Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

「致しかねます!」への反応を乗り越えて

2019年10月20日 | 日記
私は実は、カスタマーセンターの方と話すのが苦手です。たいがい、イライラしてしてしまうからです。その理由は、電話が繋がるまで長時間待たされた上に、あまりにも仕事が分業されていて問い合わせたいことがたらい回しにされ、その担当以外のことはいっさい「致しかねます」という対応が多いからです。制度上仕方がないことですので、なかなか一回で対応してもらえなくとも穏やかにやりとりをせねばと、ぐっと感情を抑えています。一方、こちらが何もしているつもりがなくても、(相手にとっては主観でそうとるので仕方がありませんが)自分の態度や言動を悪くとられたり、誤解されたりすることもあります。しかし、これも忍耐し、反論したいことがあっても抑え、最低限伝えなければならないことを柔らかい口調で説明しようと努めなければ、更に相手との関係が悪化する可能性があります。


人間というのは、お互い自分の主観で物事を受けとめ、互に相手の立場を考えないことが多いため、自分の思う通りにならない他者と共存する社会に生きています。また、片方が利益を得れば、もう片方が損をする経済システムの中で生きています。ですから社会生活をしていく上で、理不尽なこと、我慢しなければならないことが日々あるのはノーマルなことで、ある意味それが、社会性を身につけるということでしょう。社会には様々な考え方の人がいること、そして自分の思う通りに事が進まないということを経験していくことで、忍耐力・適応力・柔軟な心も養われていくかもしれません。現代は、インスタントにすべての事が進む社会。しかし、それを”当たり前”に思っては、結局、自分の短気によって損気を引き起こすわけです。と理論上ではわかっているのですが、私の課題は、「致しかねます!」という言葉にぴくっと反応してしまうところでしょうか(笑)。


聖書(書かれた時代も広く、幾つかの書簡から構成されています)の中に、歴史的書簡の部分には、人間が過去してきた目を覆いたくなるような残虐な戦争等についてもそのまま記されています。また、その他の書簡でも現代と変わらない人間関係のもつれや殺人、嫉妬、いさかいが、神が選んだ民族の間で、またキリストを信じた信徒たちの間でもあったことが正直に書かれています。だから、信徒たちあてに書いた書簡の中で、使徒のパウロはキリストの愛に倣うようにと忍耐を持って諭し、時にはいさめることもあります。そして、自分が置かれている社会の中で、怠けないで働き(当時、もうキリストが再び戻って来るから、働かなくてよいという信徒がいた為)、互いに愛し合いなさい、互いに相手が自分より優れていると思いなさい、謙遜になり、仕え会えなさい等と具体的に勧めています。下記の箇所も全ての人と平和に過ごすようにと、信徒に向けて勧めています。つまり、クリスチャン、つまりキリストを信じて礼拝していても、個人の人間関係では争いをしている人が当時いたから、そう書いたのでしょう。そして、現代もしかり。クリスチャンも、失敗もし、人を傷つけ、争ったりすることがあります。完璧な聖人はいません。すると、クリスチャンになった人と信じていない人との違いは何でしょうか?


それは、神様への悔い改めと赦しの有無という点でしょう。キリストを信じていない方々は、自分の善悪の基準と主観で物事を判断し、行動し、人付き合いをしますから、自分が基準であり、人それぞれ異なり相対的です。また人には良心というものがありますが、その良心も個々人によって感じ方が異なります。すると「これくらいいいではないか、皆していることだ」、もしくは「相手が悪いから仕方がない」と開きなおってそのまま続け、反省はすることがあっても繰り返す可能性があります。その価値基準ですと、相対的な自分の中での合理化処理となりますが、そこには神に対しての悔い改めという概念はなく、その赦しも不在ですので、誰かの赦しがないと負い目や責罪感が残るかもしれません。一方、キリストを信じる者は、聖書に書かれている神の基準に基づいて、神に対して悔いて改めますと祈り、赦しを受け取って、新たに仕切り直すことができます。なぜそうするかというと、今は、キリストが自分の命を犠牲にして迄私を愛してくれていることを信じたので、その大きな愛に感謝して、私なりにどう応答できるかと考えると、キリストが言われたことに従い、キリストに倣うことだと決めているからです。私は失敗も多いですが、すぐに神様に悔い改めるようにし、また、謝るべき相手がいればすぐに謝るようにしています。たとえ自分だけに責めるべきところがなく、他に責任転嫁できる要因があろうとも、謝ります。そして、相手がそれを赦してくれるかどうかは、相手の問題ですので、それ以上は神様に任せることにしています。そして同じ過ちを繰り返さないように、神様に祈ります。


「憐み深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。」*1 また「人を裁くな、あなたがたも裁かれないようにするためである。」*2 イエス・キリストはこう言われています ここでのあわれみ深いとは、相手を赦す心を持つ事だそうです。そもそも、自分自身が神様に赦されたという自覚があると、自ずと自分も赦してもらったのだから、相手を赦したくなくとも、赦せるように神様に心を変えて下さいと祈り、相手のしたことを裁くのは神様に任せようと思えるのでしょう。


 全ての人と完全に平和に過ごすことは無理です。だからこそ、パウロも「せめて」(if possible (英訳), ”可能な限り”とも訳せる)という言葉を使っているのが、有難いです。相手方が戦いを仕掛けてきた場合、それをどう平和的に交わすか。このパウロの勧めは、何もあたりさわりもなく避けて、和解に努めようともしないという態度のことではなく、平和を保つよう自分のなすべきことはするという行動を伴う、強い言葉(原語のギリシャ語)だそうです。それでも、関係の修復、和解を相手が拒否する、もしくは相手が悪を、戦いを続けるのであれば、相手のことを神様に委ね、自分は苦い思いを相手にもたず、時には距離や時間を置くことも必要となるかもしれません。後になって、和解ができるかもしれません。それも祈りつつ、平和の心、相手を裁かない心を神様から与えられたいと願います。


「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」ローマ人への手紙12章18節




*1マタイによる福音書5章7節


*2マタイによる福音書7章1節 (聖書引用、新共同訳聖書)