いのちの煌めき

誰にだって唯一無二の物語がある。私の心に残る人々と猫の覚え書き。

私と母の物語7

2023-03-20 01:20:00 | 日記
「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」
作家の林芙美子氏の詩だ。

実は、この詩の額縁が子ども時代の私の寝室に飾られていた。
母はいったい何を思って、この額を私の部屋に掛けていたのだろう?
それほど、深い意味はなかったのかもしれないが…
それでも、私は日に何度となく、この額縁を見つめながら、その言葉を諳んじていた。

花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき…

幼心にも、あまり前向きでも、明るいことでもないな…ということは感じられた。
眠れない夜なんか、繰り返し、繰り返し、この言葉を諳んじる。そうすると、余計に眠れなくなる。まるで、呪いの言葉のようだ。

そういえば、、小学校3年生くらいの時、しばらく、不眠症のようになったことがあったなぁ。
眠れなくて、怖くなって、母の布団に潜り込もうとして叱られた。

この文章を書く前に、少し検索したのだか、どうやらこの詩には、続きというか、全文があるらしい。

    風も吹くなり
    雲も光るなり
    生きてゐる幸福(しあはせ)は
    波間の鴎(かもめ)のごとく
    縹渺(ひょうびょう)とたヾよい

    生きてゐる幸福(こうふく)は
    あなたも知ってゐる
    私もよく知ってゐる
    花のいのちはみじかくて
    苦しきことのみ多かれど
    風も吹くなり
    雲も光るなり

ペーストさせて頂いたブログの解説にも記されていましたが「多かりき」ではなく、「多かれど」なら、まだいささか希望が感じられるかと。

私もこの辺りで、「花の命は…」についての私自身の情報をアップデートしようと思う。

生きている幸福は、あなたも知っている。
私もよく知っている。
ときに苦しいことは多くても、
後の日には、風も吹けば、雲も光る。

人生って、それほど、悪いもんでもなさそうだ。

私と母の物語6

2023-03-20 01:09:00 | 日記
私が「親捨て」の作業に、本格的に向き合ったのは、自分も子どもをもうけて、子育てを始めた頃からだ。
とにかく、上手くいかなかった、子育てが。
小さな事から、大きな事まで、ことごとく壁にぶち当たって、前に進めなくなった。
子どもが泣けば、自分も泣き出し、一緒になって、ワンワン泣くような日々の連続だった。
特に、最初の子どもは、私自身の神経質さが伝わるのか、過敏で病弱だった。加えて、同居の義父母からの干渉もあいまって、私の心身は限界に達していた。
ある日、我が子に対する虐待スレスレ…の感情が、湧き上がってくるのを感じた。咄嗟に、「これは、マズイことになる…」と急ブレーキをかけた日のことを覚えている。
何とかしなければ、、これは、私の心の問題だ。助けて、と誰かに言おう。そうだ、そして、助けてもらうのだ。それは、決して悪い事ではない。私の中の小さな私が、外側で悪戦苦闘している大人の私に向かって、小さな、でも力いっぱいのシグナルを発信していた。
ここがいわゆる「底つき」という状態だったのだと思う。ターニングポイントだった。

それから、少しずつ、あらゆる方面から、有形無形のサポートを受けて、私は自分の心と向き合い、自分の心を回復させつつ、同時に子育ても平行して行った。振り返れば、ギリギリ綱渡りのような日々もあったけど、幸い、子ども達は健全に成長してくれたと思う。

先日、娘に「私達はママに自力で生きる力を育ててもらったと思うし、自分と他人との距離感とか、自尊心とか、そういうことも身に付けさせてもらったから、すごく感謝してる」と言われた。嬉しかったし、安心もした。

私自身の対人関係は、境界線が無茶苦茶だった。優先順位も間違っていた。必要な自尊感情も持っていなかった。ただ、子育てをしながら、同時に自分育てもし直した。必死だった。自分育ての最中に、気付いたことや、わかったことは、子ども達にもシェアしていたので、それが、単なる感覚に留まらず、知識としても身に付いたというのなら、全てのことが、相働いて、益となったということだろう。
私の人生は、一見、遠回りのように見えて、実は全部が繋がっていて、必要なことだったと思う。
私の母は、今では、私にとっては、完全な反面教師になっている。それはそれで、私にとって、重要な意味を持っている。

私と母の物語5

2023-03-20 00:57:00 | 日記
昔、火事があった。

これも、小学生の時のこと。
ある日、ご近所に住んでいた友達の家が、火事になった。
その家は、小さな川と道路を隔てた所にあり、私の家にまで類焼してくるほどの大火事でもなかったけれど、それでも、消防車はたくさん駆け付けて、周辺は騒然としていた。
たぶん、土曜日だか、日曜日だったのだと思う。私達家族は、揃って何処かに出掛けようとしていた。
私は、友達の家が火事になっているという現実にショックを受けていた。
母に「○○ちゃんの家、火事やで!」って、息急き切って伝えた。そして、その後の母の言葉が、今も忘れられない。
「なんやのこの子、真っ青な顔して、唇震わせて、気い、小さいなぁ。ほんまに、情け無い子やで…」と。

友達の家が火事だと知れば、誰だって、心配するだろう。友達は無事かと、心が揺さぶられれば、血の気も失せるだろう。
あの時の私の様子は、至って、真っ当な反応だったと、今ならわかる。
でも、母に先のように評価され、嘲笑われると当時の私は、自分の心持ちに全く自信がなくなった。これくらいの事で、慌てたりしてはいけないのか?また、正直な気持ちを露わにすることは、はしたないことなのか? 悪いことなのか?と。

