今月も行って来ました!前日の雪が残りまくり、中央線もまだ復旧しない四ツ谷へ!
わすれないうちに記録しておきます(^^;)
今月のテーマは「聖霊降臨」。
使徒言行録では何度か聖霊が注ぐ場面がありますが、2章はその中でも「最初の聖霊降臨」としてとても重要な位置づけをされているそうです。
聖霊の注ぎというものはキリスト者のアイデンティティ……であるにもかかわらず、なんだかよくわからない。
だって洗礼のときに聖霊が注いでるはずなのに、堅信のときにもまた注ぐ。司祭叙階のときもまた注ぐ。聖霊の注ぎって一度じゃたりないものなのか?
そんなかんじで、なんだかよくわからないながらも(神父サマもわかんないとおっしゃってました(笑))なんとなく受け止めている聖霊降臨(^^;)
最初の聖霊降臨は、ものすごい轟音とともに、「炎のような舌」の形で、一人一人のうえにあらわれた。
ワタシのようなものには想像もつかないんですが、とりあえず思い出すのはエルグレコのあれですよね。
火の玉みたいなものが十二使徒とマリアさまの頭上にゆらゆらしてる。
この場面の「轟音」と「炎」というのは、旧約の契約締結の場面が反映されているそうです。
契約・律法にかわるもっと大切なものが降りてきたということを表現しているんだとか。
旧約の下地のない我々日本人にはそういうのを推測するのはいろいろと難しいです(^^;)
ここで使われている日本語訳の「舌」という言葉、ギリシャ語では「glossa」といいまして、「舌」のほかに「言語」、「言葉」という意味もあるんだそうで、原語で読むと聴覚と視覚にまたがる奥深い表現になるそうです。
このあたりが日本語訳の限界か・・・・・・・
原語を意識して読んでみると、次の場面とつながってきます。
使徒言行録によると、聖霊がおりてきた使徒たちはあらゆる国のことばでみことばを語りだすんです。
これちょっと読んだだけだと日本人的にはフシギでしかない場面なんですけど、聞いてた人たちも「どうして自分たちの生まれ故郷の言葉をあの人たちから聞くんだろう」と、さんざんいぶかしがる。
けれども、それがまったく聞き取れない人たちもいて、そういう人たちは「あいつらちょっとおかしいよ」みたいなかんじで通りすぎてゆく。
みことばを、受け取れる人と受け取れない人がいるということ。
受け取る者の心の開きようによって聞こえかたが違ってくるということなんですかね、みことばは!!
聖霊は、耳をふさぐことができないほどの、誰もが聴かざるを得ないほどの轟音とともに降りてきます。
一人ひとりのうえに、と同時にすべての人に。
でも、いっぺんにドカーンとくるのではない。
同時にくるのだけれども、一人ひとりのために、一人ひとりにあわせて降りてくる。
この微妙に繊細なニュアンスがひじょうに大切で、
そのおかげで、各々が各々の性格や特徴を保ちながらもその力を強められ、しかもひとつになってゆくということ。
ああああ~~~~ややこしい(^^;)
ややこしいけれど、以降聖霊がくだるのは「みことば」が広がってゆく時であり、そのたびにパウロやそれぞれが、それぞれの持つ力をそれぞれの方向で強めていってるのはなんとなく感じますよね。
それを思うと、洗礼や堅信や人生のそれぞれの岐路というべきタイミングでいちいち聖霊が注ぐのも納得(ちょっとだけ)。
我々が信徒として新しい働きに出ていくときに、聖霊に強めてもらうってかんじですかね。
そんなわけで、わかったようなわかんないような、やっぱりむずかしい聖霊降臨でした(^^;)
うーん、なんか支離滅裂。もうちょっと頭の整理が必要です!!