Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

自然そのものではなく、自然を創られた方へ

2022年05月04日 | 日記
 私たちの住む益子町は自然豊かな里山に囲まれていて、ちょっと行けば散策や短時間の登山ルートにアクセスが出来ます。先日も根本山という場所を歩き、鳥のさえずりを聞きながら、新緑の美しさや沼を泳ぐオタマジャクシを見ながら、心身ともにリフレッシュされて、この自然を創られた神様に感謝しました。近所にこのような場所があるのだから、もっと定期的に里山を歩く時間を取りたいと願いつつ、日々の忙しさでたまにしか来られない現実を思い、時間はあえて作ろうと努めなければ過ぎてしまうものと実感します。

 私はどちらかというと森林派ですが、海が大好きだという友人がいます。海へ行くと、癒され、パワーがもらえるからだと言っていました。確かに、海や山にはマイナスイオン効果というのが目では見えませんがあるそうで、空気も良いし体には良いので、癒し効果はあります。しかし、人間というのはこの自然を破壊することで都市生活の利便さを追求し享受してきました。自然を破壊しておいて、限られた自然に癒しを求めるという、自分でもなんとも矛盾した生活のように思えます。

 自然の癒しを感じる時、忘れてはならないのは、この自然を創られた神様に感謝することです。自然の営み、その調和を知れば知るほど、これらを総合的に設計された神様の業は素晴らしいと感じます。さらに、この自然を創られた目的は、私たち人間がこの地上で生きられるように、そしてキリストにあって救われるようにとあらかじめ天地を創造する前から計画されていたことが下記の聖書の箇所より知ることができます。また人はその与えられた環境を適切に治める仕事を神様から任されていることも聖書には記されています1*。この人の責任は重いということを覚えつつ、そもそもの人を創られた神様の目的、御心にいつも焦点を戻したいと思います。

 神様は人を愛する存在として創られ、人間同士も互いに愛し合うようにとイエス様は教えられましたが*2、現実はどうでしょうか。それが出来ていない理由は、人間の欲、自己中心な心、また創造主である神様の存在を無視し、勝手な神々を作り上げて拝んでいるという罪からではないでしょうか。この私を含む人間を救うために、神様はイエス・キリストをこの世に送って下さり、十字架で私たちの罪のために代わりに罰を負って死なれ、それゆえに信じる者が罪を赦され、神様と和解させてくださいました。このことは自然を創って下さったこと以上に重大な神様の業であり、今も復活されて天で生きて私たちの祈りをとりなして下さるイエス・キリストに感謝し、賛美を捧げるべき理由であります。いつも自然に触れることができなくとも、心身共に疲れていたとしても、キリストにあって、今与えられている恵とその救いの業に感謝し、たたえつつ、心の内側に神様からの愛と生き続ける力を求めていきたいと祈ります。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えて下さった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」
エフェソ信徒への手紙1章4-6節

*1 創世記1章29節
*2 ヨハネによる福音書13章34節