は、日本への武力攻撃の具体的な危険を除去するために国際法上の個別的自衛権で認められた武力行使を言います。武力攻撃の具体的な危険を認定するには攻撃国の武力攻撃への着手が必要であり、着手がない段階での攻撃は必要最小限度の自衛の措置には含まれないはずです。

 先ほど見た憲法13条は国民の生命、自由、幸福追求の権利を保護していますが、それらの権利が侵害される具体的な危険がない段階、すなわち抽象的な危険しかない段階で、それを除去してもらう安心感を保障しているわけではありません。従って自衛目的の先制攻撃を憲法9条の例外として認めることはできません。自衛のための必要最小限度の武力行使と認められるのは、あくまでも個別的自衛権の行使に限られるでしょう。これに対し、集団的自衛権が行使できる状況では、すでに外国に武力攻撃があり、国際法上は他国防衛のための措置であり、先制攻撃ではないとの反論も想定されます。しかし、国際法上の適法、違法と、日本国憲法上の合憲、違憲の判断は独立に検討されるべきものです。外国への武力攻撃があったとしても、それが日本への武力攻撃と評価できないのであれば、仮に国際法上は集団的自衛権で正当化できるとしても、それは他国防衛として正当化できるにとどまり、憲法上の自衛の措置としては違憲の先制攻撃と評価されます。

 また、政府は最高裁砂川事件判決で集団的自衛権の行使は合憲だと認められたというかのような説明をすることがあります。しかし、この判決は日本の自衛の措置として米軍駐留を認めることの合憲性を判断したものにすぎません。さらに、この判決は自衛隊を編成して個別的自衛権を行使することの合憲性すら判断を留保しており、どう考えても、集団的自衛権の合憲性を認めたものとはいえません。

 以上のように日本国憲法のもとで許容されるのは、日本への武力攻撃の着手があった段階でなされる自衛のための必要最小限度の武力行使に限られます。このため集団的自衛権の行使は憲法違反になるとされてきたのです。

 ただし、日本と外国が同時に武力攻撃を受けている場合の反撃は国際法的には集団的自衛権でも個別的自衛権でも正当化できるでしょう。このため、同時攻撃の場合に武力行使をすることは、憲法違反にはならないものと解釈できます。では、今回の法案の存立危機事態条項についてどう評価すべきでしょうか。みなさんもうご存じの通り、存立危機事態という概念は、今回初めて登場した概念ではありません。昭和47年の政府見解は、わが国の存立を全うするために必要な自衛の措置をとることは禁じていないとしており、存立危機事態での自衛の措置をとることを認めています。

 昨年7月1日の閣議決定も、外国への武力攻撃によって存立危機事態が生じたときには昭和47年の政府見解とは矛盾せずに武力行使ができるという趣旨の議論を展開しています。見識論としてはその通りといえる面もあります。ただし、昭和47年見解は存立危機事態を認定し、憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫不正の侵害に対処する場合に限られると明言しています。

 つまり、わが国の存立が脅かされる事態だと認定できるのは、武力攻撃事態に限られると述べているのです。そもそも近代国家は主権国家ですから、法学的にはわが国の存立が維持されているかどうかは、日本の主権が維持できているかどうかを基準に判断されるはずです。国家間の関係のうち外交は相互の危険を尊重する作用、軍事は相手国の主権を制圧する活動ですから、国家の存立が脅かされる事態とは軍事権が行使された状態、武力攻撃を受ける事態と定義せざるを得ないのです。

 そうすると、昭和47年見解と矛盾しない形で存立危機事態を認定できるのは、日本自身も武力攻撃を受けている場合に限られるでしょう。しかし、現在の政府答弁はわが国の存立という概念について、ほとんど明確な定義を与えていません。また、存立危機事態は日本への武力攻撃がない事態では認定ができないという従来の説明を避け、石油の値段が上がったり、日米同盟が揺らいだりする場合には、日本が武力攻撃を受けていなくても存立危機事態を認定できるかのように答弁することもあります。

