親友のYさんから私が来生を信じるかと聞かれました。
私は信じていると答えました。実際私は全く100%来生を信じているつもりです。科学的証拠は持っていませんが 私にとっての状況証拠からは疑いようがないと思っています。私が来生を信じるようになったのは 家内が事故で亡くなってからのことで 今では家内が自分の命と引き換えにこの知識を私にプレゼントしてくれたのだと思っています。
私たちがこの地球でしていることを納得できれば すなわちそれが 神(魂)が自分の住む天国では体験できない波動の低い出来事を主体に選んで ここで
体験していることだと知れば そしてそれらのすべて すなわち裏も表も体験しようとしていることを理解できれば 1回や2回の人生ではとてもやりつくすことが出来ないのは明白であることがすぐわかると思います。
なおご参考までに申しますと 私たちがこの地球で体験する出来事や思考にはそれに合致した波動のレベルというものがあります。表面的にどう見えても 真実を含む高い波動の出来事や思考には 波動の気高さや美しさが感じられるのです。私たちがたくさんの人生を体験するごとに次第に成長して行くと 私たちが体験する思考や出来事自体の波動もそれに合わせて高いものを多く経験するようになって行き 体験する人生自体が次第に味わい深いものになっていくのです。
逆に言えば 今自分が体験しているものごとはどんなことが多いかを見れば 自分の成長度がわかるのです。嫌なら変えなさい 成長しなさいといわれるとおりです。この世は成長を促すように創られているのです。
これだけでも 神(魂)にとって波動の低いことは 自分の実家では体験できないということがお分かりいただけると思います。そうして何度も何度もこの物質世界にすなわち 不完全な世界にやってきて不完全なことを実体験して 完全なことがどれだけありがたいことなのかを実感しているのです。すなわち自分を知ることをしているのです。
また 別の話をしますと 私の家内は27年前の事故が起こる日の朝 私と何気ない会話をしているとき 次の人生では私はやっぱり女をするつもりだけど あんたはどっちをするかと聞いてきました。不思議ですが私は別段その質問にびっくりすることもなく そーだなーやっぱり男にするわと答えたのです。それからさらに 人生はこれで終わりと思っていたらそうではなく 次のがある という話になったのでした。
家内が亡くなって後 どう考えてもあのときは 二人とも人間とは違う意識になっていたんだなー と思ったことでした。まるですぐ後に起こることを二人ともすでに知っているかのようだった・・・と。実際そうでした。
お蔭で次の人生も家内と夫婦で行うと決まったのだと思って今はそれを楽しみにしています。
来生があることを知って得することは 死ぬことがほとんど怖くなくなったことです。つまり何もない無というものに帰るとかいうのでなく より自分が進化した次の来生に進むだけだと知ったからです。自分が地球に居ても あるいは非物質世界つまり霊的世界に居ても 常に自分というものを知る体験を続けるわけですが その過程で大宇宙の変化と常に調和しながら存在することを楽しんでいられる それがわれわれの本当の姿だと思っています。私たちは思考を持つ生き物であり 本来の波動は天文学的に高く それでもなお進化を続けている そんな存在のようです。
しかも自分にとってもっと探求したいと思う人生の課題や側面をじっくり体験することがいつでも出来ます。この地球に来て今は 自分がなにに焦点を当てて探求しているのか 今は意識が人間ですから必ずしもよくわかっていませんが いずれ向こうの世界に戻ってからほぼ神の意識に戻ってゆっくり振り返ることが出来ることも知っています。それがなければ一つの人生が完結したことにはならないのです。
もし例えば来生が無く人生が1回きりだとしたら 小児がんを患った多くの子供たちが短い一生を終えることをどう思いますか。
あるいは冤罪を着せられて一生を牢獄で過ごした人をどう思いますか。
これらは皆 神が設計した人生ストーリーに個別の魂が賛同して引き受けて行われるものです。これらも 人生のすべての側面を体験するという目的があるからこそしていることです。
自分のやってみたい人生を 好きな回数だけ歩める仕組みであるからこそ そんな辛い人生でも神であればやってみる気になる ってこともあるでしょう。
とてもじゃないけど それこそネガティブの極致のような筋書きの人生などは志願者がいなくなるんじゃないか・・・?と思ったりします。たとえ神でも。
たとえばヒトラーのような人生を私もやってみたいという人はどのくらいいるんでしょうかね。
私の理解する大宇宙の真実は 一人はみんなのために みんなは一人のために です。
どんな人生でも みんなのために誰かがやらねばという人生はあるでしょうし また たった一人でこれ以上酷い人生もないだろうと思われるような人生もあるのです。しかし 誰一人見捨てられたりはしないのです。
また 来生が信じられれば まったく別の感情を持って死んだ人を理会することが出来るでしょう。気の毒とか不幸とかはとんでもない 更に一段の進化と成長のために新しい体験の旅に出た人の船出ですから 祝福してあげるべきものだとわかるのです。 別離の悲しみは 事情が分からない残った人の方が当然強く 死んだ人は視野が既に大きくなっているので死んだことをいつまでも悲しむことはないのです。ただし 残してきた人に対し申し訳ないとは思っているのです。
来生を信じることは 人生についてより広い視野が得られることになりますから当然救われます。是非とも来生があるものと信じて生きてみてください。
必ず違いを感じると思います。
(続く)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます