Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

弟子が師に習う

2020年07月24日 | 日記
 「私は聖書に今日初めて触れ、話を聞いていてもちんぷんかんぷんだった。けれど、一つ興味深かったことは、キリストにはお弟子さんがいて、そのお弟子さんを派遣する時にちゃんと指示を与えて送り出していたということです。」私たちの教会では、毎週木曜の夜に聖書に親しむ会というのを開いていますが、これは初めて参加された方が言われたコメントです。この会では新約聖書の最初から順番に夫が解説しています。初めは夫婦二人だけでしたが、最近は教会のチラシを見て、聖書に興味を持ってきてくださる方、他教会の信徒の方が参加されています。そして今回は、その方のお友達も一緒に参加されました。その方曰く「彼女は無神論者なんだけど、面白いグループが益子にあるからと、連れてきたんだ」。その方が「面白いグループ」と思って参加してくれているのだと聞いて、私はとても嬉しく思いました。なぜなら、日々夫と、「新しい人を教会に送って下さい」と祈っているので、来る人数は少なくとも、確実にお祈りは聞かれているんだと、とても励まされるからです。

 「弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。」*1とイエス様が言われたところを、今回の聖書の学びで触れました。これはある意味、一般社会では、当てはまらない事柄かもしれません。なぜなら、様々な師弟関係において最初は弟子は先生のもとで見習い、訓練され、そのうちある人は才能を発揮し、師以上になることもあるからです。そして今度はその人が師となって、次の世代のお弟子さんを訓練していきます。しかし、イエス様がいう天の国の世界では、神であるイエス・キリストという先生を私たち人間が超えることはなく、完全にまねることもできません。しかし、少しでもそれに近づけるように求め続けること、実はそのことさえ難しいのですが、聖霊の助けによって、イエス様の愛の心そして行動に近づこうとする、それで十分だと、イエス様は言ってくれているようで、出来の悪い私はとても慰められます。

 キリストから習うべき事柄で、最も大切なのことの一つに「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」*2とあります。神様の持っておられる愛の基準は、人間の能力を超える程高く、誰もそれを完璧にクリアすることができません。例えば、自分に敵対する相手を恨まずに、相手が神様に祝福されることを祈ること、親切にすること、赦せない相手を赦そうとすること、自分を犠牲にして相手のために何かすること。これらは特に人間関係において、簡単に出来ない、場合によっては不可能なことではないでしょうか。しかし、師であるキリストがこれらの愛を私たちに対して既に行って下さり、また今も、これからもこの愛で愛し続けて下さります。この愛はキリストの十字架に現わされています。

 キリストを信じ、従っていこうと思う者は、たとえ私のように失敗が多い弟子であっても、決して見捨てられることはなく、愛されているという安心感が与えられていて、このことは心の支えであり、大きな励ましでありす。この世で生活している限り、辛いこと、うまくいかないこと、悲しいことがたくさんあります。しかし神の子であるイエス様ご自身は、人としてこの世に来られた時、もっとも過酷な状況を経験されて、十字架を忍び、今は復活されて天国におられ、私たちのために日々生きて働かれておられることを覚えて、師であるイエス様を仰ぎ見て、イエス様に習って喜びを忘れずに、人生の道をゴールに向かって走り続けていきたいと思います。そのルートは長距離で、途中転んだり、歩いたり、止まってしまうこともあるかもしれません。しかし、私がその走るルートから外れないよう日々導いて下さっている神様を信じ、与えられている恵に感謝しつつ一日一日を過ごしていきたいと思います。

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」ヘブル人への手紙12章1-2節

*1 マタイによる福音書10章25節
*2 ヨハネによる福音書15章12節