先日の奄美郷土研究会のYさんとの出会いから、歴史研究家の弓削政己先生のことを知り、更に私の先祖調査をサポートしてもらっている親族の方から弓削先生が奄美諸島の系図焼却論に異を唱えていらしたという話を聞きました。
え?奄美諸島の系図は薩摩が島民をだまして提出命令をし焼却してしまったせいで当家も含めて古い系図が無いのでは?
これが今までの認識でしたが、それが違うというのか!?
これはもう是非その内容を知りたいと思い、さっそく先生がお書きになった論文を拝読しました。
その中から読み取った内容は以下のようになります。
徳之島に系図があった
島々に系図の差出命令が薩摩から出たのは、1695(元禄8)年と1706(宝永3)年、ほか数回あったようです。徳之島の「政家系図」は1688年に作られているようですが、その系図が虫食いと字形が確かでなく、子孫も多くなったので自分たちで書き加えることが難しくなったので、義家または政家が1712(正徳2)年春から2年間、徳之島代官所勤務である附役の木上清左衛門に依頼をしているそうです。
薩摩藩が系図の焼却処分を1706年にしていたのなら、まさかそのような依頼はしないでしょう。そして、この家の系図が1706年以降も家に存在していたことを示すものでもあります。
更に、この系図はますます虫食いと出生が多人数となったので、明治9年5月に木場善平という人に頼んで「改之」とあるそうです。古くなった系図を新しくしたようです。歴代の系図がずっと保管されていたことになり、焼却処分はされていなかったのです。
この系図というのは、私が徳之島の調査で出会ったK家の一族の系図のことです。
系図の差出命令の理由
そもそも薩摩藩が系図の差出を命令した背景は、与人層の身分特権に対処するためであったという説を、1988年に石上英一先生が「古奄美諸島社会史料研究の予備的考察」の中で述べられているそうです。
そして系図の差出命令は数回あっているので、焼却論が先行することなくそれぞれの性格を把握する必要があると述べられています。
単純に焼却処分が目的で提出命令が毎回出ていたという偏った認識をせず、真実を見ていく必要があるとうことですね。
系図の差出命令に書かれていた内容
現代文で示すと以下の内容であったようです。
①自分や他の家の系図文書、旧記、あるいは古記録を写したもの、旧記の類、知行古目録坪付(琉球王府の「辞令書」や薩摩藩初期文書の「知行目録」等)などのようなものでも、また、「御家ノ御系図、御家ノ儀」すなわち、島津家の系図や記録などの由緒を記した写など、持っているものは残らず藩に差し出すように。
②今回、差し出さずに、以降、これらの系図文書を証拠にいろいろ申し立てても、取り上げない。
③したがって、正文か、写しかということは、かまわないので、全て差し出すように心得ること。
④系図文書を今回差し出し、藩の記録所で写し終わったら、返却をする。藩が召し上げることはないので、そのことを理解して所持しているものを差し出すように。
⑤系図文書がなくても、先祖の家筋の由緒・家伝がある者は、詳しく書き付けて差し出すように。
⑥寺社のほうも同様である。
以上のことを島中に申し渡し、滞りなく差し出すようにし、書付を取り揃え、代官の「付状」をもって差し出すこと。
これを受けて、大島代官の川上孫右衛門が与人らに充てたのだろうとのこと。この中で、間切中(間切り:村などの区切り)に系図文書がない場合は、ないということを申し出ることなど、系図・古記録等の差出を徹底していたそうです。
③の正文か写しかはかまわないという点はポイントではないでしょうか。焼却処分をするつもりなら、原本を差し出せと言うはずですよね。
ここからも、焼却論はもしかしたら事実ではなかったかも?ということがうっすら見えてきますね。
まだこの件は続きがありますが、それは次回に。