 わが国の存立という言葉を従来の政府見解から離れて解釈するのであれば、存立危機事態条項は日本への武力攻撃への着手のない段階での武力行使を根拠付けるもので、明確に憲法違反です。

 以上の見解は著名な憲法学者はもちろん、歴代内閣法制局長官ら憲法解釈の専門的知識を持った法律家の大半が一致する見解であり、裁判所が同様の見解を取る可能性も高いといえます。

 従って、これまでの議論を前提にすると、存立危機事態条項の選定は、看過しがたい訴訟リスクを発生させます。この条項が日本の安全保障に必要不可欠であるのであれば、そのような法的安定性が著しく欠ける形で制定すべきではなく、憲法改正の手続きは必須と思われます。

また、そもそも現在の政府答弁では、わが国の存立という言葉があまりにも曖昧模糊(もこ)としております。解釈指針を伴わない法文は、いかなる場合に武力行使を行えるかの基準を曖昧にするもので、憲法9条違反である以前にそもそも曖昧、不明確ゆえに違憲と評価すべきでしょう。さらに内容が不明確だということは、そもそも今回の法案で可能な武力行使の範囲に過不足がないかを政策的に判定することができないということを意味します。

 どんな武力行使をするのかの基準が曖昧、不明確なままでは、国民は法案の適否を判断しようがありません。仮に法律が成立したとしても国会が武力行使が法律にのっとってなされているか判断する基準を持たないことになります。これでは政府の武力行使の判断を白紙で一任するようなものです。

 さて、日本への武力攻撃の着手がない段階で武力行使を認めることが憲法違反になるとの法理は、維新の党より提案のありました、いわゆる武力攻撃危機事態条項にもそのまま当てはまります。維新の党が日本への武力攻撃の着手のない段階での武力行使を認める条項であるとの解釈を前提にしたものであるなら、憲法違反のそしりを免れないと思います。従って、武力攻撃事態条項についてこれまで認めてこなかった個別的自衛権の拡張である、ないし、集団的自衛権の行使容認であるといった説明を行うことは不適切と思われます。

 ただし、維新案における武力攻撃危機事態条項は他国への攻撃が同時に日本への武力攻撃の着手になる場合に、武力行使を認めると解釈することもでき、また、そう解釈する限り合憲といえます。もっとも外国への攻撃が同時に日本への武力攻撃への着手になる事態であれば、現行法でも武力攻撃事態と認定ができるはずであり、個別的自衛権を行使することは可能です。この点は1975年10月29日の衆院予算委員会における宮沢喜一外相答弁以降、何度か確認されていることであります。従って維新の党のみなさまよりご提案のあった武力攻撃危機事態条項は武力攻撃事態条項の内容の一部を確認する条項だということになるでしょう。このような従来の法理を確認する条項は、法内容を明確にするという点では意義があります。

 これまでにも従来の政府解釈、最高裁の判例、法理を明確に確認するために立法が行われている例は多くあります。逆に、維新案の内容を拒否した場合には、政府案が日本への武力攻撃の着手がない段階での武力行使を行う内容であることが明確になります。対案の提示は政府の考え方を明確にする一助になるという点でも意義があるものと思われます。

 以上述べたように、集団的自衛権の行使は憲法違反となります。もちろん、集団的自衛権の行使が憲法違反であるということは、集団的自衛権の行使容認が政策的に不要であるということまでを意味するものではありません。集団的自衛権の行使容認が政策的に必要であるのなら、憲法改正の手続きを踏み、国民の支持を得ればよいだけです。仮に改憲手続きが成立しないのであれば、国民が改憲を提案した政治家、国際政治、外交・安全保障の専門家、改憲派の市民の主張を説得力がないと判断しただけです。

 先ほど強調しましたように、国家は国民により負託された権限しか行使できません。軍事権を日本国政府に付与するか否かは、主権者である国民が憲法を通じて決めることです。憲法改正が実現できないということはそれを国民が望んでいないということでしょう。憲法を無視した政策論は国民を無視した政策論であるということを自覚しなければならないと思います。

 以上、終わります。

 

 

 

 

 

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安保法制反対に学ぶプレゼン!

