わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

さやけき生命(続き 6)

2011-09-25 12:34:05 | 癒し
    (前日からの続き)

 世界平和の祈りというのは、地球人類
だけではなく、宇宙にいる人類すべての、
星々すべての、ふるさとの祈りなのです。
 肉体だけで祈るのでもなく、霊だけで
祈るのでもなく、全体が祈るんです。言葉
だけで祈るんじゃないんです。想いも何も
かも、波動全体で皆んなが光って祈って
いる。私が祈っていると同時に、私だけ
ではなく、私から広がって、あらゆる
すべてのものが祈る。そういう祈りに
なってゆくわけですね。

 だから、この世界平和の祈りというのは、
非常に広大無辺なものなんです。どこから
どこまでがどうの、どこからどこ迄が光る
とか、これ祈ったらどうなるとか、そういう
小さなことなんていうのは、私の神様は
相手にしない。宇宙神の広大さなんて、
そんなものではない。私達なんかの一つや
二つの生命を使っても、それでもまだ、
もっともっと大きなことをなさる。そんな
ものですよね。

 生命を捨てざれば生命を得ずというのは、
それなんです。捨身になって神様を信じ、
本当に信じるところから出発する時に、
光はサーッと入って来る。信じなきゃ
入らないかというと、そうじゃない。
 信じないところにも入るんだけれども、
より信じてよりゆだねて祈る時に、神様から
来る光というのは、素直に自分の心へ入って
来る。そのことによって、我々の道が
生かされてゆく。生きるわけではなく、
生かされてゆく。
            (翌日へ続く)

さやけき生命(続き 5)

2011-09-24 12:44:43 | 癒し
    (前日からの続き)

 自分だけが光る祈りじゃないんですよね、
世界平和の祈りというのはね。尽十方(じん
じっぽう)に広がり、強烈でやわらかく、
祈ってる人も祈られてる方も光になって、
敵も味方もなくなってというのが世界平和の
祈りですよ。そういう祈りを常に口ずさんで
呟いて、身体の中に入れてゆく時には、もう
自分の身体だか神様の身体だか、身体が
有って無いようなね。本当に把われが
なくなって来て、神様の久遠の光と一緒で
共に生きている。自分の中に光が流れ込み、
その光に支えられて、神様に支えられて
我々は生きているんだなあということを、
これを悟らせて下さるのが祈りですよね。

 それで、何の為に祈るかというと、やはり
自分の生命が輝くために祈る。自分の生命が
輝くというのは、エゴイズムの祈りじゃ
ないんです。自分の生命というのは、
神様から流れて来ているもの。神様の
奥の奥の生命と、自分の生命とが一体なんだ、
共にある生命なんだと思って祈る時には、
両方輝くわけです。肉体界も輝くし、幽界も
霊界も天界も全部が輝く、すべての世界が
輝く。目に見える世界も目に見えない世界も、
すべてが輝いて、すべてが赦し合って、
すべてが大愛の世界になってゆく。本来
我々が、そういう世界の住人なんです。

 そこへ目指して行くんじゃないんです。
 そこへ帰るんですね。その世界から我々は
来ている、地球へやって来ていろんな仕事を
している。元々が光っているわけです。
 光ってるけれども光っているなんて到底
思えないような、様々なことがあって、
苦しみがあり、どうしようもない色々な
ことがあって、最後にふるさとである世界
平和の祈りのところへ、皆んなが今、たどり
着いてきた。
            (翌日へ続く)

さやけき生命(続き 4)

2011-09-23 13:12:49 | 癒し
    (前日からの続き)

 例えば、自殺をする人がいるでしょ。入水
する人もあれば飛び込む人もある。色々な
苦しみもあるけれども、そういう自殺では
なくて、実際に捨身(しゃしん)をする。
 自分の身を捨てて、自分が光になって、
業を消すというかたちの自殺もある。
 つまり、神様に押されて、守護霊様に
押されて、守護霊様の光によって霊界に
転出するという、その死もある。これは
人間の智恵では分かりかねる。たとえ
プラットホームからボーンと飛び込んで、
肉片がいっぱい散って顔もわからない状態
になったとしても、本人が本当に悲しみ
嘆いて自殺する場合と、そうでない場合
とがあるんです。

 なんであの人がと思う人が不幸になったり
死んでしまったりね。あっという間に居なく
なったりする時には、何かしらの神様の方の
おもんばかりが後ろで働いている。だから、
自分がやろうと思わないことです。自分の
生命だと思わないことです。神様から流れて
来ている生命だと思うことです。

