後蘭孫八が亜蘭匏の可能性があったことを書く前に、琉球から明への朝貢の重要な品であった硫黄を採掘していた硫黄鳥島のことについて少し書きたいと思います。
硫黄鳥島というのは、琉球と明・清朝の朝貢関係を繋ぐ重要な島であったわけですが、この島は琉球王朝時代において、泊地頭の下に設置された「泊頭取方」が管轄していたようです。
しかし石井先生の研究によると、明の鄭舜功が1556年に戦国時代の日本に関して情報を収集し編纂した研究書で、日本百科全書である「日本一艦」には、硫黄鳥島に属する本島を河蘭埠と記述しており、これは「えらぶ」と読むのだそうです。ちなみに「河蘭埠」の「河」の文字は「伊」の誤写であると石井先生は記事で書かれています。「伊蘭埠=いらぶ=えらぶ」
そして、琉球国が硫黄を採掘するために琉球国民の「才孤那」らが河蘭埠へ(から?)渡航したが、台湾と広東に漂流して倭人として南京に送り届けられ、そこに琉球使節が来たので一緒に帰国させたと1392年5月の「皇明実録」に書いてあるのだそうです。
硫黄を琉球人が採掘にいくということは、沖永良部島は1392年5月には既に琉球北山国の統治下であったことが分かりますね。
琉球史を調べる場合、基本は琉球側で記された書物を見ていくことが中心となるのですが、どうも記録されていることが史実ではないようなケースもあるようです。そんな中で活躍するのが、中国の書物ということなのですが、石井先生はその漢文を解読されて、琉球側の書物と比較しながら真実を追求されていらっしゃいます。
漢文など読めない私でも、分かりやすい解説でとても参考になっております。もっともっと研究が進んで、琉球史が明らかになっていってほしいですね。
沖永良部島は硫黄鳥島を管轄していて、沖永良部にいた後蘭孫八=亜蘭匏が冊封に関わっていた可能性が高い。そして琉球属国の小さな島である沖永良部島ですが、意外にも重要なポジションにあった島のようです。
これらのことを裏付けるかのように、孫八の子孫の方に大変興味深い話を伺いました。この方が子供の頃に、家に硫黄の塊が沢山あったのだそうです。その硫黄を使って、火をつけたりして遊んでいたのだそうです。
その硫黄がいつから家にあったのか?どうやって入手されたものなのかは全く分からないそうですが、硫黄が家にあったことは覚えてらっしゃるそうです。
これはもしかしたら孫八時代の遺物かもしれません。かりにそうでは無かったとしても、沖永良部島では硫黄は採れませんので、これは硫黄鳥島の物であったのは間違いないでしょう。そしてそれが家にあったのでしたら、何かの形で孫八の子孫の方々がこの硫黄採掘や冊封に関わっていた可能性があります。
硫黄の現物が今でも保管されていれば、調査でもう少し詳しいことが分かったかもしれないのですが、残念ながら現物はもう無いようです。
他に島の古い旧家などに硫黄の塊が発見されたらいいなと、個人的に期待しております。
沖永良部の歴史が分かってくると、当家のご先祖様がもっと明確になってくるのではないかとの期待もあり、関連する歴史を紐解いていっております。
<今日の島の方言>
永良部の方言数の数え方
1,2,3,4,5,6,7,8,9,10
てぃち(tichi) たーてぃ(tachi) みーちぃ ゆーちぃ いちちー むーちぃ ななちー やーちぃ くくぬちぃ とぅー(tuu)
何だか可愛い発音ですね!