2015-07-15 17:55:16 | 社会・経済

今日、衆議院平和安全法制特別委員会で、安保関連法案が与党によって強行採決されました。

私も日本国憲法を学び、日本国憲法に人類の夢と希望を見出して、弁護士になった者として、安保法制に反対しています。

さて、この憲法違反のとんでもない政権の暴走に対して、多くの人、団体、組織が声をあげています。

色々な声を読んだり、聞いたりしていますが、プレゼンとして秀逸なものにいくつか出会いました。

そんな素晴らしいプレゼンを紹介していきます。

   

   

まず、今回は、

「安保関連法案に反対するママの会」の記者会見!

これが感動的ですばらしい。

回りくどい表現があったり、敬語の使い方がちょっと?だったり、同じことを繰り返している部分があったりなど、プレゼン的難点はいくつも指摘できるのですが、

それでも、人を動かす力があります。

どこがいいのだろうかと、私なりに分析してみたところ、次のようなことに気付きました。

 

「だれのこどもも、ころさせない」というシンプルなメッセージを繰り返している。

・子どもという多くの人の共感を呼ぶ視点を設定している。   

・一文が短い。

・わかりやすい言葉。

・ストーリー性がある。

・具体的な事実がいくつもちりばめられている。

・感動的なクロージング「7月26日は、ガーベラの花を手に、渋谷でお待ちしています。ガーベラの花言葉は『希望・常に前進』です。」

 

人を動かすプレゼンテーションには必ず理由がありますね。

誠実さ、真摯さ、本気度が伝わるすばらしいプレゼンテーションです。

すでに、ママの会のメッセージに多くの人が心を動かされ、安保法制に反対の行動をとるようになりました。

注意、興味、理解、合意、そして行動させたプレゼンテーションです。 

ママの会HPはこちら  

 

逆に、安倍総理の「あそうくん」「すがくん」のいじめっ子の例え話によるプレゼンが、

聞き手をバカにしている、重大な問題を軽くみている、侮っている、舐めている、ごまかしているという印象を与えたことは、多くの人が感じたとおりです。

 

以下に、ママの会のプレゼンテーション全文を掲載しておきます。ぜひ、読んでみて下さい。

【以下、ママの会 記者会見スピーチの引用】

「安保関連法案に反対するママの会」の発起人、西郷南海子と申します。

3人の子どもと生活しながら、大学院で研究をしています。

そして今日、この記者会見に集まったママたちは、安保関連法案反対の思いでつながった仲間たちです。

「だれのこどもも、ころさせない」。これが、このママたちを結びつける、ただひとつの一致点、どうしてもゆずることのできない思いです。

  

一週間前、インターネットでの署名活動として、たった一人から始めた活動ですが、同じ思いをもつ全国のママたちの声が、ものすごい勢いで集まっています。

そしてついには、SNSからも飛び出して、東京・渋谷の街頭に大集合することに決めました。

「どこかの偉い人」ではなくて、子どもと日々泣いたり笑ったりするわたしたちが、街頭に集い、生身の人間としての声を響かせたい。

そう考えて、「7・26戦争立法反対!ママの渋谷ジャック!」を打ち出しました。

7月26日、日曜日、12時半から渋谷駅前で街頭宣伝をし、13時45分に宮下公園(未確定)からデモを出発させる予定です。

   

「だれのこどもも、ころさせない」。

この思いは、それぞれの立場を超えた思いです。

この思いを、渋谷で、そして全国のどの町でも響かせていきたいです。

  

