コラム第43回を掲載していただきました。エフェソ書は「教会の頭であるキリスト」ということを強調していますが、それと旧約聖書の礼拝所(荒野の幕屋、神殿、ケバル川河畔)の栄光を繋ぎ、「教会のかしらであるキリストの栄光への希望」という観点で執筆させていただきました。
今回はエフェソ書1章15~23節を読みます。これだけ長い文章ですが、原文では19節の終わりに読点が一度打たれているだけです。内容的には、ひとまとまりになっているとしてよいと思います。
15 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、16 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、18 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。19 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。20 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、21 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
エフェソ書1章3~14節は「頌栄」でした。1章2節と15節の間に頌栄が挿入されているのです。したがって、15節で書簡が改まって書き出されていると捉えてよいと思います。
以下はリンクでお読み下さい。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/29671/20210701/paul-philemon-onesimus-43.htm
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます