先日、義理の兄が用事があって益子を訪ねてきてくれました。義理の兄とは一年ぶりに会いましたが、彼が益子に来るのは24-5年ぶりだとか。近くに住む、家族ぐるみの長い付き合いの友人宅にも一緒に立ち寄ることができ、四半世紀近く経っての再会をお互い喜んでいました。短い時間でしたが、やはり顔と顔を合わせて、またその人の家を訪問して様子を知ることができる機会は、今のようにいつでも自由に会えないという状況下において貴重なことです。
ある人と会いたい、いつか会える・・・と想うことは、普段の生活をする上でも励みになったり、楽しみであります。私の短い人生の中で、日本とアメリカとを行き来していて、多くの友人が与えられ、お世話になりました。それらすべての人と会う機会がなかなかないかもしれませんし、まめに連絡をとり続けるというのも、難しいものです。しようと思えばネットの普及でPCやスマホ越しに、コミュニケーションを取れるのですが、正直私は、多くの人といつも連絡を取り合うまめさがないのです。しかし、連絡を頂ければ返し、思い出してはその人のためにお祈りをしています。
先日、朝に聖書とともに読む本を読んでいると、ヒットすることばがありました。
「キリスト教徒は、突き詰めれば、「イエスというお方の姿を見たい」という望みと、そのための努力にほかなりません。」*1
私は正確に全ての他の宗教を把握していませんが、おそらく他の宗教において、神様に会うのを楽しみにして生きている、それが人生の動機や言動力となるという宗教はあまりないと思います。神さまや仏さまは、「今」の自分や家族を守り、願いを叶えてくれる存在であり、それさえしてくれれば特に会いたいとも思わないでしょうし、せいぜい、人が造った仏像等の像を拝見して、あらたかだ、素晴らしいと思う機会はあって、それを楽しみにする人はいるかもしれません。しかし、目に見えない神に会えるのを楽しみにし、希望を持って、今生きている生活を続けていこうと励まされるのは、イエス・キリストを神と信じているキリスト教だけではないかと思います。
なぜそんな望みを持てるのでしょうか?私にとっては、キリストが私の為にすでにして下さったこと、また今もこれから先のことに対して、その恵みに感謝し、感謝し尽くすことができない程だから、というのが理由です。すでにして下さったこととは、キリストが私に命を与えるために、十字架に架かってくださったこと、そして私は全ての縛りや罪の支配から解放され、赦されて、天の父なる神様より、子としての全ての特権を与えられていることです。そして今もこれから先のこととは、私が生きている上で、聖霊が内に住み、弱い、欠けのある私をやさしく導き、守り、どんな困難に会おうとも、この体が滅びようとも、いつか天でイエス様に会えるという希望により、平安でいられることです。試練・患難はあります。あると聖書にも書いてありますし*2、どの人でも試練のない人生はないと思います。しかし、キリスト者は、キリストにあってその試練を乗り越えられる、神様がなんとかしてくれると委ねられます。不安の念に襲われたり、仕方がないと投げやりなることもなく、困難に向き合って歩む力があたえられるというのは、本当に恵みです。
このキリストを信じる信仰を持ち続けられるよう、日々導き、そしていつか完成して下さるイエス様にいつかお会いできるという思いをもって、人生の行程を走り続けていきたいと願い求めていきたいと思います。
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 」ヘブル人への手紙12章2節 (口語訳聖書)
*1 「ひと時の黙想 主と歩む365日」 1月17日 主イエスを見つめる より、
マックス・ルケード著 日本聖書協会 発行・翻訳
*2 「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。ヨハネによる福音書16章33節
ある人と会いたい、いつか会える・・・と想うことは、普段の生活をする上でも励みになったり、楽しみであります。私の短い人生の中で、日本とアメリカとを行き来していて、多くの友人が与えられ、お世話になりました。それらすべての人と会う機会がなかなかないかもしれませんし、まめに連絡をとり続けるというのも、難しいものです。しようと思えばネットの普及でPCやスマホ越しに、コミュニケーションを取れるのですが、正直私は、多くの人といつも連絡を取り合うまめさがないのです。しかし、連絡を頂ければ返し、思い出してはその人のためにお祈りをしています。
先日、朝に聖書とともに読む本を読んでいると、ヒットすることばがありました。
「キリスト教徒は、突き詰めれば、「イエスというお方の姿を見たい」という望みと、そのための努力にほかなりません。」*1
私は正確に全ての他の宗教を把握していませんが、おそらく他の宗教において、神様に会うのを楽しみにして生きている、それが人生の動機や言動力となるという宗教はあまりないと思います。神さまや仏さまは、「今」の自分や家族を守り、願いを叶えてくれる存在であり、それさえしてくれれば特に会いたいとも思わないでしょうし、せいぜい、人が造った仏像等の像を拝見して、あらたかだ、素晴らしいと思う機会はあって、それを楽しみにする人はいるかもしれません。しかし、目に見えない神に会えるのを楽しみにし、希望を持って、今生きている生活を続けていこうと励まされるのは、イエス・キリストを神と信じているキリスト教だけではないかと思います。
なぜそんな望みを持てるのでしょうか?私にとっては、キリストが私の為にすでにして下さったこと、また今もこれから先のことに対して、その恵みに感謝し、感謝し尽くすことができない程だから、というのが理由です。すでにして下さったこととは、キリストが私に命を与えるために、十字架に架かってくださったこと、そして私は全ての縛りや罪の支配から解放され、赦されて、天の父なる神様より、子としての全ての特権を与えられていることです。そして今もこれから先のこととは、私が生きている上で、聖霊が内に住み、弱い、欠けのある私をやさしく導き、守り、どんな困難に会おうとも、この体が滅びようとも、いつか天でイエス様に会えるという希望により、平安でいられることです。試練・患難はあります。あると聖書にも書いてありますし*2、どの人でも試練のない人生はないと思います。しかし、キリスト者は、キリストにあってその試練を乗り越えられる、神様がなんとかしてくれると委ねられます。不安の念に襲われたり、仕方がないと投げやりなることもなく、困難に向き合って歩む力があたえられるというのは、本当に恵みです。
このキリストを信じる信仰を持ち続けられるよう、日々導き、そしていつか完成して下さるイエス様にいつかお会いできるという思いをもって、人生の行程を走り続けていきたいと願い求めていきたいと思います。
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 」ヘブル人への手紙12章2節 (口語訳聖書)
*1 「ひと時の黙想 主と歩む365日」 1月17日 主イエスを見つめる より、
マックス・ルケード著 日本聖書協会 発行・翻訳
*2 「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。ヨハネによる福音書16章33節