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井上井月 句碑😐😐😐俳諧井月終焉の地  井月の墓 美篶笠原

2020-10-05 22:00:00 | 文学 美術 音楽
「柳の家井月」「北越漁人」などとも号した「井上井月(いのうえ せいげつ)」は、1822(文政5)年「越後長岡藩」で生まれ、1858(安政5)年に忽然と「伊那谷」に姿を現して以来、同地で放浪の生活を続け、酒を好み漂泊を主題に俳句を詠んだ俳人だ。趣味人の男性たちの中には師事する者もいたが、女性や子どもたちはその風体から「乞食井月」と忌み嫌ったという
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「石川淳(いしかわ じゅん)」(1899/明治32年~1987/昭和62年)は、その著作「諸国畸人伝」(1957/昭和32年「筑摩書房」)に「われわれの井月は、そのさすらひのすがたを伊那谷にあらはしたとき、はじめてこの世にうまれたとおもつておけばよい。」と書き、また「このトボトボのグツグツは、昼でも行きあたりに伏し、夜は野宿もする。シラミはたかり、ヒゼンは病む。酒は好んだが、すぐ泥酔して、寝小便さへする。どこに行つても鼻つまみの、きらはれものであつた。」と書く。
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1884(明治17)年、井月の健康不安を心配する弟子「塩原折治(梅関)」の配慮により、「上伊那郡美篶村末広太田窪」(現在の「長野県伊那市」)の「塩原家」厄介人として付籍し、「塩原清助」を名乗った井月だが、1886(明治19)年12月に路傍で行き倒れているところを発見され、塩原家で看病を受けるも、1887(明治20)年2月16日に66歳で没したという。
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近世の俳諧沈滞期「月並俳句の時代」にあって、芭蕉の再評価を目指した井月だが、影響を受けた後の文人に、「芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)」(1892/明治25年~1927/昭和2年)「種田山頭火(たねだ さんとうか)」(1882/明治15年~1940/昭和15年)「つげ義春(つげ よしはる)」(1937/昭和12年~ )などがあげられるという。
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書も堪能で、富県村(現在の「伊那市」)「日枝神社」などの寺社奉納額の揮毫が麗筆として現在に残る。
 ❖ 「俳諧井月終焉の地」の句碑  「落栗の座を定めるや窪溜り 柳の家井月」(おちぐりのざをさだめるやくぼたまり)は、塩原家への付籍とあわせて、漂白から伊那の地に骨を埋める覚悟をきめた心境がこの句にあると解されているが、「その風雅と遺徳を偲び」1987(昭和62)年5月「伊那市美篶末広太田窪」路傍に句碑を建立したという。その後の道路拡張によって2010(平成22)年12月に現在地に移設されているが、並んでともに西方を望む山頭火の句碑も、同じ経緯で移設されている。
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その酒と旅を愛した山頭火は、1940(昭和15)年10月11日、愛媛県松山市で脳溢血のため享年58で帰らぬ人となったが、前年1939(昭和14)年5月3日に、傾倒した井月の墓参を目的に伊那を訪れて、井月墓前に句を捧げている。
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句碑「井月の墓前にて 山頭火  お墓したしくお酒をそゝぐ  お墓撫でさすりつゝ、はるばるまゐりました  駒ヶ根をまへにいつもひとりでしたね  供へるものとては、野の木瓜の二枝三枝」は、山頭火自筆の「風来居日記」から抄出して、1998(平成10)年5月に建立したという。
 ❖ 井上井月の墓  中央アルプスと南アルプスを一望する「伊那市美篶末広」の塩原家墓地の杉の根元には、小さな丸い墓石が孤なる風情を放って虚空に向かう。刻まれたという句「降るとまで人には見せて花曇り」(ふるとまでひとにはみせてはなぐもり)は、建てられた1891(明治24)年以来(他説も)の風雪を経て、今は確認することが出来ない。

 ❖ 「美篶笠原」の句碑  「伊那市美篶」の県道207号美篶箕輪線「笠原交差点」近傍には、2008(平成20)年5月に建立されという井月の句碑「出来揃ふ田畑の色や秋の月 井月」(できそろふたはたのいろやあきのつき)と、山頭火が井月の墓参時に伊那で詠んだとされる「なるほど信濃の月が出てゐる 山頭火」(なるほどしなののつきがでている)の句碑が、旅の道連れのごとく西方を望んで並ぶ。