「だれのこどもも、ころさせない」。

この合言葉を一致点に、さまざまな声を持つ人たちが出会い、そこからまた各自が、自由に活動を広げていく。

そういった、誰からでも、一人からでも、始められる活動を目指します。

この会の主人公は、「どこかの偉い人」ではありません。

主人公は、日々子どもと泣いたり笑ったりする、一人ひとりのママなのです。

「安保関連法案に反対するママの会」を立ち上げてから、まだたった一週間ですが、人々の声を「無視」することで成り立つ政治への、がまんできないというママたちの思いが、形になり始めています。

賛同署名と一緒に寄せられた、2000件ものメッセージには、けっしてひとくくりにすることのできない様々な声が響き合っています。

今日ここでは、その多様な声のひとつとして、わたし自身が「安保関連法案に反対するママの会」と、「7・26戦争立法反対!ママの渋谷ジャック!」に込めた思いを、わたし自身の言葉で表現したいと思います。

    

いま、わたしたちが暮らしている世の中では、専門家以外は意見を言ってはいけないというような雰囲気がただよっています。

発言の価値が、その人の所属や立場で決められてしまいがちです。

しかし、この雰囲気に流され、自分の意見を飲み込んでしまうことが、「民主主義」を空っぽのものにしてしまうのではないでしょうか。

こうしてただ、何年かに1度の選挙を待っている、あるいはやり過ごす、というやり方には、もはや限界があると思います。

こうした形ばかりの「民主主義」の行き着く先が、今の安倍政権なのかもしれません。

解釈改憲というやり方で、最高法規である、憲法を踏みにじってみせる。

強行採決をちらつかせ、人々に「自分が考えたり行動しても無駄だ」と思わせる。

そうやって人々に無力感をうえつけていく政治のあり方に、これ以上、引きずられていきたくはありません。

この、安保関連法案の成立をやめさせるだけでなく、自分が生きていきたい社会のあり方について、思い切り語り合える空間を、それぞれの手で作っていくときが、来たのだと思います。

そう考えて、わたしは、この会をたった一人から立ち上げました。

   

子どもと生活することで見えてきた、どうしてもゆずれない思いを表現したいのです。

子どもは、人間が生まれてくるということの、計り知れない「不思議」を教えてくれます。

その命が、誰かにとっての所有物のように扱われたあげく、むごたらしく使い捨てにされる。

その、最たる例が、戦争です。

これだけは、なんとしてでも止めたいのです。

人間が、生まれ、生きるということの「かけがえのなさ」を、わたしは他の誰にも奪われたくありません。

そして、この思いをもっているのは、わたしだけではありません。

サイトに寄せられた2000件を超えるメッセージには、「殺し、殺されるために、この子を産んだのではない!」という声があふれています。

     

誰かの「駒」になることでしか、人間が生きることを許されないような社会のあり方は、もう、終わりにすべきだとわたしは思います。

   

わたしは、あきらめません。

あきらめられません。

   

この思いを胸に抱えたママたち、仲間たちが、活動の一致点を探して見つけ出したのが、「だれのこどもも、ころさせない」という合言葉です。

殺されても仕方のない子どもなんて、どこにもいません。

また、「殺す」ということを、引き受けなければならない子どもも、いてはならないはずです。

そして、すべての兵士は、誰かにとっての子どもでもあります。

「だれのこどもも、ころさせない」。このひとつの合言葉で、全国各地、さらには世界の人々と、手を取り合えるとわたしは信じています。

     

子育てに追われ、なかなか家を出ることもできなかったママたちが、すでに社会に向けてメッセージを発信しはじめています。

「だれのこどもも、ころさせない」と。「7・26戦争立法反対!ママの渋谷ジャック!」では、この声を、首都の、ど真ん中で響かせます。

「どこかの偉い人」ではなくて、子どもと日々泣いたり笑ったりするママが、街宣車の上に登り、群衆に向かってスピーチをする。

誰のものでもない、一人ひとりの言葉で。こういう時代が、ついに、やってきたのだと思います。

歴史の分れ目を、こちら側へと引き寄せましょう。

   

