1956年→慎太郎刈り。
2017年→慎太郎狩り。
んなことどうでもいいが、「鈴木清順」監督が死んじゃった・・・。
天草のばあちゃんより年上の監督は、40年前からあの風貌で、飄々として偉ぶるところがなかった。
1977年、学歴も年齢も関係なく入学金も安かった神保町の「美學校」に通っていた。
「宍戸錠」主演の「殺しの烙印」(1967年)で、「なんのこっちゃかわからない」と日活社長の逆鱗に触れて干されていた「鈴木清順」監督が講師をしていたからだ。
教室は雑居ビルの一室、壁にはずらっと日本酒の一升瓶が並び、一癖ありそうな映画青年という連中が小難しい顔をしてけんけんがくがくの映画論を戦わしていた。
他の講師には「筧正典、木村威夫、大和屋竺、鈴木岬一」という「清順組」ともいえそうな人たちがいて、現場の雰囲気をひしひしと感じさせてくれた。
授業はほんとうに自由で、議論が煮詰まってくると「よしっ !! 」と講師共々近所の飲み屋に繰り出し、昼間から酒を飲みながら掴みあう勢いで映画を熱く語ったりした。
意見の合わない ( というか趣味の合わない ) ヤツとはなんどか殴り合ったりしたものだ・・・若気の至り。
1年間の講義の締めくくりの卒業制作で8ミリ映画を作ることになり、ロケハンと称して友だち3人と横浜の江田に借りて住んでいた一軒家に「鈴木清順」監督を招いた。
当時の江田は凄まじい造成で山を切り崩し道路や宅地を作っていたが、借りた一軒家は庭付き車庫付きの3DKの二階家。
隣の邸宅からは午後になるとピアノの音色が聴こえてきて、並み居る豪邸の車庫には高級車が収まっているような立地で、縁側に座り煙草をくゆらす「清順」監督は妙にハマっていて絵になった。
二十歳やそこらの若造の言葉にもニコニコと答え、質問には優しく答えてくれた「清順」監督はその年 ( 昭和52年 ) 、松竹の「悲愁物語」でカムバックを果たし、テレビの「ルパン三世」第2シリーズの監修として携わり、昭和55年の「ツィゴイネルワイゼン」で完全復活して、若造には手の届かない遠くへいってしまった。
あの時撮影した8ミリフィルムはどこへいってしまったんだろう❓
もしあのフィルムが無事どこかに残っていたら、在りし日の「清順」監督の飄々とした姿を映した貴重なものになったろうか❓
告白するが、当時のイキがっていた若造は「清順美学」をちゃんと理解していなかった・・・。
「クエンティン・タランティーノ」「デヴィッド・リンチ」「ウォン・カーウァイ」「ジョン・ウー」などの錚々たるフィルムメーカーが影響を受けたと語る「清順美学」を、身近にいたのにちゃんと学ばなかった悔いは今でも大きい。
つい最近「野獣の青春」(1963年)を観直したが、「肉体の門」(1964年)「春婦傳」(1965年)「河内カルメン」(1966年)「東京流れ者」(1966年)「けんかえれじい」(1966年)「殺しの烙印」(1967年)「ツィゴイネルワイゼン」(1980年)「陽炎座」(1981年)「カポネ大いに泣く」(1985年)「夢二」(1991年)「ピストルオペラ」(2001年)「オペレッタ狸御殿」(2005年) これだけは必ず観直そう。
「鈴木清順」監督ありがとう御座いました。
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