わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

さやけき生命(続き 1)

2011-09-20 13:27:08 | 癒し
  (前日から続く)

 ところが皆さんは、祈ってゆくんだけれど、
生活というものがあって、経済という
ものがあり雑事があって、又、肉体を持って
いるから、食べたり飲んだりしゃべったり
しなくちゃならなくて、雑事を片付けてる
ひまに、祈りというのがどこかへ行って
しまう。本体は祈ってるんですが、肉体の
方は雑事を優先してしまう。本体は、肉体の
我々がどんなに雑事にまぎれていようが
何していようが、祈って祈って祈り抜いて
いるんです。見えていないけれども、ずっと
祈り抜いているわけですね。だからその
祈り抜いているいのちというものが、常に
神様と出会っているし、神様と話を
しているし、神様といろんなことを
語り合っている、呼び合っている。

 そうでないと人間は生きてゆけないん
ですね。我々のもとのもとは、神様の愛
によって生かされているわけで、その
清(さや)けきいのちというのは、自分の
中にあるんです。自分の中というのは、
肉体の中という意味じゃなくて、自分の
本体、神様から分けられて来た光の中に
あるわけですね。

 そのことを知っている人は少なかったん
ですが、今はもうそんなことを言ってる場合
じゃなくて、いろんな人が印を降ろしたり、
光を降ろしたりして、実際に我々が神様の
もとにある生命なんだとわかってきた。
 我々のいのちの親というものが神様
であって、その神様の大宇宙神の目指して
おられるところは大調和であり大愛であって、
我々は大愛の子なんですよね。大愛の子
というのは敵も味方もない。大愛の子の
みんなが、世界人類が手を取り合った時には、
真実の平和が築かれて行かないとうそになる。
 そこで争いなんか起こって来たらこれはもう
うそになるんですね。

 それでも起こって来ることがある。つまり
それは、平和の祈りが足りないからだと。
 足りないというのは、平和の祈りそのものは
輝いているし足りているんですよ。ところが、
そこに想いを向ける自分が足りない。肉体が
悪いわけではないけれども、何が足りないのか
というと、自分が肉体だけの生命ではない、
自分は神様の愛によって生かされていて、神様
から来たものであって、その神様というのは、
我々の大きな器を与え光を満たして下さって
いる。そういう時間が非常に少ない。だから
足りなくなって来る。

 こんなんでいいのかと思う。こんなんで
やっていけんのかと思う。月給が入って来ない
いろいろとどうしようかなと思う。これ全部
消えてゆく姿ですよね。たとえお金が無くても、
光が入っていることに気が付けば、お金なんて
ものはあとからついて来るんだけど、人間
というのは、やっぱり生活してゆかなくちゃ
いけないから、お金が無かったらやって
いけるのかと思うことが先にあって、光が
入っていることには気が付かない。光を
糧(かて)にしてゆくとお金が逆に入って来る。
 生かされているということを自分のサイフの
中に入れると、実際にこの肉体を養ってゆく
もとであるお金が入って来る。逆なのね。
 皆んなお金を求めて光を後にしてしまう。

             (翌日へ続く)

さやけき生命

2011-09-19 13:14:28 | 癒し
 さやけき生命というのは、何ものにも
こだわりのないいのち。こだわるも
こだわらないも、光っている生命。それは
どこから来るかというと、神様から来る。
 それを我々はいただいている。その
頂いているものがと切れない為には、
祈りの生活をしてゆかなくてはいけない。
 いけないというよりも、祈って
ゆかないと生きてゆけないように我々の
身体というものはなってるわけです。
 だから、祈ってゆく時に、我々は息を
する事が出来るし、魂も呼吸することが
出来る。霊も輝く事が出来る。世界平和の
祈りというのは、我々の肉体にも霊体にも
神体にも、すべての世界、三界にいる我々
自身に対して光を与えてゆくことが出来る。

 そういうことを言っている訳ですね。
 清(さや)けき生命というものは、
神より来ると言いましたけれども、神様と
我々は、昔は目に見えるかたちで耳に聞こ
えるかたちで、感じるかたちで、手に
触れるかたちで、縦にも横にもつながって
いたのですが、この世というものが出来て、
それで我々が地上に降りて来た時に、肉体
という衣をまとった時に、だんだんと
その粗い波動の中に入って行って、
そのことによって我々は、神というものを、
なんかひとつスリガラスを隔てたような、
そういうかたちで見るように
なってしまった。

