乳がん☆乳ガン☆乳癌☆日記

●05年5月乳癌左乳房全摘腋郭清手術●13年6月再発 失くしたモノより今を見つめ前に歩くナリ♪  再発しちゃいましたぁ~

不明出血

2008年04月11日 19時04分20秒 | 母の心不全
数日前、ふとランドリーボックスの茶色のシミが目に入りました。それは母の下着で、みるからに血の痕跡です。察するに相当量の下血なり血尿のあとです。驚きましたが、落ち着いて何気なく母に訊いてみたら、知らない間に出ていたそうで、本人も驚いたとの事。主治医の診療に合わせて今日、病院に行きました。一通りの検査をし、ワーファリンの量を0.25だけ少なくしました。まれに有ることなので少し様子を診ることにしました。ワーファリンは出血しやすく止まりにくいので、普段の生活に注意が必要です。例えば、ぶつかるとか、圧迫とか。とりあえず一安心ですのでホッとしました。母も少し安心したみたい。(心では相当不安だったのだと想います)次回は5月16日(金)に血液検査。母の心拍数は50におさめています。上がっても70です。心臓の負担を極力抑えた薬を服用しているので無理は出来ません。心臓の筋肉(壁)が少しずつ厚みを増しています。心水も在る程度常にあります。先生が明るく母に話しかけるから母の顔色は帰り道には全然違います。先生への信頼と自分も歳だからここまで生きてるから良いわ♪が母を支えているみたい。感謝です。
この理由で癌友とのランチ(花見)を急遽中止にしていただきました。

循環器科

2007年09月14日 16時56分34秒 | 母の心不全
◆・・・・・・・循環器科(心臓)金曜日 ◎今日は、母の検査・診察日です。心筋の壁(筋肉の肥大)が安定してきました。 母の心拍数は40台です。薬でここまで心拍数を落としているために、普通の生活は出来ても 早足や、長期間の徒歩は無理です。
生きているから大丈夫と母はよく言葉にします。
ここまで生きられて幸せだと言います。
生きたくとも、生きられない方達がいる中で、『 生 』は、キセキの連続です。ひとの心はすばらしく、人が亡くなっても、その人の事を誰かが想い、忘れない限り、生きています。
『 生 』 も 『 死 』 も 
  そこから何を学ぶかは自分次第です。
 今を大切に!

母の心臓

2007年07月28日 14時06分40秒 | 母の心不全
ここ2ヶ月ばかり、1ヶ月に1度のペースで通院しています。原因は、心筋が拡大してきたため。血圧も安定して他に要因が見あたらないのですが・・・・・医師いわく『原因不明ですが、心臓の壁(筋肉)が急に厚みを増しています』母は・・・・・きっと、どこかで感じ取るモノがあるんだと・・・・みていて思います。
でも
あえて
ふたりとも
言葉にしていません
でも
いつもと同じに
ふたりで
生活して
笑ったり、ケンカしたりしています
人生いろいろあるよね
みんなも 今の「生」を大切にしようね!

薬の追加 ワーファリン

2006年07月12日 01時55分26秒 | 母の心不全
母の薬を追加しました。7/7(金)病院
薬剤名・ワーファリン
【 陳旧性心筋梗塞 】
心筋梗塞のため、心室瘤など・・・動かなくなった心臓の筋肉部に血液の固まりができやすくなります。この予防にワーファリンを使用します。心筋梗塞の原因は、心臓への動脈(冠動脈)に血液の固まりができて、動脈をふさぐことによっておこる病気です。しかし、この血液の固まりができることをワーファリンは予防できません。この意味で、心筋梗塞を予防するためにワーファリンを使用しません。母の場合最大の理由はこれです。 心室瘤 → 壁在性血栓を形成することが多く、ワーファリン投与の適応となることが多い。ならば●なにゆえワーファリンなるものを飲むのかを、簡単に言えば。心臓(心筋)の一部に血液が行き渡らないため、其処が壊死をおこして瘤のように固まり、その固まった部分が動かないことにより血流がうまくいかないことで、血液が固まって血栓をひきおこしてしまう可能性がおきる。もし、その血液が剥離し血管をながれ脳に到達すると脳梗塞になる。この脳梗塞にならないために服用することにした。簡単だった?とにかく、ステントでも改善しない部分が盛りだくさんだったが・・・ワーファリンを飲まないと更にリスクを背負うことになるから、考えに、考えて、飲むことにしました。途中、母は・・・・考えることに疲れてしまい、「娘よ!貴女が決めなさい」なんて言い出す始末。わかるけど、やっぱこれは母が決める問題でしょう。何度も 何度も かみ砕いたわ。母が理解してくれたときは辛抱してよかったと心底思った。だが・・・・・私はまた・・・・・疲れちゃってダウン・・・・。(心労)このワーファリン薬を飲むと、食事がめんどくさい。母の大好きな納豆はもう食べられない。「ビタミンK」を多く含む食品が摂れないらしいが、それ以上に大変なのが 母には通院回数増と採血だ!今回は少量の「2.5」からの開始になるのだが、絶対に2.5でOKのわけないもんね。その人にあった適量でなくればならないので、最初は週1。これが本人の体力を考えるとわりとキツイ。豪勢に毎回タクシーで行けばいいのだが・・・往復4.000円を母が払うとは思エン乳がんの娘と心不全の母・・・・・親子通院は続く  まぁ~ こうやって心配できるって・・・・幸せよ。だって 母は今日も自分で、御飯を食べているんだもん!メグと一緒に散歩してるんだもん!

母・頑張る!

2006年06月21日 12時27分40秒 | 母の心不全
2泊3日・・・母の検査入院の旅 6月19日(月)~21(水)迄
心臓の血管3ヶ所にステントを入れてから半年になったので、ステントに問題がないかを検査します。1ヶ所約100万だから300万の豪華な心臓だぁ~ね
今回の術式は前回と異なり、進入部位は 右腕手首の動脈からです。(母には言えないが、正直スッゴイ~怖くて痛そう~~ッス)だって、いつも看護師さんが脈をはかってくれるあの場所だよ!麻酔はもちろんかけるけれど、血管侵略は本人の意識がある中でやるから「声」も「音」も「振動」もわかるんですよね・・・・。特に、今回は、前回と違って『母本人がビビッテいる』・・ そんな駄々っ子のような母と向き合いながらここ数日過ごしたので・・・・・私の神経も少々疲労ぎみ。親子で疲れています! そんナもんだから、久しぶりに 昨日は夜中に下痢。おまけに嘔吐上から・・・・下から・・・・だから、トイレで洗面器抱えて用をたす始末・・・・・カッコ悪っ!私ってば 弱っちぃぃぃぃ~~~~本日は母も無事に退院できるのでまずはメデタイシャバに出たら美味しいモンを食したいと・・・喰う気満々の母に苦笑しながらと~っても幸せな私である。母さんよくガンバったね検査の結果も 『良好』 のお墨付きを先生からもらったしのんびり生きていこうね

