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わび・さび
侘びってどういうこと?と質問される度にどう説明すればいいのかしら。
と戸惑っていました。自分の中でも整理がついていませんでした。
そんな時、「英語で茶の湯を学ぶ」という講座を受講します。
日本文化の特徴のひとつ、アシンメトリー、非対称がテーマでした。
そして、「リアリティーは、不完全さの中にこそ存在する。」
というフレーズを見つけます。つまり自然?驚きでした。
そんなことも知らなかったのです。
自然は(東洋では、人も自然に入ります)非対称です。
だからお茶碗ゆがんでるの?まったく短絡的です。
でも俄然興味が湧いてきました。
わび、さびは、侘しい、詫びる、寂しいからきています。
「貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする意識」を言い、
動詞「わぶ」の名詞形である。と辞書にはあります。
わびは、簡素で無駄が無く、質素で清潔で落ち着いた趣のあること。
「わぶ」には、「気落ちする」「迷惑がる」「心細く思う」
「おちぶれた生活を送る」「閑寂を楽しむ」「困って嘆願する」
「あやまる」「・・・しあぐむ」といった意味があります。
本来、侘とは厭う(いとう)べき心身の状態を表すことばでしたが、
中世に近づくにつれて、いとうべき不十分なあり方に美が見出されるようになり、
不足の美を表現する新しい美意識へと変化していったのです。
室町時代後期には茶の湯と結び付いて、侘の理解は急速に発達し、
江戸時代の松尾芭蕉が侘の美を徹底したというのが従来の説です。
鈴木大拙老師は、外見や時流、地位や名誉を超えた最高の価値を持つものの
存在を感じること。
自然と親しみ、単純で簡素、生命の流れに添った生き方とも説いています。
侘び茶という意味では、それまでの唐風と区別するために、
日本風という意味も含まれているようです。
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わびの説明によく例に出されるのは、藤原定家の和歌です。
見わたせば花も紅葉もなかりけり
浦のとまやの秋の夕暮れ
桜も紅葉も何も無いといっていますが、実は桜も紅葉もちゃんとあるのです。
無意識の働きとして、桜・紅葉と言った途端に、私たちの心の中にはもうイメージが浮かび上がります。
現実には何も無くても私たちの心の中はすでに桜も紅葉も満開です。
何も無いといいながら、本当はもうすでに何でもあるということです。
無意識は、イメージを言語としています。
ですから、「〇〇はない。」と言われても、まず、〇〇を思い描いてしまいます。
それから、「ない。」つまり、思い描いたものを打ち消す、
否定しようとしまが、一旦思い描くと、もう否定できませんね。
またさびは、寂しい、孤独感や、錆びるに通じ、時間の観念がプラスされ、
時を経て風情を増した様子を言うようです。
さびを伝えるのに、利休は藤原家隆の歌を例に挙げています。
花をのみ待つらむ人に
山里の雪間の草の春を見せばや
雪の下にはもう春の草が芽吹いている。
続く命の輝きを歌っています。冷え枯れた中にも生命が存在するのです。
侘びとは、たとえ何も無い状態、不足や欠け、不完全という状態であっても、
だからこそ、ものごとの本質を捉えて、そこに気づくこと。
また、シンプルでミニマムであれば、その本質がよく伝わります。
本当に大切なこと、真実を生きよということではないかと思います。
物事の変わらない面を表しているように思います。
そしてさびは、錆びてゆく、時の流れとともに内面から出る美しさを
感じさせます。
たとえ孤独や侘しさを感じていても、今は見えなくても、
命の萌芽をその中に秘めている、変化してやまない現実、
流れが示唆されているように思います。
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本質・真実にも変わるところと変わらぬところがあります。
すべてのことは、時の流れと共に変化して止みません。
しかしながらその中にも変わらぬところがある。
ということではないかと思います。
いささか飛躍、拡大しすぎているかもしれませんが、
質素な美しさ、時を経た美しさからたどり着いたところです。
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