 最初そんな遠いものではなかったのが、
だんだんと神様が雲上人になって、神様
なんて居るのかしらと。人間世界の科学
技術が発展し、哲学もすすみ、肉体を
まとった自分が自分だと思ってしまった。
 そこから神と自分は容易につながらなく
なった。

 19世紀の末なんか、世紀末というような
思想が起こって来て、神は死んだなんていう
ことになって来たんですが、皆んなが
それぞれに、今また神様を求めることを、
ブームみたいになっていますけれども、
自分がどこから来たのか、どうなるのか、
こんなに今不安になっている時代は
ありません。なぜ不安になっているか
というと、神様のことを皆んな聞いたり
求めたりするけれども、自分が神様に守ら
れているということを実感出来ることが、
とても少なくなっている。だから不安に
なるわけです。

 神様の守りを実感するにはどうすれば
いいかといいますと、これはもう祈ること
です。それしかないんですね。祈って祈って
祈り抜いてゆくと、光しか残らなくなる。
 これは真実なんです。
            (翌日に続く)

短 信(三十)

2011-09-18 09:13:59 | 癒し
 祈りの生活のなかでどういうことに
気をつければよいかという、御手紙の
御趣旨かとおもいます。
 祈りというものは、私達を自由に
するものであります。本来、肉体ではなく、
光そのものである人間の自由自在身である
ことをしらせてくれるもの、それが祈り
であります。つまりは、すべての
とらわれから離れ、また放たれる
のであります。
 祈っている私達は、実は祈らせて
いただいているのであります。
 神様が、守護霊守護神が、私達が
眠っている間にも、一瞬もやすむことなく
守りつづけて下さっているように、
私どもの本心本体は、ずっとずっと
祈っている。祈らずにはいられない。
 祈りを生命としているもの、それが、
人間であります。私ども一人一人
なのであります。
 ところで、先程申しましたように、
祈りは、私どもを自在身にいたらせる
すこやかな光そのものでありますので、
祈って参りますうちに、祈っている
ことをも意識しない、朗らかな自分自身に
出合うことになるのであります。
 朝の九時と午後の三時、それに夜の九時が
お祈りの時間だからと申しましても、日常の
なかで、どうしても出かけなければならない
とか、人がたずねてきて、統一のテープが
かけられなかったとか、さまざまなことが
起きるのが当然でありまして、そうした時に、
祈りの時間が守れなかったと思ってイライラ
したり、クヨクヨしたりするのは間違い
なのであります。
 実際、あなたが祈れない時には、守護霊
守護神が祈っているのでありますし、
守護霊守護神が辛い時には、これまで
申して参りましたように、私が祈っている
のであります。
 現実生活というものを、馬鹿にしては
なりません。大切なその場にその人が
いなければみんなが困るという場を
放たらかしにして、統一会に
かけつけるなどは、本末転倒であります。
 こういうかたよった、人の立場、また
自分の立場をかえりみないやり方で、
祈りに没入し、宗教に没入することは、
断じて間違っているのであります。人を
犠牲にした上での祈りは、光を放つ筈が
ありません。
 祈りは、神のみこころであります。人間を
愛し、人類の進化と、宇宙の大調和とを
実現させるという深い神のみこころが、
世界平和の祈りのなかにはこめられて
おります。否、このみこころそのもの
なのであります。
 どうぞ、寛やかな、ゆたかな心で、祈りを
なさって下さいますように、神の愛、神の
こころは、森羅万象のなかにみちみちている
のであります。
 素直に、のびやかに広く広く、いのちを
生きて下さいますように。
               合 掌
                 昌 久

短 信(二十九)

2011-09-17 09:09:46 | 癒し
 〇祈ること
 〇自分を愛し人を愛すること
 〇謙虚であること
 この三つがつねに出来れば、その人は、
光のなかにいます。
 人は、光の世界の住者でありますが、
ますますその光がつよまって参る
ことでしょう。
 このなかで、謙虚であることというのが、
一番むずかしいのでありますが、とにかく、
人間のいのちもすべて、何一つ自分の
ものはないとおもえば、自分は今、
神様から、いのちを預けていただいて
いるのだという気になって参ります。
 人は無一物なのです。そこに、神様の
愛が、光が、いっぱいに入り込んでいる
のであります。
 肉のいのちを養うことは大事であります。
人の心も大事でありますが、それ以上に、
私どもは無一物で、この世に生をうけ、
光を受けて、生かしていただいているのだ
という感謝に生きることが、何より大事な
ことなのであります。
 この尊い事実に支えられて私どもは
ここに生きているのだということを、
心につよく刻んで、ともに、世界平和の
祈りをなしつづけて、参りましょう。