回想録

2006年02月27日 00時29分08秒 | 母の心不全
画像は・・・母の闘った後。不全で倒れた母がどのようにして運ばれ、生還したかを書いておこうと思います。ここでは倒れた時からの4日間の事を記載します。
2005.12.29 朝9時 私は横浜に用事があるため外出。出るとき窓越しに母と軽く会話をし夕方戻ることを告げた。同日 およそ午前10時。朝食とお風呂に入るため母は裏の家に戻る。お風呂の用意をする。いつもの場所にバスタオル・着替えを置く、気分が悪くなることで「朝食を食べなかったから具合が悪いんだ」と思い朝食を食べる。それでも具合が悪いため、今度は食べたことが悪いと思いトイレで吐こうとするが吐けず、指を口につっこみさらに吐くための努力をしたが吐けなかった。そうしているうちに・・・どんどん具合が悪くなる事で・・・・・「 これは大変だ 」っとこの時母は思ったのだそうだ。母は、近所にいるお嫁さんに電話をし、次に母は、119に電話をした。この時もう、すでに意識は混濁・・・ここからは奇跡の連続でした!電話が鳴り、電話口の母の尋常ではない叫びでお嫁さんは家を飛び出して我が家へ!家に着いたときには既に救急車が到着し、救急隊員の人が窓越しに叫んでいた「鍵を開けてください!頑張って! もう少し!頑張って!」鍵が掛かっているために人が入れない!お嫁さんも裏(私)の家の鍵は持っていない。鍵が掛かった窓近くに倒れていた母が隊員の声に反応して自力で鍵を開けた!隊員も窓を割る用意が出来た瞬間だった!!この時のことは母の記憶にはない。母はお嫁さんに「これから救急車を呼ぶから、家に来て欲しい」と伝えたつもりでいたとの事。後日母からは「自分は表で救急車を待っていた」と思っていたと聞いた。いかに意識が無かったかがわかり・・・・寒気がした。あの時もしも電話が出来なかったら・・・母の命は無かった。抱えられるように自力歩行で救急車にお嫁さん共々乗り込み救急車の中で藻掻き苦しむ母・・・緊急で病院へ。
    コードブルー 
到着した病院では、間髪入れずに洋服をハサミで切り裂いていく、母の状態は、意識レベル0・酸素%が60%を切って「 心不全 」の状態。病院開設以来初めてのコードブルーが発令された。院内の全職員がERに向かう!後日母は病院内では知らない者がいないと言う程の超有名な患者になってしまった。(そんなモンにならなくても良いのだが・・・)何処に行ってもみんなが挨拶をしてくれる・・・知らない先生や看護士さん・・事務の方までも。お嫁さんはこの時の光景をこう語る「本当に怖かった・・・どうなっちゃうんだろうって思った」何十人もの医師や看護士がERに押し寄せた。途中、転倒する看護士さんまででた・・・。人工呼吸器が挿管され・・・とにかく酸素を体内に送り込む。ここで循環器科の医師(主治医)が受け継ぐ。お嫁さんは旦那に連絡。 旦那(私の弟)から私の携帯に連絡が入った。この時もう既に武蔵小杉付近におり家からは大夫離れた地点にいた。電話の内容が直ぐには理解できず・・えっ・・・思考が停止してしまったかのような・・隣に座っていた会社の人に「お母さんが倒れたって・・・弟から・・・」そう言って ボ~・・・っと座っている私にその人は、「次の駅で降りなさい!」とカツを入れてくれた。そう言われて・・・急に状況が理解できと謝りながら駅で降り、引き返すために隣のホームへ歩く。歩き出したら・・・急に不安になり直ぐに弟の携帯へ電話を入れる。何処の病院か?どうして運ばれたのか?私が聞きたいことは弟もその時点ではわからない内容だった。「俺も今向かっている最中だからわかり次第連絡するから、お互い家の方に向かおう」携帯を握りしめて下り電車に飛び乗る。電車の中を走ってでも・・・少しでも早く病院に! 母に! 母の元に!行きたかった。「車内での携帯はお控え下さい」アナウンスが流れてる(公共マナーなんてどうでもよい!文句があるならかかってこい!)かまうもんかと思った。お母さんのことを思うと涙が止まらなかった・・身体が震えた。立っているのがやっとだった・・・。生きていて! 生きていて! 絶対助けるから!お母さん頑張って!! ずっと・・・唱えていた・・・信じて・・・願って・・・どんなことがあってもいきてほしいと!!!! お嫁さんから連絡があり病院の場所も母の状態も大体わかった。頭はどう行けば一番早く着くかを考える。一分一秒でも早く母の側に行ってあげたい。タクシーに乗ったとき渋滞に遭い邪魔な駐禁の車に心底腹が立った「ぶっ壊す!」と思った。病院に着きERの前にはお嫁さんの姿が!ありがとうの気持でヒッシと抱きしめる。「大丈夫だって先生が言ってくれたから」とお嫁さんに教えてもらってい。4FのHCUに! 人工呼吸器を挿管された姿の母! 良かった生きている!!!!! やっと母の手に触れることができた。しかし両手は拘束されており・・・動脈の管が入っているためテーピングでグルグル巻きおまけに血で母の手が赤黒く染まり・・・緊急だったんだとあらためて思った。主治医の話で、喜びは時間の経過と共に不安に変わった。今度は早く自力で呼吸できる様にするために、「覚醒」することが先決なのだそうだ。1日でも早く人工呼吸器が外れることで後の症状が変わると説明を受ける。この日も夜帰るまで母の耳元で呼びかけるが反応は全くない・・・・熱も出ている・・・・帰りたくないが・・・・帰らなければならない。母に心配はかけない!(起きていなくても、わからなくても、心は通じている!)私は、私のやるべき事をやらねばならない! 心配で寝れない、携帯を握りしめて・・・夜を明かす。
2005.12.30 朝日を見てホッとする。電話は鳴らなかった。人は早朝に亡くなることが多い・・と頭の片隅にこびり付いているので。朝が来るとホッとし、病院で母の顔を見ると安堵する。この日も必死の呼びかけが始まった。とにかく機械の数値(データー)を見ながら声をかける。「 お母さん おかぁーーさーーん  おかぁーーさーーん 」弟と交互に時間が許す限り呼びかける。少し反応した!希望に光があると確信!勇気になった!熱が上がり・・・肺炎を併発・・・。心臓が肺を圧迫して肺の機能が低下している・・・。しっかりとした覚醒でなければ人工呼吸器は外してはくれない。また・・・寝られない。
2005.12.31 午後  母が意識を取り戻し人工心肺が外れる!同時に肺炎も治まる傾向になる。弟もどんなに心配したことか。お嫁さんもどんなに心配したことか。少し話す。また、心配が出てくる。障害はどの程度あるのかだ。喜びと不安とを抱えるが、つらくはない!母がいてくれたならどんなことでも乗り越える!どんなことをしてでも母を助ける!夕食が少し口に出来た(喜!)年越しそばでした。こんな病人なのに、そばつゆで煮たエビ天とざるそばのセットだった(スゴ~イ)ほんの少し10口程度だが・・・美味しそうに食べていた母。流石に箸は持てませんので私がお口まで箸を運びます♪嬉しい本当に嬉しい大晦日になりました。夜10時。沖縄から一番下の叔母が来てくれた(八王子の叔父も一緒に)今日はひとりで寝なくても良いんだね。よく寝られた・・もう爆睡です !!
2006.1.1 叔母と病院に行く。母はまだHCUにいる。母と話す嬉しそうな母の横顔・・・・一生忘れない。お母さん お母さん

