見出し画像

先祖を探して

Vol.117 四天王の1人であった後蘭孫八という人(3)


後蘭孫八が船を操り、自由に海に出て交易をして活躍していたであろうという話は研究者の方々の中でも認識されているのですが、石井先生といわれる研究者の方が孫八について新しい見解を出されていました。

私が先祖調査の記録としてブログを始めようと決意した日に、さて何から書こうかと迷っていたところに飛び込んできた新聞記事。
何とそこには、今までに聞いたこともなかった驚きの見解が書かれていたのです。
そのことを書いたのが、私のブログの始まりであるVol.1でした。

ちょっとおさらいしてみますと、以下のような内容だったのです。


石井先生の見解によると、中山の察度王が1394年に明国へ朝貢しており、その時に察度王に仕える首相として亜蘭匏という人が明国へ渡っているのです。これまではこの亜蘭匏は帰化唐人として推測されてきたようなのですが、そもそも唐人は中上級官僚にはなれなかったようです。
そう考えると、まず亜蘭匏は日本人であったこと。そしてこの亜蘭匏は日本語読みで「あらんぽう」とされていますが、福建読みでは「えらぶ」と読むのだそうです。よって、この亜蘭匏は永良部にいた人物、しかも国相として明に数回渡っていることを考えると、それなりの身分であったことがわかり、それを考えると、永良部世之主か後蘭孫八が亜蘭匏であった可能性が高いという見解でした。
当家のご先祖様である世之主が亜蘭匏だった?と、非常に驚いたものでした。

そしてその後に出された見解によると、永良部世之主と後蘭孫八が別々の人物であったと想定した上で、倭寇として海の航海に慣れていた孫八が亜蘭匏だった可能性が高いとおっしゃっています。

当時の琉球からの冊封の品として、馬や硫黄が頻繁に朝貢されています。これは、大陸で戦いの多かった明国では、鉄砲の火薬に使う硫黄は非常に貴重なものであって、馬も同様に重要な物であったため、琉球から頻繁に朝貢の品として運ばれたようです。   
硫黄の産出場所については、Vol.80で硫黄鳥島のことを書いております。

そしてこの亜蘭匏が孫八だった可能性にもう一歩近づける話を子孫の方に伺ったので、次回に書きたいと思います。

がや次はきゅし 楽しみにまちゅれ♬
(では書くのを楽しみにしていてください)

*石井先生の記事や見解は、承諾を得て掲載しております。

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「後蘭孫八」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事