つれづれなるままに落書き

オタクの毎日は実に刺激的で彩りゆたかなのであります。せっかくなので、おもしろかったこととか記録しとこうかな…とか。

コンビニでビールを買うとき

2013-09-20 21:49:45 | オーケストラ
オケの練習の帰り(夜9時頃)、文庫の駅前のコンビニでビールを買うんだけど、
毎回かならず「このままでいいですか?」っていわれる。
で、「や、袋いれてください。」
毎回かならずこのやりとり。

友達(女子)にきくと、みんな「そんなこといわれたことない。ふつうに袋にいれてくれる。」という。

へんなのー。

……とは思っていたが、きょうリハのかえりにビール買ったらやっぱり「このままでいですか?」(むしろ「いいですよね?」的ないきおい。)ていわれて、
疲れてたからまあいいやと思って「いいです」って言って外に出たら、
おっさんがコンビニの前でたった今買ったビール開けてるのを目撃した……

ああ、そうか!!
あたし、今すぐ飲むと思われてたんだ!!
納得!!

てゆうか、いちおう「おっさん」ではないんですけど?!
出先なので、それなりにおしゃれもしてるんですけど?!
なんでやねん!!!!

・・・・・と思ったけど、
練習帰りにビールを買うときの自分を客観的に思い出してみると、

●コンビニ入る。
●ビールケースに直行。
●まよわず金麦を手に取る。
●レジ直行。

・・・・・・・この間、わずか5秒(^^;)

そりゃ今すぐ飲むと思われるわwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww!!!

めっちゃ納得wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww!!!

・・・・・・・ですが、ざんねんながらワタシ缶からビール飲まないんですよ。
グラス冷凍庫で冷やさないとね。
コンビニの前で「ぷはー」とかやりませんからぜったいにッッ。

以上!!

「弟子の条件」・・・・2013・9・8 神父サマのお話

2013-09-12 06:44:04 | 教会
今週の福音はルカの14章、エルサレムへ向かう途中です。

イエスが死に向かっていることを知らず、ミーハーについて来たがる群衆に向かって、
ちょいと厳しいことをおっしゃいます。

「父、母、子ども、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」
ここでの「憎む」っていうのは、「家族よりもキリストの教えを優先する」ということのようです。
この時代、別の宗教を選ぶのはある意味命がけですから、家族との縁を断ち切ってまで!というくらいの決意がないとくじけてしまう。

「自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」
この「十字架」は、キリストの教えを実行することにより産まれる障害のことだそうです。
神父サマのリアルなお言葉→
「これ、よく勘違いする人いるんですけどね、勝手に自分の十字架はこれだ!って決めちゃいけないんですよ。
 そういう人よくいるんですよ。そんなの背負ったって自分の都合だからね。
 そうじゃなくて、まずキリストの教えを生活で実行する!
 そうすると、必ずどこかで自分を犠牲にしなければならない瞬間がある。
 そのとき、わたしたちは自分の意思を殺すことによって、ちいさな「死」を体験するんです。
 そして神のいのちにあずかる小さな「復活」体験する。
 それが「十字架と復活」、キリスト者の心構えです。」

「へぇ~~~」ボタンですよねー(笑)
そうかー十字架じぶんで決めちゃいけないんだー。知らなかった。(そんな程度ですいません神父サマ。。。。)
ワタシは、なにかすごくツライことがあるときに、「これがワタシの十字架だ!」と思って耐えるとか、そういう意味かなーと思っていました。
どれが十字架か勝手にきめちゃいけないんですね。とほほ。(^^;)

でも、ワタシだったら、「これが十字架か?!」と思うほどキツイめにあうときって、落ち込んで嘆くばかりでなく、どうしたら抜けだせるだろうって迷ったり考えたりすると思うんですよ。
そういう、何かひとつの壁にぶつかって判断が必要になったとき、「キリスト者としてはどういう方向を選ぶか?」というのを判断材料にしたらいいんですかね?
そうしたら、そのとき選んだ答えを実行することは、そのまま「十字架を背負う」ことにはなりませんか?
なるよね?!
なる気がする!!

どうですか神父サマ?!
・・・・・って、すごく聞いてみたいんだけれど、うちの神父さまやたらそういうのめんどくさがるから(^^;)
聞けないなぁ~~~~~~~(笑)
誰かおしえてください~~~~!!!


 

「じぶんをささげる。」・・・・・2013.9.1※きょうは来住神父さまのお話し

2013-09-01 15:54:15 | 教会
きょうはおミサ後に研修会があるため、
研修会でお話してくださる来住神父さまの司式でした。
うちの神父サマの毒舌が聞けずちょいと寂しくもありますが(^^;)
オケの運営で毎日迷いのド真ん中にいる私の胸に直球で飛び込んでくる、リアルに考えさせられるお話でした!!

きょうの福音は、盛大な宴会のたとえ話。
招かれたときはすすんで下座にすわりなさい。そのほうが後で面目を保つから。
招くときは敢えて金のない者を招きなさい。そういう者たちはあなたにお返しをしないから。
神の国に入れる人は、みかえりを期待せず自分をささげつくせる人なんだそうです。

ミサの中の奉献文・・・
「わたしたちはいま、主イエズスの死と復活の記念を行い、ここであなたに奉仕できることを感謝し、
いのちのパンと救いの杯をささげます。」

だいじなのは、この部分。
「わたしたちは、いま、ここであなたに、ささげます。」
なにを?
自分自身を!!
自分のすべてを、神にご自由にお使いいただくように、プレゼントする。
そのとき、見返りをもとめてはいけません。(・・・えええ~~~~~っっ・・・・。(ToT))
奉仕は「おくりもの」であり、「おかえし」するかどうかは受け取る側の自由。
ある意味、踏みにじられて当然なのです。
踏みにじられることを大前提に、しなければいけない。

「人はねぇ。そんなに感謝してくれるもんじゃーないですヨ。」って、ちょっとウケました(^^;)
そうなんだよねぇ。
私がこんなにたいへんな思いをしていることを知ってか知らずか、ヤツらは勝手なことばかり言う(笑)
見返りを期待していたらやってらんないよ。あるはずないんだから。みんな、私がやって当然と思ってるんだから。
だから最初から『思い切る』。
これは、そういう割りにあわない仕事なんです。わかってます。でもやります。やりますよ。神様、私をおつかいください。(涙。)

で、タイセツなのは、「今、自分はここで、何をすべきか」を判断することなんだそうです。
やるべきか、やらざるべきか、その判断がむずかしい。
その迷いを、どうぞおミサに持ち込んでください。
自分がどうすることが、「神に自分を捧げる」ことになるのか。ミサで、神サマの前でご検討ください。(笑)

そうだねぇ・・・・
何かが見えてくるかもしれないねぇ・・・・
私は普段、自分の失敗とか過ちはかなり持ち込んでミサの最中反省会してますが、
こんどはそういう「迷い」も持ち込んでみようかな。
違う視点で考えられそうなきがするよ。

『思い切る』って、なんかちょっといい言葉だなぁ・・・(^^)