返却されていた系図
奄美大島の大和浜の「和家文書」によると、1529(嘉靖8)年12月25日、1572(隆慶6)年正月18日、1579(万暦7)年5月5日付けの琉球王からの辞令書3点、薩摩家老名の1613(慶長18)年9月24日付けの「知行目録」1点、1623(元和9)年8月25日付けの「大島置目条々」1点の合計5点を、1695(元族8)年に、大島代官伊地知五兵衛へ訴訟のために「差出」しています。その代官は勤務を終え中原伊平衡へ差置し、その写しを和家の川内と東間切渡連の与人であった佐渡地へ1696(元禄9)年9月18日付けで返却しているそうです。
またこの和家の場合だけでなく、奄美諸島全体に返却されている事実が他にもあるようです。そのことが1722(正徳元)年8月、島の与人であった3名が、金・銀の簪の使用を禁止されたことから、歴史的経過を述べている文書の中にあるのです。
沖永良部島与人 平安山
徳之島与人 儀間
喜界島与人 真佐知
1695(元禄8)年に大島御代官伊地知五兵衡取次で差出置いた「写」
を「所持仕居申候」とあり、これは奄美諸島の与人たちに差出した系図と写しを返却したので、与人たちは所持していたと述べていることになります。
郷土格取り立ての名字決定時
奄美諸島で1783年に大島の東間切篠川村の實雄という人が薩摩への貢献が認められ、芝姓を認められ郷土格となっています。
その時の詳細な資料があり、苗字を芝にしたいと申し出たところ、御記録所が吟味することになり、系図と由緒を差し出すように言われ御記録所へ持って行ったが、系図を持ってきていなかったので、経歴のあらましの申し立てで良いとされたそうです。加えて、来春便で持ってくるようにと述べられています。
このように、郷士格取立時の名字決定でも、系図や由緒書などが必要だったわけですが、系図を持参し忘れた、次回持ってくるようにといったやり取りがあるということは、自宅に系図が保有されていたということで、焼却処分はされていなかったことを示しているのです。
こうして、系図や古文書などの資料は、薩摩藩の差出指示によって提出したり、与人などが上国の際の身分証明書として差し出したり、何か訴訟をする場合もその身分証明書として差し出したり、郷士格になり名字をもらう場合にも提出が必要でした。
そうなると、やはり系図の焼却論というのは、状況にそぐわない不思議な話になってしまいますね。
当家のご先祖様も、一代士族として名字をもらっておりますが、その時にもしかしたら系図の差出があったのかもしれません。記録がないので定かではありませんが、このような歴史をみていくと、恐らく差出があったと思われます。
ではなぜ奄美諸島の系図焼却論が史実として扱われるようになったのか?
それは次回に書きたいと思います。