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先祖を探して

Vol.198 家紋のこと

当家の家紋は左三つ巴。これは琉球王家と同じ家紋です。
私は当家一族は全てこの家紋を使っているものだとばかり思っておりましたら、先祖調査の過程で繋がりが持つことができた傍系の家が、同じ苗字を名乗っていても家紋は「五七桐」「五七桐 」「下り藤 」など別の物を使っていることが分かりました。
傍系といっても、この3種類の家紋を使われている家は、系統が同じ家々です。

家紋と絡めて宗教についても調べていたのですが、沖永良部島では琉球と同じで伝統的な祖先崇拝がメインです。第二尚氏の尚円王の時代に琉球では仏教が盛んになり、沖永良部島でも琉球の天王寺から観音一体と僧侶一人を招致し、禅王寺を建立しています。(Vol.69に記載)
その後は明治期の廃仏棄釈などを経て、現代になり様々な宗教が入ってきています。
当家の場合は、戒名から見ると真言宗の宗派だったようですが、島を出た親族は別の宗教に変わっている家もあります。

こうして見ると、同じ一族であっても、島を出て別の場所での生活が始まると、新しい家として家紋や宗教を変えてしまったことが分かります。




そして家紋についてはVol.36でも書きましたが、琉球では薩摩が入ってきて以降に士族を中心として使われ始めたようでしたが、島での状況については分かっていません。
しかし琉球王家に関しては、実は第一尚氏の尚巴志の時代から既に左三つ巴の家紋が使われていたことが分かりました。舜天王統初代の舜天王が、源為朝の息子であると言う伝説に因んで、源氏が好んで信仰していた八幡神の加護を得ようして採用していたのだそうです。それが第二尚氏の時代になっても使われ続けていたのですね。
当家がいつの頃からこの家紋を使い始めたのかは全く分からないのですが、島に禅王寺を建立した時期なども考え合わせると、第一尚氏の尚巴志王の時代から既に家紋を使っていた可能性も考えられます。

しかしここで問題となってくるのは、当家がいったいどの世之主の子孫であるのかということです。北山王の次男からの子孫であるのであれば、滅ぼした側の王家の家紋をわざわざ使うのか?
中山王は和睦の船を沖永良部島に出したのに、島の世之主は部下からの合図が無いので攻め込まれたと思い込み自害に至ったことを考えれば、その後の子孫は中山王とは良い関係を結ぶ事ができ、その後もしかしたら婚姻などで一族になっていった可能性もあります。

全く別の考え方としては、北山王の次男であった世之主自害後の子孫は滅亡してしまい、中山の琉球王家の一員の誰かが世之主として島に赴任し、その子孫が当家になるということもあり得ます。全く私の妄想ですが。

しかし、当家のお爺さまが書き残している、「宗家の先祖は中城殿」の意味を考えれば、明らかにご先祖さまは第一か第二尚氏に繋がることになります。

まだまだ簡単には謎は解けそうにありません。こうした様々な情報をつなぎ合わせながら、調査は継続中です。


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