御手紙拝見致しました。
祈りの同志にとって、祈りの他に、
大切なことがあれば教えて欲しい
という内容の御手紙かと思います。
世界平和の祈りをする、その次に大事な
ことは、聴くということであります。
祈りと、聴くことは、実は一体でありまして、
どちらが第一、第二と、順番をつけられるもの
ではありません。
聴くということは、どういうことかというと、
まごころを込めて相手のなかに入る、
その気持ち、その心、そして、その人を生かし
めている本心の光と一体となるということで
あります。
単に相手の話している言葉を聞くのでは
ありません。
たとえば、私が「あ」といえば、みなさん、
五井先生が「あ」といったということはわかり
ます。
けれども、私がどういう気持で、あるいは、
どういう言葉を次につなげて、何を話そうと
しているかを知ろうとおもえば、自然、
心を集中して、私の出した言葉のひびきを
ききとろうとなさるでしょう。
聴くということは、この言葉のひびきを
感じとることなのであります。
出された言葉の奥にある、その人自身の
心のひびきをたずねることなのであります。
そうして、その心のひびきと、きき手である
あなた自身の心のひびきとが、同化し、一体となる、
つまりは、あなたのいのちと、その人のいのちとが
抱き合うということに他ならないのであります。
すべての祈り、ことに、私どもの世界平和の祈りは、
神様が、私ども一人一人の祈りをとおして、個々の
ひびきを感じ取って下さり、無限の愛の光を流し込んで
下さる・・・・・・そしてまた、光のシャワーを神様の愛に
よってそそがれた私達が、私達自身のなかにみちている
神様の光を放射して、いわば、光と光が交流し合う、
愛と愛、やさしさとやさしさとが交流し合うのが、
世界平和の祈りであり、統一であるのであります。
いいかえますと、この祈りをとおして、神様は、
つねに私どもの声を心を聴いて下さっていると
いうことが、ここでいえます。
私どもは、つねに、神様の愛に抱かれ、
心に抱かれ、聴いていただける幸せのなかに
生きているのであります。
そこで、私どももまた、心を込めて、聴くと
いうことが大事なのであります。
相手の表情、表面的な言葉にとらわれず、
相手をそのままに抱くということが大切になって
参ります。
祈りというものは、自己をそのままに投げ出し、
光となって、神の心を聴くということであります。
この祈りによって、聴くことのよろこびを、
十分に知らされている私どもの心は、さらに
寛やかになるために、(相手を抱くために)
やさしさと、素直さとを、自分自身にたくわえて
ゆくことが是非とも必要となってくるのであります。
神は無限の愛だと申し上げました。その無限の愛を
成り立たせているものは、神のみこころの朗らかさと
私どもに対する無限のやさしさであります。
新約聖書のなかに伝道者パウロのかきました
いくつかの手紙が入っておりますが、そのなかの一つ
「コリント人への第一の手紙」第十三章は、
一般に愛の章とよばれております。
つづめて申しますと、もし愛がなければ、
どんな言葉も行為も、無に等しいということを、
彼はここで述べているのであります。
この愛とは、やさしさであり、朗らかさで
ありましょう。
先程、私が述べました素直さへと、これは
まっすぐにつながってゆくものであります。
いかに社会的な地位があり、また、富があり、
名声があったと致しましても、神を求める心に
おいて、謙虚さを失った時、その人の光は
にぶるのであります。
そうして、神を求める心とは、教義に述べた
自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、
ということにほかならないのであります。
神は特別な世界、存在ではない。神様を
はなれて、私どものいのちの活きづきは
ゆるされないのであります。
この神様は、かつて、一度も、私どもを
離れられたことがないのであります。
ですから、自分に人に、そうして神に
素直ということは、すなわち、人を容れる心、
聴く心と一つであるということがいえるので
あります。
どうぞやさしい心、素直な心を持って、
自分自身をやわらげ、またつよくし、その
やさしさと素直さをもって心から色々の人の
話を聴いて下さいますように。
神様はどこまでもやさしい方でありますから、
あなたも、生き得るかぎりやさしく、
言葉に光をながすように、言葉を粗末に出さず、
言葉の奥にあるひびきをたずねて下さるようにと
祈るものであります。
どうぞ、どこまでもやさしくあって下さい。
世界人類が平和でありますように
