幕末維新の立役者、西郷隆盛が遠島刑となりやってきたのが沖永良部島。この西郷が沖永良部島で過ごしたのは1862年8月から1864年2月までの1年6ヵ月ほどで、その期間に西郷のお世話をしたのが土持政照です。
土持政照は、薩摩藩士であった土持叶之丞綱政の子として1834年に沖永良部島で生まれました。
彼は天保年間に沖永良部島に3度赴任しており、島妻・鶴との間に生まれたのが、土持政照ということになります。
彼は天保年間に沖永良部島に3度赴任しており、島妻・鶴との間に生まれたのが、土持政照ということになります。
成人した政照は間切横目(現代の警察官)という島役人であり、西郷は政照とその母であった鶴の優しさと人柄に感動し、義兄弟の契約を交わすほどに親交がありました。
この土持政照の母であった鶴の旧姓は豊山でしたが、一説にはこの鶴は世之主の子孫であったと伝えられています。世之主の子孫と伝わる当家の宗家一族と豊山家は婚姻関係で親戚であったため、そのせいで世之主の子孫だといわれていたのだろうと思っておりました。
ところが、この鶴の弟には沖島曽勲という人がいます。実の弟ですが、豊山姓ではなく沖島姓です。
これは和泊町誌に掲載されている土持家の系図です。ここに豊山鶴の弟として沖島曽勲の名前があります。
この沖島家ですが、義経お爺さまの記録に宗家一族としての名前がありました。
どういった繋がりかといいますと、沖島曽勲の父親は平安功といいます。平安功は、記録上の宗家2代目:池久保の4男であった朝登が分家して、後に本城姓を名乗ります。本城家の初代が朝登で、5代目にあたるのが平安功です。その平安功の二男が曽勲でした。本来であれば本城曽勲となるところですが、分家して沖島という姓になったようです。
お爺さまの記録には養子に入ったような書き方ではありませんので、おそらく分家して苗字を沖島と別にしたのだと思われます。
そして、姉がなぜ豊山姓であるのか?ここは最大の疑問なのですが、曽勲の長兄であった宗佑熹という人にヒントがありそうです。
この宗佑熹には先妻と後妻がいたようで、後妻が豊山家の豊嶺の娘だったのです。そして、後妻との間にできた子供たちは、妻の実家の豊山姓を名乗っています。後妻の実家に跡継ぎがいなかったのかもしれません。
そういった経緯が兄の家族にはありましたので、もしかしたら豊山靏と沖島曽勲は父親の平安功の後妻の子供たちで、その母親となるのが豊山家の娘だったのかもしれません。ここはあくまでも想像の世界です。
豊山鶴と沖島曽勲は姉と弟の関係で、沖島曽勲は本城家の息子であったことは事実。その本城家は宗家の分家ですから、この姉と弟は宗家の血縁者だということで、世之主の子孫であるということになります。
薩摩支配の世になって、沖永良部島では島にやってくる薩摩の役人に積極的に娘を島妻として推薦していたといいます。その娘たちは殆どが島の有力者の娘であったでしょう。
我が宗家においても、一族の中から島妻となった娘がいたということです。
薩摩の役人とうまくやっていくための政治的な意味もあったのでしょうね。
そして今回分かったことは、西郷隆盛をお世話した土持政照は、宗家の人でもあったということです。それは世之主の子孫であるということです。
ご本人が当時それを把握されていたのかは不明ですが、島の手々知名の墓地には土持政照と沖島曽勲のお墓が並んで建っているそうです。
次回島に行ったときには、お墓参りをして墓前で報告をしたいと思います。