系図差し出しのパターン
薩摩統治下となった奄美諸島の系図の差出については、①藩の命令によるものと、②与人自ら「訴訟」(お願い・訴え)や、それに類するものの2パターンがあったようです。
琉球王府から派遣された首里の主を始祖とする徳之島の義家系図によると、一族は有力者ということで、1688年に徳之島代官の大島慶左衛門が、系図を調べ家老へもお目にかけたところ、かなりの有力一族ということで、返礼として褒美を下されたため、それを系図に添置いたとあるそうです。
かなりの有力一族だったら系図を見せただけで褒美がもらえる!?ちょっと現代では考えられないですが、、、そんな時代だったのですね。
でも裏をかえせば、系図ってものすごく大事な存在だったわけですね。
身分証明書としての系図や古記録
系図の差出パターンとして、与人自らが提出するパターンの事例が他にもありました。
1691(元禄4)年から1706(宝永3)年までの15年間は、与人は毎年鹿児島に上国を命じられていました。その後は経費節減という表向きの理由で、上国は御慶事等の場合にと不定期になり制限されたそうです。
その最初の上国であった1691年、大島、喜界島、徳之島、沖永良部から与人が上国しています。喜界島の与人は、川峰村居住の郡志頭という人でした。他3人は資料上不明とのことです。
この時に、喜界島の郡志頭が藩主へのお目見を願った際に、「文献3通」を捧げたそうです。結局、この時に藩主は江戸詰めであったため実現しなかったそうで、代わりに本丸で佐多豊州主に御目見したそうです。
この場合に提出した「文献3通」ですが、このような古記録提出は、藩主に御目見するための身分を明らかにするための「披露」であったと考えられるそうです。
確かにこの時代に、公的な書類などあるわけもなく、琉球時代からの身分や家柄を証明するための書類といえば、琉球王府から発行されたものや、家系図、何かしらの古文書などとなりますよね。そういった物を提出することで、自分の身元を薩摩藩へ伝えていたのでしょう。
上国の際の藩主への御目見について少し補足しておきたいと思います。実はこの島役人の最高職であった与人たち、身分は何と農民だったのだそうです。薩摩藩によって、みんな百姓にされてしまっていたのです。もちろん当家のご先祖様も同様であったと思います。
そこで与人たちは、薩摩藩に何度かお願いを申し上げていたそうですが、それは認められず。その代わりに、百姓の身分ではありながら、上国の際には藩主との御目見が許されていたのだそうです。系図や古文書などの差出によって身分を掲示して。
与人たちは百姓で他の島民と同じ身分ではあるが、藩主と御目見ができる立場であるということで差別化を示し、どうにか島での威厳や立場を保っていたのだと思います。
まだ事例は続きますが、それは次回に。