合掌
昌久
祈りの同志にとって、祈りの他に、
大切なことがあれば教えて欲しい
という内容の御手紙かと思います。
世界平和の祈りをする、その次に大事な
ことは、聴くということであります。
祈りと、聴くことは、実は一体でありまして、
どちらが第一、第二と、順番をつけられるもの
ではありません。
聴くということは、どういうことかというと、
まごころを込めて相手のなかに入る、
その気持ち、その心、そして、その人を生かし
めている本心の光と一体となるということで
あります。
単に相手の話している言葉を聞くのでは
ありません。
たとえば、私が「あ」といえば、みなさん、
五井先生が「あ」といったということはわかり
ます。
けれども、私がどういう気持で、あるいは、
どういう言葉を次につなげて、何を話そうと
しているかを知ろうとおもえば、自然、
心を集中して、私の出した言葉のひびきを
ききとろうとなさるでしょう。
聴くということは、この言葉のひびきを
感じとることなのであります。
出された言葉の奥にある、その人自身の
心のひびきをたずねることなのであります。
そうして、その心のひびきと、きき手である
あなた自身の心のひびきとが、同化し、一体となる、
つまりは、あなたのいのちと、その人のいのちとが
抱き合うということに他ならないのであります。
すべての祈り、ことに、私どもの世界平和の祈りは、
神様が、私ども一人一人の祈りをとおして、個々の
ひびきを感じ取って下さり、無限の愛の光を流し込んで
下さる・・・・・・そしてまた、光のシャワーを神様の愛に
よってそそがれた私達が、私達自身のなかにみちている
神様の光を放射して、いわば、光と光が交流し合う、
愛と愛、やさしさとやさしさとが交流し合うのが、
世界平和の祈りであり、統一であるのであります。
いいかえますと、この祈りをとおして、神様は、
つねに私どもの声を心を聴いて下さっていると
いうことが、ここでいえます。
私どもは、つねに、神様の愛に抱かれ、
心に抱かれ、聴いていただける幸せのなかに
生きているのであります。
そこで、私どももまた、心を込めて、聴くと
いうことが大事なのであります。
相手の表情、表面的な言葉にとらわれず、
相手をそのままに抱くということが大切になって
参ります。
祈りというものは、自己をそのままに投げ出し、
光となって、神の心を聴くということであります。
この祈りによって、聴くことのよろこびを、
十分に知らされている私どもの心は、さらに
寛やかになるために、(相手を抱くために)
やさしさと、素直さとを、自分自身にたくわえて
ゆくことが是非とも必要となってくるのであります。
神は無限の愛だと申し上げました。その無限の愛を
成り立たせているものは、神のみこころの朗らかさと
私どもに対する無限のやさしさであります。
新約聖書のなかに伝道者パウロのかきました
いくつかの手紙が入っておりますが、そのなかの一つ
「コリント人への第一の手紙」第十三章は、
一般に愛の章とよばれております。
つづめて申しますと、もし愛がなければ、
どんな言葉も行為も、無に等しいということを、
彼はここで述べているのであります。
この愛とは、やさしさであり、朗らかさで
ありましょう。
先程、私が述べました素直さへと、これは
まっすぐにつながってゆくものであります。
いかに社会的な地位があり、また、富があり、
名声があったと致しましても、神を求める心に
おいて、謙虚さを失った時、その人の光は
にぶるのであります。
そうして、神を求める心とは、教義に述べた
自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、
ということにほかならないのであります。
神は特別な世界、存在ではない。神様を
はなれて、私どものいのちの活きづきは
ゆるされないのであります。
この神様は、かつて、一度も、私どもを
離れられたことがないのであります。
ですから、自分に人に、そうして神に
素直ということは、すなわち、人を容れる心、
聴く心と一つであるということがいえるので
あります。
どうぞやさしい心、素直な心を持って、
自分自身をやわらげ、またつよくし、その
やさしさと素直さをもって心から色々の人の
話を聴いて下さいますように。
神様はどこまでもやさしい方でありますから、
あなたも、生き得るかぎりやさしく、
言葉に光をながすように、言葉を粗末に出さず、
言葉の奥にあるひびきをたずねて下さるようにと
祈るものであります。
どうぞ、どこまでもやさしくあって下さい。
世界人類が平和でありますように
合掌
昌久