画像は・・・母の闘った後。不全で倒れた母がどのようにして運ばれ、生還したかを書いておこうと思います。ここでは倒れた時からの4日間の事を記載します。
2005.12.29 朝9時 私は横浜に用事があるため外出。出るとき窓越しに母と軽く会話をし夕方戻ることを告げた。同日 およそ午前10時。朝食とお風呂に入るため母は裏の家に戻る。お風呂の用意をする。いつもの場所にバスタオル・着替えを置く、気分が悪くなることで「朝食を食べなかったから具合が悪いんだ」と思い朝食を食べる。それでも具合が悪いため、今度は食べたことが悪いと思いトイレで吐こうとするが吐けず、指を口につっこみさらに吐くための努力をしたが吐けなかった。そうしているうちに・・・どんどん具合が悪くなる事で・・・・・「 これは大変だ 」っとこの時母は思ったのだそうだ。母は、近所にいるお嫁さんに電話をし、次に母は、119に電話をした。この時もう、すでに意識は混濁・・・ここからは奇跡の連続でした!電話が鳴り、電話口の母の尋常ではない叫びでお嫁さんは家を飛び出して我が家へ!家に着いたときには既に救急車が到着し、救急隊員の人が窓越しに叫んでいた「鍵を開けてください!頑張って! もう少し!頑張って!」鍵が掛かっているために人が入れない!お嫁さんも裏(私)の家の鍵は持っていない。鍵が掛かった窓近くに倒れていた母が隊員の声に反応して自力で鍵を開けた!隊員も窓を割る用意が出来た瞬間だった!!この時のことは母の記憶にはない。母はお嫁さんに「これから救急車を呼ぶから、家に来て欲しい」と伝えたつもりでいたとの事。後日母からは「自分は表で救急車を待っていた」と思っていたと聞いた。いかに意識が無かったかがわかり・・・・寒気がした。あの時もしも電話が出来なかったら・・・母の命は無かった。抱えられるように自力歩行で救急車にお嫁さん共々乗り込み救急車の中で藻掻き苦しむ母・・・緊急で病院へ。
コードブルー
到着した病院では、間髪入れずに洋服をハサミで切り裂いていく、母の状態は、意識レベル0・酸素%が60%を切って「 心不全 」の状態。病院開設以来初めてのコードブルーが発令された。院内の全職員がERに向かう!後日母は病院内では知らない者がいないと言う程の超有名な患者になってしまった。(そんなモンにならなくても良いのだが・・・)何処に行ってもみんなが挨拶をしてくれる・・・知らない先生や看護士さん・・事務の方までも。お嫁さんはこの時の光景をこう語る「本当に怖かった・・・どうなっちゃうんだろうって思った」何十人もの医師や看護士がERに押し寄せた。途中、転倒する看護士さんまででた・・・。人工呼吸器が挿管され・・・とにかく酸素を体内に送り込む。ここで循環器科の医師(主治医)が受け継ぐ。お嫁さんは旦那に連絡。 旦那(私の弟)から私の携帯に連絡が入った。この時もう既に武蔵小杉付近におり家からは大夫離れた地点にいた。電話の内容が直ぐには理解できず・・えっ・・・思考が停止してしまったかのような・・隣に座っていた会社の人に「お母さんが倒れたって・・・弟から・・・」そう言って ボ~・・・っと座っている私にその人は、「次の駅で降りなさい!」とカツを入れてくれた。そう言われて・・・急に状況が理解できと謝りながら駅で降り、引き返すために隣のホームへ歩く。歩き出したら・・・急に不安になり直ぐに弟の携帯へ電話を入れる。何処の病院か?どうして運ばれたのか?私が聞きたいことは弟もその時点ではわからない内容だった。「俺も今向かっている最中だからわかり次第連絡するから、お互い家の方に向かおう」携帯を握りしめて下り電車に飛び乗る。電車の中を走ってでも・・・少しでも早く病院に! 母に! 母の元に!行きたかった。「車内での携帯はお控え下さい」アナウンスが流れてる(公共マナーなんてどうでもよい!文句があるならかかってこい!)かまうもんかと思った。お母さんのことを思うと涙が止まらなかった・・身体が震えた。立っているのがやっとだった・・・。生きていて! 生きていて! 絶対助けるから!お母さん頑張って!! ずっと・・・唱えていた・・・信じて・・・願って・・・どんなことがあってもいきてほしいと!!!! お嫁さんから連絡があり病院の場所も母の状態も大体わかった。頭はどう行けば一番早く着くかを考える。一分一秒でも早く母の側に行ってあげたい。タクシーに乗ったとき渋滞に遭い邪魔な駐禁の車に心底腹が立った「ぶっ壊す!」と思った。病院に着きERの前にはお嫁さんの姿が!ありがとうの気持でヒッシと抱きしめる。「大丈夫だって先生が言ってくれたから」とお嫁さんに教えてもらってい。4FのHCUに! 人工呼吸器を挿管された姿の母! 良かった生きている!!!!! やっと母の手に触れることができた。しかし両手は拘束されており・・・動脈の管が入っているためテーピングでグルグル巻きおまけに血で母の手が赤黒く染まり・・・緊急だったんだとあらためて思った。主治医の話で、喜びは時間の経過と共に不安に変わった。今度は早く自力で呼吸できる様にするために、「覚醒」することが先決なのだそうだ。1日でも早く人工呼吸器が外れることで後の症状が変わると説明を受ける。この日も夜帰るまで母の耳元で呼びかけるが反応は全くない・・・・熱も出ている・・・・帰りたくないが・・・・帰らなければならない。母に心配はかけない!(起きていなくても、わからなくても、心は通じている!)私は、私のやるべき事をやらねばならない! 心配で寝れない、携帯を握りしめて・・・夜を明かす。
2005.12.30 朝日を見てホッとする。電話は鳴らなかった。人は早朝に亡くなることが多い・・と頭の片隅にこびり付いているので。朝が来るとホッとし、病院で母の顔を見ると安堵する。この日も必死の呼びかけが始まった。とにかく機械の数値(データー)を見ながら声をかける。「 お母さん おかぁーーさーーん おかぁーーさーーん 」弟と交互に時間が許す限り呼びかける。少し反応した!希望に光があると確信!勇気になった!熱が上がり・・・肺炎を併発・・・。心臓が肺を圧迫して肺の機能が低下している・・・。しっかりとした覚醒でなければ人工呼吸器は外してはくれない。また・・・寝られない。
2005.12.31 午後 母が意識を取り戻し人工心肺が外れる!同時に肺炎も治まる傾向になる。弟もどんなに心配したことか。お嫁さんもどんなに心配したことか。少し話す。また、心配が出てくる。障害はどの程度あるのかだ。喜びと不安とを抱えるが、つらくはない!母がいてくれたならどんなことでも乗り越える!どんなことをしてでも母を助ける!夕食が少し口に出来た(喜!)年越しそばでした。こんな病人なのに、そばつゆで煮たエビ天とざるそばのセットだった(スゴ~イ)ほんの少し10口程度だが・・・美味しそうに食べていた母。流石に箸は持てませんので私がお口まで箸を運びます♪嬉しい
本当に嬉しい大晦日になりました。夜10時。沖縄から一番下の叔母が来てくれた(八王子の叔父も一緒に)今日はひとりで寝なくても良いんだね。よく寝られた・・もう爆睡です !!
2006.1.1 叔母と病院に行く。母はまだHCUにいる。母と話す嬉しそうな母の横顔・・・・一生忘れない。お母さん お母さん