8月6日から8月15日まで日本人にとって重苦しい日が続きましたね。
お盆も終わり、少し落ち着いてきた頃の昨日、30年前の1989年8月19日は歴史的な日だったのです。
この日、ハンガリー・オーストリア国境地帯のショプロンで汎ヨーロッパ・ピクニックが開かれました。ショプロンは地理的にハンガリーから突き出て、オーストリア領に食い込むようになっており、三方をオーストリアに囲まれていたためです。
集会の名目は「ヨーロッパの将来を考える集会」。会場ではブラスバンドの演奏があり、食べ物やビールが出され、お祭りみたいでした。見た目は単なる青空の下での祭典。
ところが、午後3時、国境の検問所の一部が壊され、そこへ東ドイツ市民を乗せたバスが到着し、バスを降りた人々はお祭りではなく一目散に国境へ向かいます。国境検問所のゲートは大きく開かれたそうです。
ハンガリーの国境検問所の国境管理官も協力していたようです。国境を越える人たちを無視し、入国してくるオーストリア人のパスポートを入念にチェックしていたそうです。オーストリア人旅行者たちは、その光景を見て大笑いしていたという話があります。
当時は社会主義を信じていなくても、社会主義者のふりをしなくては強制収容所に入れられたり命の危険がある時代です。ソビエト共産党の東側に組み入れられていたハンガリーという国もよくやったね!ハンガリーは民主化を目指していた。この年の5月2日には国境の鉄条網を取り払う行動に出ている。西ドイツのテレビでそのNewsが流れ、東ドイツの人たちがそれを見ていた。さらにこの計画が進むにつれハンガリーでは、東ドイツ観光客が集まる場所に汎ヨーロッパ・ピクニックの集会ポスターを貼りだす。ポスターのデザインは鉄条網の間にバラの花を配置していた。何を意味するか人々は直前まで知らなかったはずです。
民主化へ向けて国を越えてみんなが協力したから、命がけの帰ることのない大規模ピクニックが大成功した。この日、約1000人が国境を越えた。兵士たちは事前に集会の邪魔をするなと命じられていた。武器も持っていなかったという。
この3か月後にベルリンの壁が崩壊する。しかし、このピクニック後、東ドイツから脱出しようとする人々の混乱を招くが、ハンガリー政府=ネーメト・ミクローシュ首相(ハンガリー共産主義政権最後の首相となる。)は多くの困難を乗り越え、数々の勇気ある決断が国の壁を越えた多くの人々を救うことになる。
この頃、私は30歳過ぎ、仕事で初めて役職に就き忙しい日々を過ごしていました。ベルリンの壁崩壊の3か月前にこんなことが起きていたとは知りませんでした。1993年に放送されたNスペを当時見ていれば・・・。
今、自由なこの国に感謝しなければ。そして真剣に自由を守らねばと思う。
自由を守るには、人を思いやる心が必要だとも思う。
そして、安心して家に戻れるピクニックをしようと思う。
写真:丸岡ジョー氏