7月26日は、ガーベラの花を手に、渋谷でお待ちしています。

ガーベラの花言葉は「希望・常に前進」です。

ご静聴、ありがとうございました。

   

 


2015.5.21  裁判員裁判施行から6年 ~揺れる裁判員裁判~

2015-05-21 10:50:07 | 社会・経済

2009年5月21日に裁判員裁判が始まって6年が過ぎました。

この6年間、何件かの裁判員裁判で弁護人を務めてきましたが、裁判員裁判は試行錯誤を繰り返し、審理・評議のあり方は揺れ続けています。

弁護人や検察官が行う冒頭陳述や弁論のスタイル、ビジュアルツールの使い方、書証の統合、供述調書・可視化DVDの扱い、遺体写真・生前写真の取り扱い、控訴審における一審裁判員裁判の拘束力・尊重と破棄など、同じ裁判員裁判でも、この6年間でその様相はどんどん変化してきています。

 

 

「量刑」も大きく揺れ、変化しています。

裁判員裁判が始まったころ、市民感覚を反映させなければならないと裁判員の意見を尊重し、裁判官もそれに便乗したと思われる判決が相次ぎました。
その結果、性犯罪の急速な厳罰化、殺人事件の両極端化(厳罰化の一方で執行猶予判決も増えた)、求刑越えの判決、これまでの量刑基準からすれば出るはずのない死刑判決、保護観察付執行猶予判決の急増といった現象が現れました。
審理において、最高裁の量刑検索システムの検索結果(量刑分布)を利用することについても、前例を参考にすることは市民感覚を反映させることに反すると、消極的な裁判官が多かったと思います。

ところが、そうした市民感覚を反映した裁判員裁判の判決がいくつも高裁で破棄されます。
量刑分布からはみ出すような極端な厳罰化判決は控訴審でことごとく破棄され、ついには最高裁も破棄しました。

  

平成26年7月24日、最高裁第一小法廷

「裁判員制度は刑事裁判に国民の視点を入れるために導入された。したがって、量刑に関しても、裁判員裁判導入前の先例の集積結果に相応の変容を与えることがあり得ることは当然に想定されていたということができる。
…(中略)…
しかし、裁判員裁判といえども、他の裁判の結果との公平性が保持された適正なものでなければならないことはいうまでもなく、評議に当たっては、これまでの大まかな量刑の傾向を裁判体の共通認識とした上で、これを出発点として当該事案にふさわしい評議を深めていくことが求められる」

この最高裁判決が出たころから、一審である裁判員裁判でも、量刑分布を積極的に活用して量刑分布に基づいた主張をするようにと、裁判官が当事者に指示するようになりました。
そして、量刑分布からはみ出した判決は姿を消し、良くいえば「公平」な、横並びの無難な判決が並ぶようになったのが、6年経った、平成27年5月の状況です。

 

司法研究「裁判員裁判における量刑評議の在り方について」(法曹会)

  

こうした裁判員裁判の量刑の変化に、大きな影響をもたらした一冊の本があります。
法曹会から出版されている「裁判員裁判における量刑評議の在り方について」(司法研修所編)です。
この本は、全国の裁判官に対して量刑評議の在り方についての指針を示していますが、その方向性は前記最高裁判決と軌を一にしています。
もっとも、この司法研究は平成21年度の司法研究であり、出版されたのが平成24年のことですから、決して裁判員裁判実施後の状況を見て書かれたものではありません。
どうやら、裁判員裁判が始まればそういう状況が生まれてしまうであろうことを平成21年の段階で予期し、平成24年には出版して警鐘を鳴らし、平成25年ころからその影響が実務に現れ、平成26年に浸透してきたということのようです。
この司法研究に参加した裁判官たちの先見の明には驚かされます。

