自由という言葉をどうとらえますか。逆に自由の反対語は何でしょうか。束縛、不自由、奴隷。生活の中でどんな時に、自由がないと感じるでしょうか。一般的に自由とは、人から強制されず、自分の意思で選択肢がある中から何かを選べる状態といえますが、社会という共同体の中で生きている限り、何かしらの制約があります。また、自由や権利の主張は、責任を果たせるかどうかも関わります。
一方、自分で自分を不自由にしてしまうケースもあります。例えばある人に対して敵意や憎悪、イライラする思いを持ち続けると、その苦い思いが心を支配し、それに囚われてしまいます。また「あの人は私に対してこう思っているに違いない」と被害妄想にもなりかねません。しかし、相手と話してみると、そう思っていないことが、そんなつもりはないということが分かるということがありがちです。しかし、対面で話合わず、ネット上でのコミュニケーションだけで放置しておくと、疑心暗鬼となり関係が悪化してしまいます。また、病気・障がいのために自由が利かない生活もあります。しかし、ある状況を自由ととらえるか、不自由だと思うかはその人次第という面があるでしょう
キリストの十字架による救いは、そんな私たちの人生を変えます。私たちの状況にかかわらず得られる、心の自由を得るために奴隷状態から解放して下さったのです。しかしクリスチャンになった後でも、不自由だ、何かに束縛されていると思うことはあるかもしれません。その不自由さを、前述のように自分で作っているというケースもありますし、もしくはある人の影響が強すぎて、束縛されているケースもあるかもしれません。もしそうであれば、神様に祈り、心を自由にしてくださいと祈る必要があるでしょう。
また私たちを不自由にする原因の一つは、自己中心的思いとです。使徒パウロは下記の箇所でも、「愛によって互いに仕えなさい。」と言っています。私たちは基本的に何をしてもよいですし、当時のユダヤ人が律法という生活の隅々にわたる細かな守らなければならない規定に縛られることもないのですが、パウロは自由であっても、益にならないことをすべきではないとも言っています。* つまり、自由なのだから何をしてもいいのではなく、平和をお互い保つために、互いに配慮しあう必要があるからです。
イエス様の教えで「神を愛すること」、「隣人を愛すること」が律法のなかで一番大切だと教えました。しかし、各々に与えられている自由を乱用すると、神様をも隣人をも愛することができません。私を含めた人間は肉の思い、自分が損をしたくない、気分を害されたくない、自分が好きなことをしたいという思いをもってしまうものです。しかし、争いのあるところにキリストの平和はありえません。多くの争いの原因は、「自分が正しい」と互いに言い合うことから始まります。争いは罪を犯させる機会となってしまいます。私たちはみな考え方も異なるし、立場も違い、利益が相反するものです。しかし、キリストが私たちに忍耐してくださったように、私たちも互いに忍耐しあい、仕えあうことを目指したいと願います。これは、本当にハードルが高いことです。日々、自分が自己中心であることを悔い改め、仕切り直し、寛容な心を神様から与え、キリストがその尊い命をかけて与えた下さった自由を、他者との関係で愛する機会に用いていけるよう、聖霊に導いていただきたいと願います。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。 」 ガラテヤ信徒への手紙5章13-15節
*「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。 だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。」 第1コリント信徒への手紙10:23-24
(引用:新共同訳聖書)
一方、自分で自分を不自由にしてしまうケースもあります。例えばある人に対して敵意や憎悪、イライラする思いを持ち続けると、その苦い思いが心を支配し、それに囚われてしまいます。また「あの人は私に対してこう思っているに違いない」と被害妄想にもなりかねません。しかし、相手と話してみると、そう思っていないことが、そんなつもりはないということが分かるということがありがちです。しかし、対面で話合わず、ネット上でのコミュニケーションだけで放置しておくと、疑心暗鬼となり関係が悪化してしまいます。また、病気・障がいのために自由が利かない生活もあります。しかし、ある状況を自由ととらえるか、不自由だと思うかはその人次第という面があるでしょう
キリストの十字架による救いは、そんな私たちの人生を変えます。私たちの状況にかかわらず得られる、心の自由を得るために奴隷状態から解放して下さったのです。しかしクリスチャンになった後でも、不自由だ、何かに束縛されていると思うことはあるかもしれません。その不自由さを、前述のように自分で作っているというケースもありますし、もしくはある人の影響が強すぎて、束縛されているケースもあるかもしれません。もしそうであれば、神様に祈り、心を自由にしてくださいと祈る必要があるでしょう。
また私たちを不自由にする原因の一つは、自己中心的思いとです。使徒パウロは下記の箇所でも、「愛によって互いに仕えなさい。」と言っています。私たちは基本的に何をしてもよいですし、当時のユダヤ人が律法という生活の隅々にわたる細かな守らなければならない規定に縛られることもないのですが、パウロは自由であっても、益にならないことをすべきではないとも言っています。* つまり、自由なのだから何をしてもいいのではなく、平和をお互い保つために、互いに配慮しあう必要があるからです。
イエス様の教えで「神を愛すること」、「隣人を愛すること」が律法のなかで一番大切だと教えました。しかし、各々に与えられている自由を乱用すると、神様をも隣人をも愛することができません。私を含めた人間は肉の思い、自分が損をしたくない、気分を害されたくない、自分が好きなことをしたいという思いをもってしまうものです。しかし、争いのあるところにキリストの平和はありえません。多くの争いの原因は、「自分が正しい」と互いに言い合うことから始まります。争いは罪を犯させる機会となってしまいます。私たちはみな考え方も異なるし、立場も違い、利益が相反するものです。しかし、キリストが私たちに忍耐してくださったように、私たちも互いに忍耐しあい、仕えあうことを目指したいと願います。これは、本当にハードルが高いことです。日々、自分が自己中心であることを悔い改め、仕切り直し、寛容な心を神様から与え、キリストがその尊い命をかけて与えた下さった自由を、他者との関係で愛する機会に用いていけるよう、聖霊に導いていただきたいと願います。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。 」 ガラテヤ信徒への手紙5章13-15節
*「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。 だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。」 第1コリント信徒への手紙10:23-24
(引用:新共同訳聖書)