ここは 大分県 宇目町(最近の市町村合併で 佐伯市)に古くから伝わる
”宇目の唄げんか”の由来を知る機会があった。
この立派な 斜張橋はまだ数年?ぐらいで新しい。早朝なので 山深いここらは雲海の雲に包まれ 空気は真夏にしては24度とひんやりとしていた。
この橋のたもとに今回取り上げた ”唄げんか”の石像が建立されている。以下
その石像の下に多分 石像の説明だろう木製の看板があるようだが 暫く風雨にさらされ目を凝らすも 判読できない
朽ち果てて 判読できなかった 木製説明看板
きっと 何かを語りかけているのだろうが このままでは由来が分からないのは
どうも 私の性分には引っかかる思いです。
そこで 宇目町役場に電話しこの石像の意味由来を尋ねたが 応対には若い職員であろうが どうも 要領得ない、また 資料も手元にないとか、そこで だれか
概略でも知っている人いないか 尋ねると 古老でこの町の郷土史家を紹介してくれた。以下 古老の話を元に おおまかな 由来を聞くことが出来た。
この話は遠く 江戸時代にさかのぼる。
この山深いこの地に その時代 国内でも有数の 錫、銀 を産出する”木浦鉱山”があった。
この鉱山を 藩が直轄管理し莫大な財政を支え潤していた、
そこで 働く採工夫(山師)には 高い禄を与え 妻子共々住まわせ 他所への移動を禁じ 日夜 採掘させたのでした。
その山師たちは 格段に生活はよく そこで 自分の子供の子守役を 近隣の貧しい家庭の子女を 子守役として 奉公させたのが始まりとされている
一方 小作人の貧農家は 口べらしと 米、味噌 物品を 奉公先から受け取り
生活の糧にするため 6歳を過ぎた頃から 次々に山師家庭に年季奉公にだしたのである。
いわゆる 映画 ドラマ で大反響をよんだ ”おしん”そのもがこの山深い
九州の地にも紛れもない 事実として 存在していたのである。
その年季奉公に出された 子供たちは 6歳ごろといえ 自分自身がまだまだ 親が恋しい年頃なのに 奉公先での辛い子守 家事など劣悪な環境に身を寄せ
同じ年季奉公にきた子女と背中に子を背負いながら 橋のたもと 河原に集まり
遊びながら 語り合い そして お互いの子守を 即興に掛け合いで 唄にして
ネタが尽きたほうが 負け のようにして 遊んだのであった。
それが 哀愁をおびた ”唄げんか”の始まりとされているようだ。
そして日々のつらさ せつなさを 村の父母 兄弟のことを思い いつ来るとも分からない お迎えの日々をただ 待って 待って 過ごしたのです。
このように 時代と 奉公先は時代の流れの栄枯盛衰をくりかえされ隆盛を極めた鉱山も 掘りつくされはしたが 奉公先は篤農家 大百姓 庄屋 商家などその時代をささえた家庭に送り込まれ 昭和の中頃まで 続いていたようだと 郷土史家の古老は静かに話してくれる
奉公先側、子女を年季奉公に出した貧しい家庭と、お互いのメリットとして よくも悪くも長く続いた 日本各地の歴史であったに違いない。
その時代の貧しい家庭の生きて行く すべが 口減らしと共に 食料 又は 借金の代償として 身売りされるなど諸般の事情に翻弄されて 引き換えとはいえ、幼子を年季奉公だす辛さ それを親の家庭の事情など理解できないまま 奉公先に向う 子女どんなに辛かったであろうか。この石像もまた 幼顔もよくできていて 涙を誘うのでした。勿論 勉学などの機会あるはずのないものでした。
一つの時代のと言ってしまえば 簡単だが、当時は日本全国でいくらでもあったであろう話である。
石像の前でいつまでも 立ち去り難い 自分の姿があった。
参考はこちら
唄げんか
”宇目の唄げんか”の由来を知る機会があった。
この立派な 斜張橋はまだ数年?ぐらいで新しい。早朝なので 山深いここらは雲海の雲に包まれ 空気は真夏にしては24度とひんやりとしていた。
この橋のたもとに今回取り上げた ”唄げんか”の石像が建立されている。以下
その石像の下に多分 石像の説明だろう木製の看板があるようだが 暫く風雨にさらされ目を凝らすも 判読できない
朽ち果てて 判読できなかった 木製説明看板
きっと 何かを語りかけているのだろうが このままでは由来が分からないのは
どうも 私の性分には引っかかる思いです。
そこで 宇目町役場に電話しこの石像の意味由来を尋ねたが 応対には若い職員であろうが どうも 要領得ない、また 資料も手元にないとか、そこで だれか
概略でも知っている人いないか 尋ねると 古老でこの町の郷土史家を紹介してくれた。以下 古老の話を元に おおまかな 由来を聞くことが出来た。
この話は遠く 江戸時代にさかのぼる。
この山深いこの地に その時代 国内でも有数の 錫、銀 を産出する”木浦鉱山”があった。
この鉱山を 藩が直轄管理し莫大な財政を支え潤していた、
そこで 働く採工夫(山師)には 高い禄を与え 妻子共々住まわせ 他所への移動を禁じ 日夜 採掘させたのでした。
その山師たちは 格段に生活はよく そこで 自分の子供の子守役を 近隣の貧しい家庭の子女を 子守役として 奉公させたのが始まりとされている