さて、この司法研究では、量刑評議の在り方が極めてシンプルなシステムとして提示されています。

第1段階
行為態様や結果、動機などの主観面といった主要な犯情事実に注目して、その事件の社会的類型を決める。
その社会的類型について、量刑検索システム(量刑分布)を利用して大まかな量刑傾向を把握して刑の幅を限定する。

第2段階
その事件においてポイント・分岐点となる犯情は何かを考え、評価する。ポイント・分岐点とは、例えば、動機、計画性、凶器使用の有無、犯行に至る経緯などである。もっとも、どのような犯情がポイント・分岐点になるかは、犯罪類型、事案の内容によって変わりうる。例えば、タクシー強盗であれば、利欲目的であることは当然ですし、一定の計画性もあるのが通常ですから、動機や計画性はポイント・分岐点にはならないとされています。
そのポイント・分岐点について、事実認定をした上で、量刑上、どの方向にどの程度評価するのかを検討して、刑の幅をさらに絞り込んでいきます。ここでも量刑分布を活用します。

第3段階
特別予防・一般予防といった一般情状事実を微調整要素として、有利または不利に考慮して、最終的に具体的な量刑を決めます。

 

司法研究の大胆なところは、こうした量刑判断の枠組みに関する考え方は「法令の解釈」の問題であって、裁判官の専権事項だと言い切ったところです。
そして、量刑検索システムによる量刑分布(量刑資料)について、裁判員が抵抗しても量刑資料を示すことを躊躇する必要はない!とまで言ったところです。
市民感覚を否定してでも、公平性を重視することを明確にしたのです。

  

司法研究の功罪

  

今の裁判員裁判は、この司法研究をベースとして量刑評議が行われています。
それは判決書にも現れています。
社会的類型を定め、ポイント・分岐点となる犯情を示した後、微調整要素としての一般情状に触れて、最終的な量刑を決めるというスタイルの判決が主流となっています。
こうした司法研究の枠組みによる量刑評議には、弁護人から見て良い面と悪い面があります。

  

まず、良い面

裁判の公平性が保たれ、極端に厳罰化することを防ぐことができます。
例えば、殺人事件で被害者の処罰感情がとても厳しく、何人もの遺族が被害者参加して、悲しみと涙といった情緒的な法廷になる事案です。
弁護人としても対応が難しく、勢い被害者側に同情が集まり、厳罰化方向に行ってしまいます。
しかし、本来、遺族感情はそのままでは犯情にならないのが、行為責任主義を原則とする刑事裁判の大原則です。(但し、行為、結果、動機等の犯情を評価する際の一要素にはなる場合があります。)。
そこで、弁護人としては、司法研究が示した量刑判断の枠組みと量刑分布を武器にして、量刑は犯情をベースとして量刑傾向をふまえて公平さを考え、科学的、理性的、分析的に決定しなければならない、量刑分布によればどんなに重くても懲役16年にしかならないという弁論をすることになります。

厳罰化方向に行ってしまうことを防ぐ弁護活動(守る弁護)には、この司法研究はとても役に立ちます。

 

逆に悪い面

弁護人が頑張って、軽い方向に持って行こうとしても裁判所に相手にしてもらえません。
私たち弁護人が情状事件で主張していることは、その多くが一般情状事実といわれます。
まだ若い(少年である)、前科がない、反省、勤労意欲、弁償して示談が成立している、家族による今後の監督、不幸な生いたち・家庭環境など、これらはすべて一般情状でしかありません。
責任能力に影響を及ぼさない程度のアスペルガー障害や知的障害も同様です。
したがって、いくら主張したところで最後の微調整にしかなりません。

3人以上を殺害した事案で何とか死刑を回避したい、
強盗殺人で有期刑にしたい、
麻薬特例法の営利目的譲渡で何とか執行猶予をとりたい、
強姦致傷だけれども少年だから執行猶予をとりたい・・・・

こういう弁護活動にチャレンジしても、司法研究の枠組みからすれば勝算は極めて低いのです。
弁護しても、しなくても一緒という結果になりかねません。

私も含めて何人もの弁護人が、多くの裁判員裁判でこの壁に無惨に跳ね返され、砕け散っています。

  

では、不可能なのでしょうか。

   

ここでもう一度、最高裁判決に戻ってみます。
最高裁判決は次のように言っています。

「これまでの傾向を変容させる意図を持って量刑を行うことも、裁判員裁判の役割として直ちに否定されるものではない。
しかし、そうした量刑判断が公平性の観点からも是認できるものであるためには、従来の量刑の傾向を前提とすべきではない事情の存在について、裁判体の判断が具体的、説得的に判示されるべきである。」

具体的、説得的に事情が示されれば、これまでの量刑傾向を踏み出す余地を残しているのです。   

司法研究もこれを否定していません。

「これまで一般情状とされてきた事情であっても、場合によっては動機の形成過程に大きく関わるなど、非難の程度、ひいては最終の量刑に少なからず影響するものもあり、従来の犯情事実・一般情状事実の分類も、量刑の本質という観点からは必ずしも厳密なものではない。
財産犯における被害弁償の有無・程度という一般情状が量刑に大きく反映されてきたが、そのことと量刑の本質論とがどのような意味で整合するのかという問題もある。」

一般情状事実であっても、それが犯情に影響を及ぼしたのであれば責任非難の程度に影響するから、犯情、すなわち重要な意味を持つ量刑要素として考慮できるということに含みを持たせています。

    

一般情状しかない事案の弁護をするとき、もう一度、その一般情状を振り返る必要があります。

その一般情状は特別予防としての意味しか持たないのか?犯情(責任非難の程度)に影響を及ぼしたと言うことはできないのか?
情状事実は一般情状に位置づけられている限り微調整要素にしかなりません。
その事実を犯情に位置づけてこそ初めて量刑上の重要な意味を持つのです。
これまで一般情状とされてきた事実を、犯情の中に再構築することが求められています。

 

 

  

大阪高裁平成25年2月26日判決

この困難な壁をジャンプして飛び越えた弁護活動の成果が大阪高裁にあります。
いわゆるアスペルガー殺人事件で、一審の裁判員裁判はアスペルガー障害の受け皿がない等の理由を述べて、検察官の求刑を超えて有期刑の上限である懲役20年の判決を言い渡していました。
大阪高裁判決はこの裁判員裁判を破棄して懲役14年にしました。
アスペルガー障害があっても心神喪失、心神耗弱が認められることは基本的にはありません。
弁護人からすれば、アスペルガー障害が犯行に影響を及ぼしたことは明らかであり、被告人にはいかんともしがたい事情によって犯行に及んだのだから量刑において考慮すべきと考えるのは当然です。
しかし、多くの裁判例はこの事実を評価してきませんでしたし、大阪地裁の裁判員裁判は、むしろ特別予防の必要性が高いと考えて重罰化の理由として使ってしまいました。

大阪高裁判決の言うところは明確です。

「本件犯行に至ったという経緯や動機形成の過程には、意思疎通が困難で、相手の状況や感情、その場の雰囲気などを推し量ることができず、全て字義どおりにとらえてしまい、一度相手に対して敵意を持つに至るとこれを修正することが困難であり、これにこだわってしまうといったアスペルガー症候群特有の障害が大きく影響していることが認められる。」とし、

アスペルガー障害が、犯行に至る経緯や動機形成という犯情要素になるとしました。

そして、
「本件の経緯や動機形成過程へのアスペルガー障害の影響の点は、本件犯行の実体を理解する上で不可欠な要素であり、犯罪行為に対する責任非難の程度に影響するものとして、犯情を評価する上で相当程度考慮されるべき事情と認められる。」とし、

アスペルガー障害の事実を犯情の重要なポイント・分岐点として位置付けたのです。  

これからの刑事弁護

大阪高裁判決は裁判所が勝手にそのような判断をしてくれたわけではありません。
弁護人たちが、具体的、説得的な主張・立証を展開したからこそ上記のような判断がなされたのです。
私も見習って、勉強しなけれべなりません。
司法研究、最高裁判決、そして大阪高裁判決は、弁護人に向けて、刑事弁護をやるなら、情状弁護をやるなら、ここまでのことをやれ!と求めているのでしょう。

がんばらないと! 

*本記事は、辻が、京都弁護士会刑事委員会発行の「刑事弁護ニュース」で、弁護士向けに情状弁護の在り方について書いた原稿をもとにしてブログ用に再編集しました。そのため、専門的な内容がかなり含まれておりますことをご了承ください。

 


黙秘権を守るための尋問

2015-03-12 14:50:15 | 社会・経済

   

「黙秘権」 という権利があります。

日本国憲法では、「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」(38条1項)とされ、刑事訴訟法にも何か所も出てきます。

     

  

最近は、被疑者(逮捕されてから起訴されるまでの捜査機関による取調べが行われる間)に、国選弁護人が付くようになったこともあり、

弁護人が黙秘を薦めて、取調べの時に黙秘するケースも増えているようです。

    

   

黙秘権は権利ですから、黙秘権を行使したことをもって不利益に取り扱うことは許されないはずです。

ところが、警察に逮捕されて、この黙秘権を行使していると、反省していない!と判断されて、

検察官の求刑や、裁判官の判決が重くされてしまうことがあったりします。

    

   

こんなことはおかしいのですが、検察官や裁判官の理屈としては、

洗いざらい自白した場合には反省の態度があるとして良い情状として考慮するけれども、

黙秘するとそういう良い情状がないから相対的に悪く評価されているだけであって、

黙秘したことをもって不利益に評価したのではないということのようです。

さすがは法律家です。

ヘリクツ!がうまい!

結局、一緒だと思いますが。

     

  

さて、昨日、捜査段階で黙秘していた事件の被告人質問をしてきました。

捜査段階では黙秘していたのですが、公判ではすべて自白しています。

きっと、捜査段階で黙秘していたことを検察官からネチネチと責められて、悪い情状として言われるだろうと予測。

そこで先手を打って、私から次のような質問を被告人にしてみました。

     

 

「警察や検察では、事件のことについて黙秘していましたね。」

「逮捕された時、警察の人から、黙秘権があるということを聞きましたね。」

「言いたくないことは言わなくてもいいと言われましたね。」

「自分が不利になるかもしれないことは言わなくていいということでしたね。」

「そういう権利があると聞きましたね。」

「逮捕されてから、検察庁に行きましたね。」

「検事からも、黙秘権があるということを聞きましたね。」

「その後、勾留される前に、裁判官のところにも行きましたね。」

「裁判官からも、黙秘権があるということ聞きましたね。」

「弁護人の私とも話をしましたね。」

「私からも、言いたくないことは言わなくていいという説明を受けましたね。」

「私からは、調書も作らなくていい、サインしなくてもいい、サインする義務はないという説明を受けましたね。」

「あなたは、逮捕後、何度も黙秘する権利があるということを言われたのですね。」

「あなたは、取り調べで黙秘していたのですね。」

    

  

さあ、どうだ!

これなら検察官は、「どうして黙秘していたんだ!」と、被告人をいじめることはできないだろう!

    

 

検察官は、パソコンで打った論告の書面を準備していました。

その書面には、もともとは、

「被告人は、公判では本件への関与を一応認めているが、捜査段階では黙秘しており、真に本件を反省しているかどうかは疑問である。」と書いてありました。

あっ、やっぱり・・・・・という感じなのですが、

最終的に手書きで次のように修正されていました。

「被告人は、公判では本件への関与を一応認めているが、捜査段階では 共犯者の素性といった重要な点は黙秘しており、真に本件を反省しているかどうかは疑問である。」

フフフッ!

二重線で削除してくれてました!