ひろなんはひろにゃんの音便形で、これは猫を師にもつゆえのことであることは、最初にのべてありますが、では犬はどうか。
実は、私の人生最初の友達は犬なのです。
2~3歳のころ、よく家からひとり抜け出して、近所のカトリックの教会で遊んでいたのです。
そこの神父さんはスイス人で、アルトゥールというコリーを飼っていたのです。
成犬だったアルは、当時の私よりはるかに大きく、出会ったはじめのころは、アルも感覚がつかめずよく私を吹っ飛ばしていたそうです。
やがて慣れてくると、ちゃんと私が転ばないように加減をしてくれるようになったといいます。一緒に歩いているときも、つかず離れずの距離を保って、私が転びそうになると体で支えてくれたそうです。
その様子は、まさに犬に面倒を見てもらっているという感じだったそうです。
幼かったので記憶は定かではないのですが、目線の高さより大きい犬の姿は憶えています。
大抵、小学生くらいのころには、犬を飼いたいというものですが、団地暮らしだったため、そうも言えず、大人になってからも風来坊でよく引っ越したため、犬と付き合う機会がないのです。
犬が犬らしく暮らせる環境や関わり方を用意できないのであれば、飼うべきではないと思うので、まだ今の私には犬を飼う資格はないです。
この先もなんだか無理そうだなあ。
実は、私の人生最初の友達は犬なのです。
2~3歳のころ、よく家からひとり抜け出して、近所のカトリックの教会で遊んでいたのです。
そこの神父さんはスイス人で、アルトゥールというコリーを飼っていたのです。
成犬だったアルは、当時の私よりはるかに大きく、出会ったはじめのころは、アルも感覚がつかめずよく私を吹っ飛ばしていたそうです。
やがて慣れてくると、ちゃんと私が転ばないように加減をしてくれるようになったといいます。一緒に歩いているときも、つかず離れずの距離を保って、私が転びそうになると体で支えてくれたそうです。
その様子は、まさに犬に面倒を見てもらっているという感じだったそうです。
幼かったので記憶は定かではないのですが、目線の高さより大きい犬の姿は憶えています。
大抵、小学生くらいのころには、犬を飼いたいというものですが、団地暮らしだったため、そうも言えず、大人になってからも風来坊でよく引っ越したため、犬と付き合う機会がないのです。
犬が犬らしく暮らせる環境や関わり方を用意できないのであれば、飼うべきではないと思うので、まだ今の私には犬を飼う資格はないです。
この先もなんだか無理そうだなあ。
ひろなんさんのお家は広い庭もあって、いいと思うんだけどなあ(笑)。でも、旅行の多い家には犬は不向きかも。
私が猫を師とした理由にその事故の存在感のコントロール力がありますが、これは死んだあとにも残ります。特に外飼いの猫では。
死んだことがわかっていても、またひょこり帰ってきそうな感じが残るのです。
死別の痛みを和らげる力が残るのですね。
犬だとやっぱりそうはいかないですよね。真っ向からそれを受け止めなければなりませんから。
犬は人と共同作業が出来るのがいいですね。
「そのレンチとってくれ」「わん」
なんて、あこがれますねー。(なにいってんだか)
誰かの書いたものにあったと思うのですが、
犬は忠実で猫はわがままだというけれど、そうではない。犬も猫も結局はわがままなのだが、その通し方が違うのだ…。
私も生来、他者と関わるのは得意ではない方なので、人と関わる二大異生物の犬と猫には、教えられることが多いです。
そのうちココさんに弟子入りするかも。
いや、まったくやつらのことを話しだすときりがありませんね。
またどうぞ!