それから、母はその家のことを気にすることもなく、身支度を整えて、外出することを選んだ。
私はずっと、友達のことが心配で仕方なかったけれど、それ以上、何も言うことが出来なくなった。
友達はそれから暫くして、引っ越して行った。
今も、どこかで、元気に過ごしていてくれれば嬉しい。
理不尽な思い出と一緒に、時々、思い出す友達のこと… 

私と母の物語4

2023-03-20 00:47:00 | 日記
私が小学生の時、校庭の片隅に、回扇塔というクルクル回る遊具があった。ぶら下がった友達を、回す担当の子どもが人力で回して遊ぶ遊具。
そんな遊具は、今はもうどこにもないと思う。
なぜなら、とても、危ない遊具だったから。

私は放課後の少しの時間、友達とゆるゆる、それを回しながら遊んでいた。そこに、同じクラスの男の子達が数人加わって、事故は起こった。
その時、私一人が、その遊具にぶら下がっていて、男の子達が力任せに、ブンブン回し始めた。「やめて、やめて、、」と必死で止めているのに、その回転は速度を増し、止まらなくて、遂に私の小さな手は握力を失った。
遠心力で大きく弧を描き、遠くまで飛ばされた私の体は、宙を舞い、次に激しく地面に叩き付けられた。
しばらく、痙攣して、気を失っていたようだ。
側にいた男の子達も友達も、言葉を失ってただ、茫然としていた。また一瞬のうちに、そんな事態を招いたことを後悔もしただろうし、先生に叱られることも、恐かっただろう、苦しんでいる私の姿を見ても、誰も先生に知らせてくれる子はいなかった。
ただ、「大丈夫?大丈夫?…」と私の周りで、オロオロしているばかり。
時間にしてどれほどだったのかは、定かではない、幸い、意識を取り戻した私は、自力で立ち上がり、ノロノロ家路を辿って帰った。ショックだった。誰にも、助けられなかったことが。漠然と、私は誰にも心配されない子どもなんだと思って、悲しかった。身体も痛かった。でも、泣いてはいけない。苦しい気持ちを押し殺して、帰宅した。
家にいた母は、私の異変に気付いたようだった。「どうしたん?服、汚れてるやんか」「顔、青いで」とも言った。私は、その言葉と情景を今でも憶えている。でも私は「何でもないよ」と答えた。それ以上、母は何も聞かなかった。
私はなぜ、何もないと母に言ったのだろう。
本当は、恐かったのに、辛かったのに、、なぜ、何も、言えなかったのだろう。
感情を抑えて、気持ちを押し殺すことを先に覚えてしまうと、子どもは助けて…という言葉も言えなくなる。本当に、大切なことも伝えなくなるのだ。

私の娘が小学生の時、学校のある備品が整備不良が原因で、娘の足の上に落ちてきたことがある。幸い、たいした怪我にはならなかったが、学校からの連絡があり、知らされた病院へ駆けつけた。保健の先生と校長先生が、付き添っていてくれて安心した。先生方は、私からの怒りクレームが噴出するのではないか?と戦々恐々としておられたが、私は敢えて、そういうことはしなかった。学校側に何か問題があるのなら、この事態を通して、先生方が考えればいいことだし、私はそんなことには、感知しない。余計なエネルギーは使いたくない、という気持ちのほうが強かった。
とにかく、私にとって大事なことは、娘のことだけだ。私が到着した時には、一通りの診察が終わっていて、娘は待合室に座っていた。私は、そっと娘の側に寄り添って、ただ、黙って抱きしめた。「痛かったやろ?、大丈夫か?」と声をかけたら、娘は安心した顔を見せ、それから、ポロポロと泣き出した。いろいろ、こらえていた気持ちが、溢れ出したのだろう。しばらく、黙って抱き合っている私達親子の姿を先生達が、ポカンと見つめていたことを覚えている。
あの時、私は娘と一緒に、私の中の小さな私も抱きしめていた。
私も、あの時、黙って母に、抱きしめて欲しかった。「大丈夫やで、もう大丈夫やで、何も心配せんでもええんやで、」って、言ってもらいたかった。そして、心の底から安心したかった。 

私と母の物語3

2023-03-20 00:31:00 | 日記
私の母は、他人をけなしたり、嘲笑ったりすることの多い人だった。
外面はすごく、いい人。誰にでも笑顔で挨拶し、楽しげに会話もする。
でも、ひとたび、家の扉を閉じれば、一瞬でその形相が変わる。今まで、ニコニコ話していた相手のことを、ことごとく批判し、馬鹿にし、おとしめる。いったい、何に対する怒りなのか?と思うほどの悪態をつく。
たとえば、誰かから頂いた贈り物があったとしよう。母はどんなに素敵な物や、高価な物を貰っても、素直にその品物を褒めたり、感謝したり、喜んで受け取ったりはしない。
いや、、もちろん、贈り主の前では、たくさんお礼の言葉を並べたてるのだか、いったん、家族だけになった時には「よくも、まぁ、こんな物を贈ってきたもんだよ!ケッ!」となるんだから、それはそれは、ひどい有様。

だから、私は今だに、母の日や誕生日、敬老の日等の母への贈り物を選ぶ時、とても憂鬱になる。いっそ、もう何も送らないでおこうか…と迷うこともないではないが、贈らなかったら、おくらなかったで、別のややこしいことが起こりそうなので、一応毎回、辻褄合わせのように、何かを見つくろって、送ってはいる。
でもきっと、いつもの悪態はつかれているだろう。それはもう、母の問題であって、私の問題ではないから、気にしないことにした。
私ももうずいぶん前に、心の中の私の母を捨てているので、そういうことも、気にせず生きられるようになった。この境地に至るまでには、長い長い時間が必要だったけど、本当に私、頑張ったと思う。