琉球が統一される前の三山時代とは、今帰仁を中心とする『北山』、首里・浦添を中心とする『中山』、糸満を中心とする『南山』、この三つの政権が覇権を競っていて、それが『三山時代』です。
ちなみに三山の「山」とは、国という意味です。「北国・中国・南国」という意味です。
こうして地図で見ると、琉球本土で北山の持っていた領土は大きかったのが分かりますね。この北山王国の範囲としては諸説あって、現代の沖縄本島の国頭九ヶ間切および伊江島、伊是名島、伊平屋島など周辺離島に加えて、最近では鹿児島県に属する与論島と沖永良部島も北山王国の版図に含まれていた事が、琉球の史書や文化的経緯から確実視されています。
そして当家の平安統が1850年に書いた『世之主がなし由緒書』では、前述の範囲に加えて徳之島・奄美大島・喜界島まで北山王の「御領分」にあったとしています。資料によって様々な記述があったりするので、まだ正確なことは分かってはいないようですので、今後の研究が待たれるところです。
そして当家の平安統が1850年に書いた『世之主がなし由緒書』では、前述の範囲に加えて徳之島・奄美大島・喜界島まで北山王の「御領分」にあったとしています。資料によって様々な記述があったりするので、まだ正確なことは分かってはいないようですので、今後の研究が待たれるところです。
その三山の1つであった北山は、歴史上では王統によって前北山時代・中北山時代・後北山時代と3つの時代区分に分けられています。
この北山については、その時代に書かれた正式な史書も無く、民間で伝わる伝承である野史と呼ばれるものや、各地に伝わる文化的なことなどから歴史の研究がなされています。
当家のご先祖様が居住していた沖永良部島については、お隣の与論島と一緒に14世紀に北山領になったということです。
北山騒動
いつの時代の話かははっきりしないようなのですが(恐らく14世紀前期とは言われています)、中北山の時代に次のような話が残されています。
老齢の今帰仁世之主に、待ち望んでいた世継ぎが生まれたそうです。名は千代松。ところが、千代松が生まれてまもなく、重臣の本部大主(もとぶふうぬし)が謀反を起こして、今帰仁世之主は殺され、夫人と側室の志慶真村の乙樽は、幼い千代松を抱いて逃げました。しかし、千代松の母である夫人は体が弱っていて逃げきれないと悟り、千代松を乙樽に託して自分は志慶真川に身を投じてしまったのです。
乙樽は我が子のように愛情を注いで千代松を育て、彼は凛々しい若按司に成長します。18歳になった時に、名前を「丘春」と改め、乙樽に助けられながら旧臣を集め兵を挙げて本部大主を撃ち、城を取り返したのです。
父の仇を討ったのです。これを「北山騒動」というのだそうです。
志慶真乙樽は若按司「丘春」を献身的に支え、また神女としてグスク内外の御嶽の祭祀を司り、グスクの平安を祈ったといいます。
しかし、その後に今帰仁は羽地按司に滅ぼされてしまい、羽地を主とした後北山の時代に入ります。この時に今帰仁世之主が「丘春」だったのかは正式には分からないようですが、今帰仁世之主と羽地按司は従妹同士だったともいいます。ちなみにこの羽地ですが、「兼次」ではないかとの見方もあるようです。羽地であれば羽地内海の奥で遠い場所にあり、兼次であれば今帰仁城下でより密着した場所であるので、説得力があると言われています。
この羽地ですが、中山、南山に続いて明国に1383年に初めて進貢します。その2年後に明の皇帝から王印を授けら、明国から正式に「琉球国北山王」と認められるのです。その王印の行方は分からないそうです。
明国は羽地(もしかしたら兼次)を、その名前の発音から「怕尼芝:はにし」と漢字をあてます。当時の琉球では漢字を使っていませんので、明国の書物に書かれている漢字は、その音からあてられた漢字なのです。
この怕尼芝から三代目の樊安知(はんあんち)までが、後北山の時代です。
今帰仁城は、この樊安知の時代により強固にされたと言われています。
沖永良部島の世之主
当家のご先祖様である沖永良部の世之主と呼ばれた「真松千代」は、北山王の次男と言われています。
しかも、沖永良部が北山領であったため、島からノロ(神女)が年貢を治めに行く時に、自分の姪っ子を同伴し、その姪っ子が北山王に気に入られ、そこで生まれたのが真松千代だというのです。臨月の母が島に戻って真松千代を産み、7歳ごろに父の事を知り、今帰仁に行って息子と認められ城で成長し、成人になって沖永良部の島主として家臣を連れて沖永良部島に帰ってきたということになっています。
この真松千代ですが、北山王の次男というわけですが、どの北山王なのかははっきりしていないのです。樊安知と兄弟であったという説もありますが、現在のところは、
怕尼芝 ➾ 長男:珉 次男:真松千代 三男:与論大主
という説が有力なようです。北山最後の王であった樊安知は、珉の息子で真松千代は樊安知の叔父と立場です。
ちなみに伝承では樊安知には6人の子供がいたと言われています。
長男:仲昔北山太子
次男:志慶間子
三男:外間子
四男:喜屋武久子
五男:虎寿金
次男:志慶間子
次男:志慶間子
三男:外間子
四男:喜屋武久子
五男:虎寿金
次男:志慶間子
沖永良部の世之主「真松千代」には、長男・次男・長女がいたといいます。
北山滅亡時の1416年頃には、真松千代の長男(13歳~16歳位)次男(3歳)長女(5歳)です。長男の年齢は伝わっていないのですが、両親と一緒に自害したところを見れば、昔の年齢で成人していただろうということで16歳説です。
樊安知の子供たちの年齢はわかりませんが、叔父である真松千代の子供たちの方が年下に感じます。真松千代自体が妾の子ということになりますので、もしかしたら叔父とは言えども樊安知よりはずっと年下だったのかもしれません。
真松千代の年齢
年齢のことが気になったのでお爺様の記録を調べていくと、1368年の生まれと書いてありました。これが事実なのかは分かりませんが、そうなると北山滅亡の1416年には48歳です。
年齢的に樊安知の叔父としては成り立ちますね。
真松千代の名前は
真松千代の年齢などから、恐らく怕尼芝の子であった可能性はあるのですが、沖永良部の世之主の名前が真松千代であったということに、私は以前から少し疑問を持っておりました。
それはなぜかというと、この名前が初めて登場するのは当家のご先祖様が書いた世之主がなし由緒書です。1300年代後半生まれの人の名が、1850年に記録上で初めて名前が登場しています。
沖永良部島は文字を持ったのが遅かったとも言われており、それまではずっと口碑伝承が主だったわけです。1700年代に薩摩藩によって聞き取り調査をされた記録2通(Vol.125-126)にも名前は出来てきていません。島に伝わる他のバージョンでの世之主伝説でも真松千代の名前は出てこないのです。
それがいきなり1850年に出てきたという経緯。もしかしたら当家の中で脈々と伝わっていたのかもしれませんが、何となく消化不良というか。
それで、先ほど書いた北山騒動の丘春の名は「千代松」。
そもそも真松千代なんて、何だか大和っぽい名前で琉球時代にはあまりそぐわない名前だなと思っていましたが、丘春の名も千代松。漢字の並びは違いますが、同等の名。(真は身分の高い人につける接頭語ですので、実際にいは松千代)この千代松にしろ真松千代にしろ、この大和風の名前は後世につけられた名前なのではないかと思うのは私だけでしょうか?