下の子が小学校を卒業しました。
最後の作文がこれ(笑)おもしろかったので載せときます(笑)
「キリシタン大名 高山右近」
先日、2月7日、キリシタン大名ユスト高山右近の列福式が大阪で行われ、信者である僕とお母さんは参列してきました。
右近は名高いキリシタン大名で、信仰が厚く、キリスト教の布教に力を入れた、「日本のキリシタンの鏡」とも言われたすごい人です。
また、武将としての力量や人望もとても大きく、それを恐れた徳川家康が彼をフィリピンのマニラに追放したほどです。
僕はそんな右近の二つの点にとても心をひかれました。
一つは決断力です。右近はもともと織田信長の家臣で、大阪の高槻城の城主でしたが、右近が26才の時に上司である荒木村重が謀反を企てます。右近は妹や息子を人質に出してまでやめるよう説得しますが、ききいれられませんでした。この謀反が信長に知れ、信長は村重のもとへ兵を進めます。このとき、信長は村重の城のほかにもうひとつ押さえたい城がありました。それが右近の高槻城です。実は高槻城、当時の交通の要所にあったのです。その上右近は築城の名手でもあったので、守りが堅く攻めづらい城に作っています。そこで信長は右近に「降伏しないのならキリシタンを禁じ、神父や信者たちを十字架につける」と通告しました。
右近は悩みます。村重につけば自分の出した人質は助かりますが何万人もの信者が殺されてしまいます。信長につけば人々の命は救えますが、人質の命が危ぶまれるのです。絶体絶命の右近が選んだ道は、どちらにもつかず自分が大名をやめることでした。
この決断によって人質も信者も殺されず、右近は信長にかえって気に入られ、高槻の城主としていままでの2倍の石高を与えられました。
すべてを投げ打って最良の方法を選んだことはすごいとおもいます。
二つ目は人望です。右近はその素直でいつも神に忠実な性格で、多くの人に好かれ、キリシタンの仲間を増やしていきました。
1587年、右近のもとに次々と大名たちが集まってゆくのを恐れた秀吉は禁教令を出し、六万石の領地を取り上げて右近を追放します。そんな状況にあっても右近の友人が減ることはなく、家臣からは一緒に行かせてくれと泣きつかれ、友人たちは危険を犯して右近をかくまいました。
その後右近は前田利家に招かれて金沢で暮らすことになります。右近は前田利家のために尽くし、利家はこの世を去る時に「右近はほかに心を移すことなく自分に尽くしてくれた律儀な人である。これからも大切にするように」と息子に言い残しました。
争いや裏切りが横行する世の中で、右近は信用できる人物でした。一緒にいると安心できるので、いろんな人が彼のもとに集まってくるのでしょう。これが、右近の人望の理由だと思います。
もしぼくが地位も名誉も剥奪されて追放の身にあったら、だれか寄り添ってくれる友人があるでしょうか。ぼくのために泣いてくれるでしょうか。危険を犯してまで手を差し伸べてくれるでしょうか。ぼくは右近のようにすばらしい人望を築けるでしょうか。
難しいことだけれど、ぼくも右近を見習って生きていくよう、心がけたいです。