               合 掌
                昌 久

短 信(二十八)

2011-09-16 08:12:02 | 癒し
 御手紙拝見致しました。祈りの同志にとって、
祈りの他に、大切なことがあれば教えて欲しい
という内容の御手紙かと思います。
 世界平和の祈りをする、その次に大事な
ことは、聴くということであります。
 祈りと、聴くことは、実は一体でありまして、
どちらが第一、第二と、順番をつけられるもの
ではありません。
 聴くということは、どういうことか
というと、まごころを込めて相手のなかに
入る、その気持ち、その心、そして、
その人を生かしめている本心の光と一体
となるということであります。単に、相手の
話している言葉を聞くのではありません。
 たとえば、私が「あ」といえば、みなさん、
五井先生が「あ」といったということは
わかります。けれども、私がどういう気持ちで、
あるいは、どういう言葉を次につなげて、
何を話そうとしているかを知ろうとおもえば、
自然、心を集中して、私の出した言葉の
ひびきをききとろうとなさるでしょう。
 聴くということは、この言葉のひびきを
感じとることなのであります。
 出された言葉の奥にある、その人自身の心の
ひびきをたずねることなのであります。
 そうして、その心のひびきと、きき手である
あなた自身の心のひびきとが、同化し、一体
となる、つまりは、あなたのいのちと、
その人のいのちとが抱き合うということに
他ならないのであります。
 すべての祈り、ことに、私どもの世界平和の
祈りは、神様が、私ども一人一人の祈りを
とおして、個々のひびきを感じ取って下さり、
無限の愛の光を流し込んで下さる……
そしてまた、光のシャワーを神様の愛によって
そそがれた私達が、私達自身のなかにみちている
神様の光を放射して、いわば、光と光が
交流し合う、愛と愛、やさしさとやさしさとが
交流し合うのが、世界平和の祈りであり、
統一であるのであります。
 いいかえますと、この祈りをとおして、
神様は、つねに私どもの声を心を聴いて
下さっているということが、ここでいえます。
私どもは、つねに、神様の愛に抱かれ、
心に抱かれ、聴いていただける幸せのなかに
生きているのであります。
 そこで、私どももまた、心を込めて、聴く
ということが大事なのであります。相手の表情、
表面的な言葉にとらわれず、相手をそのままに
抱くということが大切になって参ります。
 祈りというものは、自己をそのままに
投げ出し、光となって、神の心を聴くという
ことであります。この祈りによって、
聴くことのよろこびを、十分に知らされている
私どもの心は、さらに寛やかになるために、
(相手を抱くために)やさしさと、素直さとを、
自分自身にたくわえてゆくことが是非とも必要
となってくるのであります。
 神は無限の愛だと申し上げました。その無限の
愛を成り立たせているものは、神のみこころの
朗らかさと私どもに対する無限のやさしさ
であります。
 新約聖書のなかに伝道者パウロのかきました
いくつかの手紙が入っておりますが、そのなかの
一つ「コリント人への第一の手紙」第十三章は、
一般に愛の章とよばれております。つづめて
申しますと、もし愛がなければ、どんな言葉も
行為も、無に等しいということを、彼はここで
述べているのであります。
 この愛とは、やさしさであり、朗らかさ
でありましょう。
 先程、私が述べました素直さへと、これは
まっすぐにつながってゆくものであります。
 いかに社会的な地位があり、また、富があり、
名声があったと致しましても、神を求める心に
おいて、謙虚さを失った時、その人の光は
にぶるのであります。
 そうして、神を求める心とは、教義に述べた
自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、
ということにほかならないのであります。
 神は特別な世界、存在ではない。神様を
はなれて、私どものいのちの活きづきは
ゆるされないのであります。この神様は、
かつて、一度も、私どもを離れられたことが
ないのであります。
 ですから、自分に人に、そうして神に素直
ということは、すなわち、人を容れる心、
聴く心と一つであるということがいえる
のであります。
 どうぞやさしい心、素直な心を持って、
自分自身をやわらげ、またつよくし、
そのやさしさと素直さをもって心から
色々の人の話を聴いて下さいますように。
 神様はどこまでもやさしい方でありますから、
あなたも、生き得るかぎりやさしく、言葉に
光をながすように、言葉を粗末に出さず、
言葉の奥にあるひびきをたずねて下さるように
と祈るものであります。
 どうぞ、どこまでもやさしくあって下さい。
 世界人類が平和でありますように

                合 掌
                  昌 久