 「久遠の光、神と共に」と書いたのは、
久遠の光というのは、消えることのない
絶えることのない光ですよね。これが、
我々のこの身体(からだ)を貫いて流れて
いる。そして、この光というものは大宇宙に
つながっている。宇宙神のみこころに
つながってる。その大愛につながってる我々
というものを、自分の中で、そうだそうだ
と本当に思おうとすれば、これはやっぱり
祈るしかない。何でもいいけれども、我々は
世界平和の祈りにつながった。だから、
世界人類が平和でありますようにと
祈ってゆく時に、皆んながそこで光になる。

           (翌日へ続く)

さやけき生命(続き 3)

2011-09-22 09:42:44 | 癒し
    (前日からの続き)

 世界平和の祈りというのは、そんなもの
ではない。世界平和の祈りというのは、
皆んなが光一元の生命ですよ、本当は
皆んな迷ってないんですよと。でもそれを
言ったら、じゃあ迷った人は救われない
のか、迷ってるあなたが悪いんだという
ことになると困るから、それは消えてゆく
姿ですよ、大丈夫ですよと皆をこうして
連れて来たわけです。

 だけれども、今地球の進化のスピードが
非常に速くなって来ている。そこに肉体
人間が肉体つけたままで、その進化の
スピードに合わなきゃいけなくなっている。
 速度を合わせなきゃならなくなって
来てる。だから、そのずれがあるから非常に
みんな辛い。個々の運命というものも、
ハイスピードで良くなったり悪くなったり、
揺れもどしが来たり、地震が来たりと、現わ
れては消え、現われては消えている。
 今まではゆっくり歩いてよかったのが、
ちょっと少速歩になったり、強歩になったり、
ある時点では走ったり、小走りになったり
しなきゃいけない。今までそんなこと
無かったから、一体どうなっているんだろう、
どうなるんだろうなんですよね。

 雲仙でもそうです。あれもやはり一つの
現われですね。地球を本当に浄化して霊化
させてゆく。肉体波動なんか持たなくても、
霊体で行ったり来たり出来る位の地球に
なってゆくわけで、雲仙の噴火で亡くなら
れた人達の本体は、それを知ってるんですね。
 でもそんなこと言ったって、残された
人達はたまらない。
              (翌日へ続く)  


 

さやけき生命(続き 2)

2011-09-21 12:38:20 | 癒し
 光というものは、どんなにでも
働くんですね。神様は光の元の元です。
 神様というのは、どんなふうにでも人に
現われて来る。その現われて来る時は、
いい現われかたばかりではないんです。
 非常に手の込んだ、もって廻った現われ
かたもあるのです。悪役も一人や二人
置いといて、喧嘩をさせたり、色んなこと
させたりして、神様が何故こんなことまで
されるのか?というような体験をさせて、
人間の出来をもっと上にあげようとする。
 だから光によって全部ワーッと良くなる
かというと、そうでもないんですよね。
 それは御利益信仰と同じことになる。

 ですから、ごほうび上げますよと言わ
れたら、その通りのものがポンと来ると
皆思ってしまうでしょうが、その人は
何十生何百生何千生かけてやって来た、
いろんなことがあるわけですね。
 いいこともあるし、悪いこともあるし、
過(あやま)ちもある。それらが混合
されて、生命の糸をつむぐように、今
色んなことに現われて来ている訳でしょう。
 その中で人間が、消えてゆく姿の中で、
ただ一つの光の自分を見つけていく
ためには、ものすごい苦労が要るわけ
ですよね。だから、要らないものはもう
けっこうですと、もう辛いことはけっこう
ですと言いたくなる。みんな言いたくなる。

 ところが、その人の前生に借金がまだ
払っていないものは残っているんですね。
 四次元の光が降ろされ、世界的にも個々人
にもいい方向へ行くんですが、ただその人が
固有に自分で消さないといけないものは、
やはり皆、それぞれに持っているわけで、
その分だけはなんか苦労がまだあるなぁー
という感じなんですね。
 
 しかし、神様は平等だから、絶対に
皆んなを幸せにするんです。だからそこに
信を置けば、どんなものが来ようと、たとえ
自分が八つ裂きにされようと、そこで
「ありがとうございます。」と言って
死ねるんですが、そういうわけにはゆかない
のが人間ですね。何でこんなものが自分の
ところへ来るんだろうと、御神水も飲んでるし、
富士にも行ってるし、いっぱい愛行やっている
のに、色んな活動もやっているのに何故なんだ
と。これは、御利益信仰になってきたら、
うちの信仰はだめだ。