一方 小作人の貧農家は 口べらしと 米、味噌 物品を 奉公先から受け取り
生活の糧にするため 6歳を過ぎた頃から 次々に山師家庭に年季奉公にだしたのである。
いわゆる 映画 ドラマ で大反響をよんだ ”おしん”そのもがこの山深い
九州の地にも紛れもない 事実として 存在していたのである。
その年季奉公に出された 子供たちは 6歳ごろといえ 自分自身がまだまだ 親が恋しい年頃なのに 奉公先での辛い子守 家事など劣悪な環境に身を寄せ
同じ年季奉公にきた子女と背中に子を背負いながら 橋のたもと 河原に集まり
遊びながら 語り合い そして お互いの子守を 即興に掛け合いで 唄にして
ネタが尽きたほうが 負け のようにして 遊んだのであった。
それが 哀愁をおびた ”唄げんか”の始まりとされているようだ。
そして日々のつらさ せつなさを 村の父母 兄弟のことを思い いつ来るとも分からない お迎えの日々をただ 待って 待って 過ごしたのです。
このように 時代と 奉公先は時代の流れの栄枯盛衰をくりかえされ隆盛を極めた鉱山も 掘りつくされはしたが 奉公先は篤農家 大百姓 庄屋 商家などその時代をささえた家庭に送り込まれ 昭和の中頃まで 続いていたようだと 郷土史家の古老は静かに話してくれる
奉公先側、子女を年季奉公に出した貧しい家庭と、お互いのメリットとして よくも悪くも長く続いた 日本各地の歴史であったに違いない。
その時代の貧しい家庭の生きて行く すべが 口減らしと共に 食料 又は 借金の代償として 身売りされるなど諸般の事情に翻弄されて 引き換えとはいえ、幼子を年季奉公だす辛さ それを親の家庭の事情など理解できないまま 奉公先に向う 子女どんなに辛かったであろうか。この石像もまた 幼顔もよくできていて 涙を誘うのでした。勿論 勉学などの機会あるはずのないものでした。
一つの時代のと言ってしまえば 簡単だが、当時は日本全国でいくらでもあったであろう話である。
石像の前でいつまでも 立ち去り難い 自分の姿があった。
参考はこちら
唄げんか
唄げんか大橋って、その切ない歴史とは裏腹に
立派な橋ですよね。。
昔は子供も働かされていましたよね。
今の子は幸せなんだよーとすずに言っても
全然実感ないんだろうなあ。。
甘えん坊で「えーーひとりでやるの~?」とか
そんなこと言ってばかりで、私に渇を入れられています。
年端もいかない子供を奉公にだす親の心境はどうだったのかと いろいろ 考えさせられますね。
自分の子供可愛いのは古今東西同じだもんね。
いつも素敵な写真をありがとう。
山帽子さん、いつもいろんなとこに行ってるみたいだけど、毎年何箇所くらい旅行(山登り?)に行ってるんだろうか?
いろいろ興味が尽きません。
此方こそ いつも 我が故郷 桜島 見せて貰って有りがたいです。桜島みるとなぜか ホッとします。
<旅行(山登り?)に行ってるんだろうか?>
いえいえ 私なんぞ そこら近場をデジカメかかえてうろうろですよ、
ただ こちらに 山の会に所属しているので山行計画は沢山あるのですが なかなか 行けなくて。
最近今まで見過ごしていたような 小さな歴史的なものには興味あってそれを知る機会 喜びがあります。
大崩山に行く途中に渡った事のある橋のようですね・・・
この新しい橋にそんな悲しい物語がひそんでいたのですね。
いい時代になりました、ただ こうした歴史てき背景があったことはそれなりに後世に伝わっていてほしいと思いますね
昔は、こういうお話がよくあったようですね。
こういう苦労の下積みが今日の日本を作り出してきたのですものね。
安穏に暮らしていてはいけないなあと思いますね。
今でも、みんながレジャーだ、山だ!!海だ!!ッて出かけている時に休みも無く仕事をしている人達もいてそんな人達に出会うと、何か罪悪感すら感じてしまいました。
この暑い中を道路のお仕事をされている人たちは、大変ですよね。少ない人数の中をやり繰りしてやっているので休めないと言っていました。
動物の死骸があれば、直ぐ処理にいくとのことで、みんなが気持ちよく国道を通れるようにしておくのが僕の仕事ですからと、真っ黒い顔をしながら30代の青年が額に汗しながら言っていたので、遊び帰りの私の胸にグサッときましたよ。
決して 表の華やかな仕事ばかりでは世の中成り立っていけませんよね、仰るとおり よほど裏方の仕事が重要です、自分もそう思います。
此処から出たルーツなのでしょうか?
私も、子供の頃あちこちの子供が背中にいました。
最近母に何で子守させたの?と聴くと助け合いだとのこと。
報酬もらったの? 何ももらっていないと
なぁ~んだたまにはイヤだといえば良かったと
お陰で背が伸びなかった??(≡^∇^≡)ニャハハ・
自分のすぐ上の姉も 子供のころ 子守ばかりさせられて 背が伸びなかったと 文句言っていたよ(笑)
同じようだね。
でもそれが当たり前のような時代だったよね。
<唄げんか>
こんな史実も わすれてはいけないような気がします。