ちょんまげ一代

日本一のちょんまげ、南伊豆の料理宿「ホテル山海」のあるじがお届けする人生泣き笑い。

父親を振り返っての私の将来

2013年03月21日 | 私の頭の中
「私の父は生家」 筏流し屋の次男として生まれた。
渋海川のほとりにあった。
筏流しの仕事とは、材木を川で流して運ぶ商売だった。
材木の運送屋と言う商売だった。
当時で若い衆を14、5人を使っていたらしかった。
俗に言うと裕福な家で育ったらしかったが、私の母親のと結婚では集落で一番貧乏家の家に養子として来た。
でも、若くして大工の道に入って結婚と同時に学校を棟梁として建設している。
直ぐに子どもを設けて女の子供が生まれた。
女の子供は「コウ」と言う名前を付けた。
自分で学校を棟梁として建てたので「コウ」と言う名前を付けたそうだ。
私から見た父親は人望もあつく人気もあった。
まだ、小比企職人の時代に製材機を導入して材木から柱や板を作って建築業として景気良かった。
その、父親が脳梗塞で倒れて、半身不随になって、10年後に亡くなった。
晩年は兄嫁の世話になっていた。
そんな父親の生涯を見ていると、私は将来は健康でいなくてはならないと心底感じている。
もう、70歳を過ぎたので、ソロソロ後継者を譲ってご縁居にある予定である。
もう少しで借金はゼロなる。
ゼロになったら、後継者に全部上げる予定だ。
人間、お金は死んで持って行けない。
生きている、今、お金は使う事にしている。












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