循環器

2006年02月24日 22時13分03秒 | 母の心不全
退院後 2回目の外来。採血の結果は全部◎凄い!よく頑張ったね。先生も感心していました。母が「元気なんですよ」と言った瞬間に、すかさず、「元気ではないので気を付けて下さいネ!」。秒殺!母曰く 先生は、はっきり言うネ~(苦笑)ほんと、治ったわけではないのだから気をつけましょうね♪

休み終わる

2006年02月10日 23時52分42秒 | 母の心不全
母とね。母の病気、私の病気・・・に ついて話をする 母が、はじめて私のツラサがわかったと言ってくれた。そっかぁ~~~っ。 母はパワフルだもんね。お互い気持ちが通じたと思えた・・・いいのかな?こんなツラサなんてあじあわせたくないって言うのが私の本音。苦しい想いはさせたくない。さあ!私は明日から仕事 頑張ろう(^-^)。
●退院後の母初外来日●
循環器の診察を受け、ついでに眼科も受診。さすがに新しい病院なだけあって入っている機材の凄いこと、まぁ~なんて立派なんでしょう。感心しながら母と一緒に歩き回る。そういえば母本人は初めて1階の診療所を歩くのよね~トイレも綺麗と大喜び。沢山の薬を出されてお値段も高かった!癌と良い勝負です!!主治医の先生はあいかわらずさわやか。しかも御歳33歳(若!)

本日は雪

2006年02月07日 22時00分17秒 | 母の心不全
つもらないタイプの雪でしたが湿りと暖かさをくれました
★リハビリ♪
◎今日、母が台所に立つ!(少しずつネ)疲れた様子、早めに就寝させる。こうして少しずつ日常に必要な作業を私がいるうちにしてもらう。お互いが安心して生活できるように工夫しながらの生活
★調べる
◎MRI検査・・・冠動脈にステントが入っている場合、何の問題もないのか?  
先生に後日聞いた結果。MRIに入ることは好ましくない。もしも万が一MRIに入ったとしてもステントが血管を破って外に飛び出す事にはならない。知らない病院にもしも緊急で搬送されたとしても先にCTから検査したのちになるので、余程の事が無い限り大丈夫。やはり心配はした方がいいのね。気をつけてあげなくては!明日気温が高ければ入浴だ~♪

祝!母の帰宅

2006年02月02日 23時44分52秒 | 母の心不全
本日 無事に母が退院致しました。さっちゃんと二人さっちゃんの来るまで迎えに行きました。やはり、自宅に帰ることが出来るので母も私たちも「ホッ」としますね~そうそう、退院したらコーヒーが飲みたいと言っていたのでデニーズで昼食と共に至福の一時を過ごす♪久しぶりの外食は味が濃かったらしくメニューを見て、食べたい物と実際に食べられる物とのギャップには悩んだみたい。確かに外食は退院直後の母にはキツイよね。家に帰ると、メグは母の側を離れない。メグが甘えてるよ。お母さんの帰りを一番喜んでいるのはこの子かもね(笑)無理しないでゆっくり生活しようね。