北山王の王子であった永良部世之主の子孫であると言われている宗家の家紋は「左三つ巴」です。「左三つ巴」といえば、琉球時代においては琉球王家が使用していた家紋です。
沖縄の家紋事情
基本的には沖縄の家々には家紋はないそうです。
ちょっとびっくりな話ですが、沖縄ではごく一部を除き家紋を持っている家はないそうで、紋付袴なども存在しないそうです。
その理由は、沖縄は古くは「琉球」と呼ばれた独立国家であり、日本とは別の国でした。つまり日本から見て琉球は「外国」であり、日本の習慣である家紋なども元々存在しませんでした。琉球は14世紀以降は中国(当時は清や明)より冊封を受け宗属関係を築いていましたが、1609年に薩摩の侵略を受け、薩摩の属国のような関係にもなりました。以降、薩摩は琉球からも税を取っていましたが、冊封制度による中国から得られる利益を考えて、中国には侵略の事実をひた隠しにし、そのために日本文化が琉球に広まるのを嫌い、家紋の利用を禁止していたそうです。結果としてそれが家紋文化が広まるのを防いだようです。
逆に言えば、日本文化に変えてしまわずに琉球文化を残すことが出来たのは、この政策のおかげだったかもしれませんね。
一部の家は家紋を持っていた
家紋を持っていた一部の人たちというのは、旧琉球王家や身分の高かった士族たちです。薩摩藩士と直接付き合いのあった彼らは、その真似をして家紋を持つようになったようです。
沖縄で一番有名な家紋は、旧琉球王家・尚(しょう)家の「左三つ巴」です。
王家以外の士族の家紋は非常に変わっており、日本本土では見られないようなデザインが多数あるようです。当時は専門の職人などはいなかったので、薩摩藩士の着物などにあった紋をうろ覚えして参考にしながら、独自にデザインしていったようだとのことです。以下に参考文献よりいくつか引用します。
薩摩が入ってきて以降の家紋利用ということになるので、年代的には1609年以降となります。
当家の沖永良部島にある古い日本式(1760年建立)の墓石には、琉球王家の左三つ巴が彫られています。
琉球王直系の子孫ではないはずなので、なぜ琉球王家と同じ家紋を使っていたのかが謎です。
琉球本土にいた士族と同じように、薩摩の真似をして家紋を使うようになったのかもしれませんが、王家の家紋と同じものをそのまま使っている点が非常に気になります。
1つ考えられるのは、当家の宗教であった真言宗に絡むところです。高野山真言宗の中枢ともいえる金剛峯寺が左三つ巴の家紋を使っています。
もしかしたら、当家の先祖は琉球王家というよりも、この真言宗と関わりがあったのかもしれません。
このあたりを調査していくことで、当家の先祖を知る手掛かりになるかもしれません。
様々なところに謎が転がっております。