先日、福島県にある安達太良山に夫婦で登山に行ってきました。往復約5時間のコースとなりへとへとになりましたが、天候にも恵まれ、自然のすばらしさ、紅葉の美しさを満喫し感謝でした。しかし、途中、山の頂上が見えたときに私は大はしゃぎで写真を撮ろうとカメラを手に取り一歩踏み出すと、つまづいて転倒。カメラを構えていて、足元を注意しなかったのです。カメラを持っていたので両手を付けず、右手上腕から転びました。一瞬「あっ、骨が折れたか!?」との思いがよぎるほどの痛みが走りました。幸い打撲ですみ、痛みをこらえながら少し自重して、残りの登山を続けられました。登山に限らず何事もそうですが、足元を見ないで歩くとつまづきます。基本的なことですが、他のことに気をとられていると忘れてしまいがちなことです。痛い目にあって学ばされ、また今回骨折しないですんだことを神様に感謝いたしました。
日々の歩みの中で様々なことを同時進行させていくと、気持もあせり、私は特に二つ三つのことを同時にすると片方に気を取られ、もう片方のことにミスが生じたりしがちです。ですから、どんなに忙しくても手を止めて一つのことに集中し、終わらせてからもう一つのことに進めるようにと気を付けています。それでも、時々失敗し、落ち込みます。足元に注意。自分がいま立っているところはどこか、目的のための自分の立ち位置を確認しないと、気が付くと、本来あるべき姿を見失うことがあるのです。
私は多くのことについて、信仰の視点からどうあるべきかを考えるようにしています。例えば、今なぜ働いているのか、なぜ勉強しているのか、なぜ益子という地に住んでいるのか、今なぜ家事を効率的にする工夫をしなければならないのか等々、これらすべてには同じ目的と計画があります。しかし、一つ一つの忙しさや期日、大変さに気を取られて目先のことに目が行き、目的の焦点がづれてしまうことがあります。そこで、もう一度聖書の言葉を読み、祈り、聖霊の導きにより心の中で、「なぜ慌てるのか、あせるのか、何のためにこのことをしているのか、優先順位は何か」とふと気が付かされ、焦点を戻しています。私の目的は、生きている限り、主キリストに従って歩むこと、キリストの救いの福音を人々に機会があるごとに証ししていくことです。今の生活の中の小さなことすべてがこの目的と関連があり、そのために益となり、手段として必要なのです。私はおおざっぱな性格で、なかなか細かく気配りが持てず、間抜けで、愚かなものですから、下記のパウロの言葉は耳が痛いです。
さらに大事なことは、生活の中のすべてのことに神様への感謝を忘れずにいることだと思います。日々、神様から与えられる恵み、例えば食べるものを感謝し、登山をした時はその自然の美しさに感謝し、すべてのことに対して主キリストにあって感謝し、生かされていることを喜ぶことができます。この感謝と喜びがないと、目的達成のためにひたすら走ることばかりで、生活がギスギスし、燃え尽きてしまいます。どんなに気を付けていても、焦点がづれることもあり、また失敗もあるでしょう。そんな弱い愚かな私さえも、神様は見捨てず、寛容に、愛を持って見守り、正しい方向へと導いてくださることに慰めと励ましが与えられています。
「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。・・・そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。 」 エフェソ信徒への手紙5章15-17、20節
日々の歩みの中で様々なことを同時進行させていくと、気持もあせり、私は特に二つ三つのことを同時にすると片方に気を取られ、もう片方のことにミスが生じたりしがちです。ですから、どんなに忙しくても手を止めて一つのことに集中し、終わらせてからもう一つのことに進めるようにと気を付けています。それでも、時々失敗し、落ち込みます。足元に注意。自分がいま立っているところはどこか、目的のための自分の立ち位置を確認しないと、気が付くと、本来あるべき姿を見失うことがあるのです。
私は多くのことについて、信仰の視点からどうあるべきかを考えるようにしています。例えば、今なぜ働いているのか、なぜ勉強しているのか、なぜ益子という地に住んでいるのか、今なぜ家事を効率的にする工夫をしなければならないのか等々、これらすべてには同じ目的と計画があります。しかし、一つ一つの忙しさや期日、大変さに気を取られて目先のことに目が行き、目的の焦点がづれてしまうことがあります。そこで、もう一度聖書の言葉を読み、祈り、聖霊の導きにより心の中で、「なぜ慌てるのか、あせるのか、何のためにこのことをしているのか、優先順位は何か」とふと気が付かされ、焦点を戻しています。私の目的は、生きている限り、主キリストに従って歩むこと、キリストの救いの福音を人々に機会があるごとに証ししていくことです。今の生活の中の小さなことすべてがこの目的と関連があり、そのために益となり、手段として必要なのです。私はおおざっぱな性格で、なかなか細かく気配りが持てず、間抜けで、愚かなものですから、下記のパウロの言葉は耳が痛いです。
さらに大事なことは、生活の中のすべてのことに神様への感謝を忘れずにいることだと思います。日々、神様から与えられる恵み、例えば食べるものを感謝し、登山をした時はその自然の美しさに感謝し、すべてのことに対して主キリストにあって感謝し、生かされていることを喜ぶことができます。この感謝と喜びがないと、目的達成のためにひたすら走ることばかりで、生活がギスギスし、燃え尽きてしまいます。どんなに気を付けていても、焦点がづれることもあり、また失敗もあるでしょう。そんな弱い愚かな私さえも、神様は見捨てず、寛容に、愛を持って見守り、正しい方向へと導いてくださることに慰めと励ましが与えられています。
「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。・・・そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。 」 エフェソ信徒への手紙5章15-17、20節