Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

なぜ軽井沢?

2022年11月07日 | 日記
 先日、軽井沢にあるいくつかの教会を訪問しました。観光地にもなっているこれらの教会は、明治時代、19世紀後半以降に欧米の宣教師たちによって建てられた歴史的建造物でもあります。私は建物の古さよりも、この時代に海外から来て、この地に移り住んだ宣教師たちはどのような思いだったのかと、静かな礼拝堂のなかでしばし想いをはせました。

 私がアメリカに住んでいた時、部屋をお借りしていた時の家主は、若い時日本に在住していたことがあるそうです。彼女の両親は日本で宣教師として新潟に在住し、その影響もあってか彼女も宣教師を目指し、軽井沢にある宣教師訓練の学校に行っていたと話していました。しかし彼女は、自分の召命が宣教師ではないという結論に達し、アメリカに戻って看護師になったそうです。その時も、「なぜ軽井沢に宣教師訓練校があったのかな?」と思ったものです。そこで軽井沢の歴史を調べてみると、日本の開国と同時に入ってきた外国人宣教師たちが、蒸し暑い日本の避暑地として軽井沢を発見し、口コミで宣教師、外国人に広まり、参勤交代がもはやなくなり、さびれてしまった宿場町の軽井沢が、外国人別荘地として発展していったそうです。きっかけは暑さに弱い西洋人から始まったということでしょうか。

 日本という国は、世界の宣教師にとって伝道が困難な場所の一つだと言われます。現実的にはどの国も困難なはずです。なぜなら、その国独自の歴史、文化があり、西欧で発展したキリスト教の概念を理論的にも、精神的にも理解し、信仰に入るというのは常識で考えても難しいからです。ましてや、明治期のキリスト教が帝国主義を掲げる西欧の列強諸国とともに入ってくると、キリスト教を国の近代化に利用する人々もいれば、侵略者・外国の宗教と排斥感情を持つ人々もいたはずです。一方、似たような歴史を通過したインドネシアではイスラム教徒が多数派ですが、キリスト教徒の割合も多いのです。

 イエス様は下記のみことばにあるように、「人にはできないが神にできる」と弟子たちに言われました。私たちの常識で、「これは無理だろう」「誰が、2千年前に十字架にかけられて死んだイエスを、神だと信じられるのか?」と思うことでも、神に不可能なことはないということです。ある人がキリストを信じる信仰に導かれるということは、奇跡と言えます。奇跡でないと信じられない・不可能だと思える内容がキリストの福音だからです。しかし、イエス様が言われたように、何世紀にもわたり、イスラエル国のエルサレムという小さな町で、数人の弟子たちの伝道から始まり、世界に伝えられ、信じた一人ひとりの人生に多くの奇跡が起こっていることを思うと、神様には不可能はないということが実証されているのではないでしょうか。キリストを自分の救い主だと信じることのできる人は幸いであり、また超自然的な力、つまり聖霊の働きによってそれがどんな人にも可能であります。日々この奇跡が、人々の間で起きるように祈っていきたいと思います。

「弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。」  マタイによる福音書19章25-26節